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第49章  『終わり』

優一の視点


海斗のそばで過ごした四日間のうち、一日目がいちばん退屈しなかった。


いや、勘違いしないでほしい。別に海斗のことが嫌いだったとか、そういうわけじゃない。


理由はもっと単純だった。


病院の空気が息苦しかったのだ。


家族が入院した経験のある人なら、きっとわかると思う。


そうでない人は、少し想像してみてほしい。


真っ白な四方の壁に囲まれた部屋に、一人きりでいる。


聞こえてくる音といえば、心拍モニターの電子音だけ。その音が、家族がまだ生きていることを知らせてくれる。


規則正しく鳴る「ピッ」という音。


最初は気にならなくても、長く聞いているうちに、それは次第にこめかみを叩き続ける槌のように感じられてくる。


そのうえ、ベッドには傷ついた家族が横たわっている。


身動きひとつせず。


自分には回復を早めるために何もできない。


そんな無力感と心配が、少しずつ心を削っていく。


そこに一時間いることを想像してみてほしい。


二時間。


三時間。


四時間。


不安も、後悔も、恐怖も。


それらすべてが消毒液と薬品、それから病気の匂いに混ざり合い、肺に入り込む空気そのものを重くしていた。


まるで、自分にとって最悪の悪夢を映した映像を延々と見せられ続けるようなものだった。


そしてそのときの僕は、まさにそんな部屋の中で、ただ待つことに溺れていた。


一方で、海斗の様子はいつもと変わらなかった。


呼吸はかすかで、胸の動きを確かめるには掛け布団をじっと見つめなければならないほどだった。


むしろ、深く眠っているように見えた。


頭の上部にはまだ包帯が巻かれていて、その隙間からところどころ髪が覗いている。


ただ、お父さんに殴られてできた痣や腫れはかなり引いていて、今では紫色の跡が肌に残っている程度だった。


そのおかげで顔――目元も口元も――は見えるようになっていた。


それでも右手の折れた指には、まだ添え木が当てられていた。


正直なところ、麗華が毎日こんな姿を見続けられる理由はよくわからなかった。


いつも機嫌が悪そうに見えるのも、そのせいなのかもしれない。


それでも僕はそこに残った。


海斗に借りがあったからだ。


黙ったまま彼を見つめた。


海斗のことを考えながら。


そして、自分自身のことを考えながら。


僕がここにいても、海斗の回復の助けにはならない。


それでもせめて、自分が何かをしている気になりたかった。


自分から海斗を見舞いに行った二日目も、状況はほとんど変わらなかった。



それなのに、なぜか前日よりさらに早く病院へ向かった。


もっとも、「早く」と言っても昨日より一時間ほど早かっただけだが。


前日の失敗から学んでいた僕は、今回は手ぶらではなかった。


ジャケットの内ポケットにはトランプが入っていた。


白い病室の中は相変わらずだった。


海斗は横たわったまま。


かすかに呼吸をしているだけ。


僕の過ごし方もほとんど変わらない。


長い時間、海斗を眺める。


そうでないときはトランプで遊ぶか、考え事に沈むか。


そんな時間の繰り返しだった。


どうしてスマホを使わなかったのかと思う人もいるかもしれない。


それについては、山田さんと担当医の忠告に従ったのだ。


仕事以外では、できるだけデジタル画面を見る時間を減らしたほうがいい、と。


実際、そのおかげか、ここ数日の頭痛は少し和らいでいた。


三日目も、前の二日と大差なかった。


違うとすれば、その日は本当に早く来たことくらいだ。


午前十一時。


持ってきたのは、二日間酷使したせいで少しくたびれたトランプと、小さな囲碁セットだった。


片手のひらに収まるほどの大きさしかない。


やることは同じだった。


海斗を眺める。


考え事に沈む。


余った時間でトランプの塔を作っては崩す。


そんなことを繰り返していた。


