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第48章  『 休息』

優一の視点


 夜が明け始めていた。


 ようやく梅雨が終わった。しかも二週間以上も遅れて。だが、その終わりはどこか肩の力を抜かせるような空気を運んできていた。


 ……少なくとも、僕にはそう感じられた。


 朝から陽の光を浴びると、それだけで少し気分が軽くなる。気持ちは前向きになるのに、同時に妙に心地よくて、怠くて、仕事へ行く気力まで薄れてしまう。


 きっと世界のどこかには、この感覚に共感してくれる人間がいるだろう。


 そんな取り留めのない考えを脇へ追いやる。


 最愛の――いや、もちろん皮肉だ――それでいて恐ろしく美しい義姉さん――こちらは紛れもない事実だ――が出張へ発ってから、すでに半日近くが過ぎていた。


 その事実は、僕にひどく心地いい解放感を与えてくれていた。


 だからこそ、今日は完璧だった。


 こんな気分になったのが、いつ以来なのか思い出せないほどに。


 午前中、いつものように事務所で仕事を片づけたあと、僕は家庭裁判所へ向かった。


 昨日申請した親権移譲の件が、どこまで進んでいるのか確認するためだ。


 もちろん窓口や受付なんかには行かない。代わりに、そこに勤めている知人へ直接連絡を取った。


 返ってきた答えは実に簡潔だった。


「問題ない」


 僕は思わず笑みを浮かべ、その頼みを聞いてくれたことに礼を言った。


 当然、その代わりに大きな「貸し」ができたことも伝えておく。


 それが、藤村の人間が裏で物事を動かす時に使う通貨だった。


 「貸し借り」は、賄賂なんかより遥かに痕跡が残りにくい。


 すべてが順調に進み始めたところで、僕はそのままクリニックへ向かった。


 到着した頃には、すでに午後二時を回っていた。


 本来なら面会時間は決まっている。


 だが、僕はどこにでもいる普通の家族ではないし、海斗もまた普通の患者ではない。


 ここは会員制の私設クリニックであり、院長とも、その息子であり実質的な責任者でもある大輝とも深い付き合いがある。


 そのおかげで、僕は好きな時に、好きなだけ海斗に会うことを許されていた。


 ……もっとも、今の僕を落ち着かなくさせているのは海斗ではない。


 大輝の最近の態度だった。


 昨日の会話以来、あいつは僕のメッセージに一件たりとも返信を寄越していない。


 きっと今頃、僕が持ちかけた頼みについて延々と考え込んでいるのだろう。


 わざわざいつもの埃っぽい倉庫に呼び出したのに、すっぽかされた時はさすがに恥をかいた。


 それでも、最後には折れると分かっていた。


 あいつはいつだってそうだ。


 今のこれは、ただの駄々だ。


 初めて危険なことへ踏み込もうとして怯えている子供の、精一杯の反抗。


 とはいえ、それくらいで僕の機嫌が損なわれることはなかった。


 その日の僕は、自分でも驚くほど気分が軽かった。


 自由だった。


 だから、いつもは意識して無視している受付の女性に、自分から挨拶までしてしまったほどだ。


 彼女は目を丸くしながらも、慌てて挨拶を返してきた。


 そう。


 今日は、すべてがうまく噛み合っているように思える日だった。


 問題は山積みのままなのに、不思議と立ち止まってこう思えてしまう日。


『もう全部どうでもいい。僕はきっと大丈夫だ』


『あれもこれも片づけなきゃいけない。でも、それは明日でいい』


『……はあ、明日か』


『明日になれば、きっと全部もっと良くなってる』


 そんなふうに思えてしまう、数少ない日のひとつだった。


 だから海斗。


 全部、僕に任せてくれ。


 兄ちゃんは、もう答えを見つけた。


 もう心配しなくていい。


 僕はお前を見捨てたりしない。


 母さんに最初に命じられたことを、ちゃんと果たしてみせる。


 ――お前を二度と泣かせない。


 だから信じてくれ。


 兄ちゃんは、お前を失望させない。

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