第51章 『空白』
海斗の視点
寒かった。だが、それは身を切るような冷たさではない。もっと緩やかで、皮膚にまとわりつくような寒さだった。長いこと日陰にいたあとのような。
指を動かそうとした。
動いたのかどうか、自分でもわからない。
まぶたが重かった。まるで眠っているあいだに誰かがその上へ硬貨を乗せたかのように。
眠る。
どれほど眠っていたのだろう。
その疑問は、目を開けるよりも先に浮かんできた。
ようやくまぶたを持ち上げると、白い光が頭を貫いた。
白。
すべてが白かった。
天井も、壁も。
反射的に目を閉じる。
眠りたかった。
ひどく疲れていた。
最後に覚えているのは雨だった。
雨……?
そうだ。たぶん。
いや、わからない。
昨日のことだったかもしれないし、一昨日だったかもしれない。
それすら定かではなかった。
目を閉じたまま耳を澄ませると、何かが聞こえた。
声だった。
何かを話している。
少なくとも、そう思った。
まるで水の中にいるようだった。すべてが遠く、くぐもって聞こえる。
言葉は耳に届くのに、意味になる前にほどけて消えていく。
話しかけられていることはわかる。
その音に意味があることもわかる。
だが、それが何を意味しているのかは理解できなかった。
影がひとつ、僕の上に身をかがめた。
腹部を押される感覚。
それから、その人影は後ろへ下がった。
驚いているように見えた。
再びまぶたが重くなる。
あまりにも重い。
そのまま眠りに落ちた。
次に目を開けたとき、また別の声が聞こえた。
女性が何かを言う。
男性がそれに答える。
だが、その言葉はひとつも理解できなかった。
話そうとした。
けれど、舌すら動かなかった。
喉が焼けるように痛い。
唾を飲み込む。
それだけの動作に、信じられないほどの力が必要だった。
――ここはどこだ。
そう尋ねたかった。
だが、身体はもう僕の命令の仕方を忘れてしまったようだった。
再び眠りに落ちる。
そのとき、誰かが叫んだ。
「ご家族に連絡します!」
うるさい。
その声が癪に障った。
待て。
今のはわかった。
その言葉の意味がわかった。
「目を覚ましました」
目を覚ます。
その言葉は妙に耳慣れなかった。
まるで長いあいだ、別の誰かのものだったみたいに。
再び誰かが近づいてくる。
ぼやけた人影。
指でまぶたを開かれ、懐中電灯のような強い光を向けられた。
思わずまた目を閉じる。
抵抗する力もなかった。
「自分の名前はわかりますか?」
名前。
その言葉は――何だっただろう。
名前。
そうだ。
僕の名前。
僕は……。
僕は……。
えっと……。
誰だ?
思い出せない。
何ひとつ思い出せない。
身体も動かせず、言葉も話せない。
奇妙な夢の中にいるようだった。
少しずつ、全身が痛み始める。
首。
喉。
皮膚。
そして何より頭。
混乱していた。
重たい夢うつつの中へ沈み込み、ときおり浮かび上がっては、またすぐに眠りへ引き戻される。
けれど、あの奇妙な感覚が続いていたあいだだけは――
不思議と、心が穏やかだった。