だが、どんなことでも続けば飽きる。


あるとき、囲碁を打っていた僕は椅子に座り直そうとして身体を動かした。


その拍子に、動かない海斗の手が盤面に触れた。


僕は思わずその光景に見入った。


海斗の指先が、いくつかの黒石の上に乗っていた。


しかも、優勢だったほうの石だ。


ほとんど無意識だった。


僕は手を伸ばし、その冷たい手を取った。


すぐ近くにいる。


まるで、自分の番が来るのを待っているみたいに。


硬くなった指の間に一つ石を挟ませる。


そして僕が導くままに、一手打たせた。


何も言わない。


今度は僕が打つ。


次は海斗。


正確には、僕に動かされる海斗が。


また一手。


そして僕の番。


そこまで来てようやく、自分が何をしているのかに気づいた。


あまりにも馬鹿げた光景で、小さく笑ってしまった。


「お前の兄貴は馬鹿になったらしい」


もちろん返事はない。


静寂だけがそこにあった。


海斗を見つめながら、考え事に沈む。


話してほしいと思った。


一時間でもいい。


いや、一瞬でもいい。


少しだけでいいから、一緒に遊んでほしかった。


けれど海斗は動かない。


まるで――


「まるで、ただ眠ってるだけみたいだな」


僕は小さく呟いた。


それからそっと手を離した。


不思議なことに、そう考えた途端、僕は物音を立てないよう気をつけ始めた。


碁石を置くときでさえ。


本当に彼を起こしてしまうのではないかと恐れるみたいに。


久しぶりに穏やかな一日だった。


まだ気づいていない人もいるかもしれないが、僕がこうしていた理由はただ一つだ。


海斗と一緒にいたかった。


それだけだった。


そこに特別な思惑なんて何もない。


ただ、兄と同じ時間を過ごしたかっただけだ。


四日目はどうだったのか。


まあ、四日目は特別だった。


そして――最後の日だった。


その日は仕事を休んだ。


囲碁セットとトランプを持って病院へ向かい、それに加えて二つほど別のものも持参した。


一つは昨夜コンビニで偶然見つけた小さなボール。


もう一つは菓子箱だった。


四角いものや丸いもの、中には餡の入ったものまである。


海斗がこっそりそれを食べるのが好きだったことは知っている。


実際、そのせいで二つもリュックを駄目にしていた。


僕が金属製の缶を買い与えてようやく、菓子をどう持ち歩けばいいのか覚えたくらいだ。


そんなことを思い出しながら、今の僕は相変わらず役に立たない贈り物を弟に渡していた。あの菓子缶と同じように。


ボールは枕元へ、菓子箱はベッド脇の小さなテーブルへ置く。


そして囲碁盤を取り出しながら言った。


「今朝、お母さんに何を言われたと思う?」


もちろん返事は期待していない。


「庭の花の花びらが昨日より減ってるんだってさ。信じられるか? 毎日一枚ずつ数えてるのかよ」


笑おうとした。けれど出てきたのは咳のような声だった。


「それで犯人を探してこいだって。花びら泥棒をさ」


そこで不意に手が止まった。最初の一石を置こうとしていたところだった。


「……お前のことは聞かなかった」


静寂。


「家を出てから一度もだ。お父さんも、あの日以来お前のことは聞いてない」


正面を見たまま、膝の上に手を置く。


「でも、昔からそうだったな。お父さんは昔から残酷だったし、お母さんもそうだ。変わってて、残酷だ」


疲れたように笑う。


「お前の面倒はいつだって僕任せだった。『あなたなら大丈夫』『弟のこと、ちゃんと見てあげてね』って、毎回そう言ってた」


海斗を見る。


「変な家族だよな。本当に残酷な家族だ」


こうして僕は四日間を海斗と過ごした。


見守った。


話しかけた。


不格好ながら、一緒に遊ぼうともした。


たぶん僕の中のどこかで、埋め合わせをしたかったのだと思う。


自分が与えてしまった苦しみに対する。


時刻は午後四時を回っていた。


その頃、スマートフォンに着信が入った。


