第50章 『死』(2)
あの会話から四日が過ぎていた。
その間、まともに眠れた日はほとんどなかった。
普通なら断れば済む話だと思うだろう。
だが、俺の立場ではそう簡単な問題ではなかった。
他にどんな選択肢があった?
考え続けた末にたどり着いた結論は一つだけだった。
自分の身を守ること。
もし麗華が海斗を別の病院へ移せば、真実は必ず明るみに出る。そしてそうなったとき、俺はどうなる? この病院はどうなる?
病院のために後ろ暗いことはいくつもやってきた。
だが、今回ばかりは次元が違った。
それでも三日間、ひたすら悩み続けた末に決断した。
他に道はない。
最も合理的な選択だった。
優一さんに頼まれた通り、素早く、そして苦しませずに終わらせる。
そして今、俺はその少年の病室にいた。
一人きりで。
海斗はベッドの上で静かに眠っているように見えた。
俺は長く息を吐き、それから手の中に隠していたものを持ち上げた。
小さな注射器だった。
「痛くはないからな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
わかっている。
独り言だ。
だが、長時間病院にいるせいで身についた悪い癖だった。俺はよく一人で喋る。そして患者が眠っているときでさえ、つい話しかけてしまう。
点滴のラインへ薬液を注入し、注射器を片付ける。
透明な液体がゆっくりと体内へ流れ込んでいくのを見届けた。
十分な時間が経ったと判断すると、俺は何事もなかったかのように病室を後にした。
思ったよりもずっと早く終わった。
それでも背中を流れる汗は止まらなかった。
結果を確認するために残る必要などない。
何が起きるかはわかっていた。
最初の数分は何も起こらない。
病室には心電図モニターの規則正しい電子音だけが響き続ける。
変化はない。
だが、やがて心拍数がわずかに揺らぐ。
ほんの一、二程度の微細な上昇。
それもすぐに正常へ戻る。
三十秒ほどは何事もない。
しかし次の瞬間、心拍数は急激に上昇し始める。
モニターの電子音は鋭く、速くなっていく。
百十を超えた頃には、過剰なストレス反応とアドレナリンの放出によって筋肉が収縮し始める。
指先が小さく痙攣する。
まるで目覚めかけているように見えるかもしれない。
だが違う。
ただの副次的な反応だ。
痙攣はやがて全身へ広がる。
その間にも心拍数は上昇し続ける。
百二十。
百四十。
百六十。
もしかすると唇がわずかに動くことさえあるかもしれない。
そして――
突然。
暴走していた心臓は、まるで糸を断たれたように停止する。
病室には途切れることのない長い電子音だけが響く。
その時になって初めて、
少年は死ぬ。
◇
使用した注射器の処分を確実に済ませたあと、俺は自分の個室に戻っていた。
それから間もなくして――
『コードブルー。コードブルー。五階東病棟一一二号室。コードブルー。』
無機質なアナウンスが院内放送から流れた。
同じ内容が正確に三度繰り返される。
待っていた合図だった。
俺は深く息を吐き、すぐに立ち上がった。
ポケットのポケベルが絶え間なく振動する。
ピッ、ピッ、ピッ、ピッ――
俺はオフィスを飛び出した。
手術用サンダルが、つい先ほどモップがけされた床の上で甲高い音を立てる。
ほどなくして別の看護師が俺の隣を走り始めた。
コードブルーが何を意味するのか。
病院で働く者なら誰でも知っている。
一一二号室へ飛び込む。
耳に飛び込んできたのは、平坦で途切れないモニター音だった。
すでに先客がいた。
当直の看護師だ。
俺より数秒早く到着したのだろう。
彼女は海斗の胸に両手を置き、胸骨圧迫を続けていた。
一、二、三、四――
止める。
そして再び、
一、二、三、四――
だがモニターには何の変化も現れない。
看護師は俺を見ることもなく叫んだ。
「六時五十四分!」
心停止が確認された時刻だった。
こういうケースでは一秒が生死を分ける。
俺は彼女をベッド脇から下がらせた。
ちょうどその時、二人目の看護師が除細動器を載せたカートを押して到着する。
設定が完了したのを確認し、俺は叫んだ。
「離れて!」
バンッ――!
海斗の体が糸の切れた人形のように跳ね上がる。
反応なし。
もう一度。
「離れて!」
バンッ――!
再び体が跳ねる。
だが何も起きない。
その頃には救命チームも到着していた。
麻酔科医。
研修医。
追加の看護師。
無駄話をする者はいない。
短い指示だけが飛び交う。
「アドレナリン一ミリ。」
「挿管。」
「胸骨圧迫継続。」
それでもモニター音は変わらない。
一定で。
無慈悲で。
それがすべてだった。
優一さんの弟は、病院着の胸元を開かれたままそこに横たわっていた。
動かない。
すでに死んでいる。
やがて廊下の放送が止まった。
病院全体に出されていたコードブルーは終了したのだ。
俺は時計を見た。
そして死亡時刻を記録する。
一瞬だけ目を閉じた。
それから静かにうなずく。
心の中で、ただ一つの言葉を繰り返しながら。
――ようやく。
「ご家族への連絡を。あとは私が対応します」
あとは遺体の処置を任せる人間が信頼できる相手であることを確認するだけだった。
だが、それも問題ない。
内心で笑う。
そこまで含めて、すでに手は打ってある。
結局のところ、優一さんの言った通りだった。
思っていたよりも簡単だったのかもしれない。
「兄はまだ院内にいるはずです」
小さく言う。
「最後のお別れをしたいでしょう。皆さんは戻ってください。ここは私が残ります」
救命チームも看護師たちも無言でうなずいた。
そして静かに病室を後にしていく。
ほどなくして部屋には俺だけが残った。
優一が来るのを待ちながら。
機器はすべて停止され、病室には静寂だけが満ちていた。
その時だった。
突然、膝から力が抜けた。
自分でも気づいていなかったが、ずっと極限まで神経を張り詰めていたらしい。
すべてが終わった今、その緊張が一気に消え去った。
まるで古布のように体が重い。
俺は腰を下ろした。
おそらく少し前まで優一さんが使っていた椅子に。
「……ああ」
顔を両手で覆う。
「終わった」
そして俺は、
ほんのひとときだけ眠りに落ちた。




