第52章 『相反する感情』(1)
優一の視点
あの屋上を降りるのには、わざと時間をかけた。
残っていた最後の一本の煙草を、意地でも最後まで味わいたかったからだ。
それに、あの病室で待ち受けている光景を、嫌というほど理解していた。
死。
弟の死。
急いだところで何が変わるというのか。
非常階段を下りる。
四階分。
一段ずつ踏みしめながら、僕は気づけば物思いの中に沈んでいた。
これから先、自分が何をするべきかを考えていたのだ。
もちろん、麗華に連絡しなければならない。
もちろん、葬儀会社にも電話をかけなければならない。
もちろん、死体を前に取り乱し、罵り、泣き崩れなければならない。
もちろん、僕は――
その時だった。
白く磨き上げられた廊下を歩いていると、背後から来た医師が風のような勢いで僕の横を通り過ぎた。
ずいぶん慌てているようだったが、特に気には留めなかった。
患者の容体が急変したのだろう。
この病院に入院しているのは海斗だけではないのだから。
再び考える。
麗華は、この件をどう受け止めるだろうか。
おそらく真っ先に犯人探しを始める。
そして、その矛先が僕に向くことはほぼ間違いない。
証拠の有無など関係ない。
あいつの性格を考えれば、そうなる。
元々僕のことを好いていたわけでもないし、この数日で多少関係が和らいだとはいえ、それは仲良くなったという意味ではなかった。
まあ、こちらとしては都合がよかった。
事前に準備は済ませてある。
僕は心の中で笑った。
気分の高揚が身体にも現れたのだろう。
張り詰めていた肩の力が抜ける。
背筋が自然と伸びる。
いつの間にか視線も床から離れていた。
コートの内側を探り、一枚の小さな写真を取り出す。
「調べると言っただろう、海斗」
そこに写っていたのは、一人の少女だった。
「ユナ……」
この切り札があれば、麗華を抑えることもできる。
もし彼女を表舞台に引きずり出せば――
どちらに天秤が傾くのか、嫌でも分かるはずだった。
その時、まただった。
今度は看護師が僕の横を駆け抜けていった。
思わず足を止める。
なぜなら、この階も、この廊下も、その先には海斗の病室しかないからだ。
何があった?
そう思った直後、別の看護師が反対方向へ走っていく。
呼び止めて事情を聞こうかとも考えた。
だが、結局はしなかった。
胸の奥がざわついていた。
言いようのない不安。
僕は再び歩き出した。
ただし、先ほどより少し速く。
今度は二人の看護師が僕を追い越していった。
見慣れない医療機器を載せたカートを押している。
その瞬間、歩調は小走りへと変わった。
気づけば廊下には何人もの医師や看護師が行き交っている。
そして小走りは、すぐに全力疾走へ変わった。
磨き上げられた床で足を滑らせそうになりながらも走る。
そんなことはどうでもよかった。
体裁も、恥も、何もかも捨てて。
あの日、僕は本気で走った。
角を曲がった時には、海斗の病室の扉は開いていた。
入口には医師や看護師たちが群がっている。
事情を聞くことすらせず、人の波を押しのけた。
最後尾の一人を突き飛ばす。
制止の声も、抗議も耳に入らない。
そして――
僕は、それを見た。
何を感じたのかと聞かれても、うまく説明できない。
海斗がいた。
ベッドの上に。
呼吸は明らかに以前よりしっかりしていた。
距離があったにもかかわらず、僕にははっきり分かった。
目が開いていた。
もっとも、その視線はまだ焦点が定まっていなかったが。
医師たちが何か処置をしている。
何をしているのかは分からない。
頭が働かなかった。
誰かが僕の腕を掴む。
何かを言われる。
叱責される。
病室の外へ連れ出そうとしている。
だが、その喧騒の中で僕が探したのは、ただ一人。
大輝だった。
その目は、僕と同じだった。
そして彼の言葉だけが、不思議なほど鮮明に耳へ届く。
「目を覚ました」
声を落として続ける。
「……生きてる」
その場にいた誰一人として、彼の声の震えには気づかなかった。
その言葉に宿る矛盾にも。
焦燥にも。
苦悩にも。
やがて僕は病室の外へ押し出された。
扉が目の前で閉まる。
今の僕は、さぞ間抜けな顔をしていたのだろう。
それでも腕を掴んでいた看護師は、背中を軽く叩きながら何度も言った。
「大丈夫ですよ」
大丈夫?何が?どういう意味で?
胸の中には、説明のつかない感情が渦巻いていた。
不安か。焦りか。
胃の奥に穴が開いたような感覚。
喉の奥に残る苦味。
あれを何と呼ぶのだったか。
――恐怖。
その可能性に思い至った瞬間、僕は笑いそうになった。皮肉なものだ。たった数秒で。勝利は、破滅へと姿を変えるのだから。