「どうした」


『優一様。黒田様へ書類はお渡ししましたが……』


「何かあったか?」


『商談中とのことでして。飛鳥様という秘書の方にお預けしました。会議終了後に直接お渡しくださるそうです』


「ご苦労だった」


通話を切る。


長く息を吐いた。


「これで終わりだな」


海斗へ向き直った。


「麗華がお前の親権に関する書類を受け取った。署名した瞬間から効力が発生する」


背伸びをするように腕を伸ばす。


「会議はあとどれくらい続くんだろうな。十分か、二十分か、三十分か。まあ、間に合えばいいんだけど」


残るのは後始末だけだ。


もう一度海斗を見る。


そして最後に頭を撫でた。


「行かなきゃならない。これが最後だ」


額に手を当てる。


思ったほど冷たくはなかった。


そのまま掌を瞼の上へ滑らせる。ちゃんと閉じていることを確かめるように。


「そうだ。ただ眠ってるだけだ」


穏やかな寝顔だった。


静かな呼吸だった。


それを見ていると、ふと思い出した。


赤ん坊だった海斗を初めて抱いた日のことを。


泣き止ませて、お母さんのベッドの足元で一緒に眠った日のことを。


「ちゃんと泣き止ませてやるから。僕はお前の兄なんだからさ。お前に悪いことなんてしない。もう泣かなくていい。約束する」


病室を出る。


二十歩も進まないうちに大輝を見つけた。


壁にもたれ、廊下の照明をぼんやり眺めていた。


「探しに行く手間が省けた」


そう言うと、大輝はすぐには答えなかった。


僕が目の前まで来てからようやく口を開く。


目を見た。


その奥に疲労が見えた気がした。


「時間切れだな、大輝」


「考えてたんだ」


囁くような声だった。


「それで? 何かわかったか?」


大輝は深く息を吸った。


数秒止めてから吐き出す。


「まず一つ。最初から俺に拒否権なんてなかった。そうだろ?」


僕は頷いた。


「それで? 他には?」


大輝は眉を寄せた。


吐き捨てるように言う。


「お前は善人じゃない」


皮肉だろうか。


嫌味だろうか。


あるいは罵倒か。


それでも僕の表情は固まった。


数日前、自分自身に投げかけた問いだった。


けれど、他人が答えをくれたことが、なぜだか嬉しかった。


「その通りだ」


身体の力が抜ける。


「僕は善人じゃない」


大輝と別れたあと、僕は病院の屋上へ向かった。


待ち時間が長すぎて、ひどく煙草が吸いたくなったのだ。


普段なら使われていない倉庫に隠れて吸う。


だが消毒液と薬品、それに病人の匂いにはもううんざりしていた。


たまには外の空気も悪くない。


そう思った。


屋上の鍵も使用許可も持っている。


大輝が渡してくれたものだ。


夕暮れだった。


太陽が地平線の向こうへ沈み、空を濃い橙色に染める時間。


もっとも、その景色の大半は高層ビルに遮られていたけれど。


十五分ほど経った頃には、煙草を三本半吸い終えていた。


ポケットの中のスマートフォンが震える。


メッセージだった。


『書類が届いたわ。署名も済ませた』


麗華からだった。


『あなたが約束を守ったように、私も自分の約束を守る』


署名と押印の入った書類の写真も添付されている。


「相変わらず簡潔だな」


胃の奥に妙な重さが沈んだ。


だがスマートフォンを閉じる前に、もう一通届く。


短い文だった。


『ありがとう』


その瞬間、胃の重さは嘘のように消えた。


息を吐く。


頭の中の彼女の印象を少しだけ修正する。


そして笑った。


さらにもう一通。


今度は病院からだった。


『ご兄弟様がご逝去されました。謹んでお悔やみ申し上げます――』


僕はさらに深く笑った。


「ゲームオーバーだ。麗華さん、僕の勝ちだ」


ついに太陽は沈み切り、冷たい夜が訪れた。


「はぁ……やっぱり寒いのは嫌いだな」

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