第47章 『 危うい賭け』(3)
会議を終え、クリニックへ向かっていた頃には、すでに夕方も深くなっていた。今日は特に慌ただしい一日だった。
未成年者の親権変更に関する手続きというのは、本来なら本人が直接出向き、対面で進めなければならないものだ。だからこそ、麗華の代理人として動くために、こちらも相応に手を回し、許可を取り付ける必要があった。もっとも、そのあたりは些細な問題に過ぎない。
そんな状況の中で唯一救いだったのは、思ったほど疲労を感じていないことだった。朝から続いている妙な活力も、気のせいではなく本物らしい。
今、僕はお父さんの車に乗っていた。少し前まで彼と打ち合わせをしていて、自分の車はクリニックに置いたままだったため、帰りは山田さんに送ってもらっている。
車内には静かな空気が流れていた。
だが、赤信号で車が止まった時、不意に山田さんの視線がこちらへ向けられているのを感じた。気づかないふりをしていたものの、さすがに無視できないほど露骨だった。
「山田さん、僕の顔に何かついてますか?」
「えっ……し、失礼しました」
「聞いているんです」
僕はじっと彼を見る。
「さっきからずっとこっちを見ているでしょう。横目で誤魔化しているつもりでも、視線くらい分かります」
山田さんは頬を掻きながら、困ったように笑った。だが答えようとしないので、僕はさらに追及する。
「それで?」
「い、いえ……そういうわけではなくてですね……」
僕は黙ったまま、続きを待った。
やがて山田さんは小さくため息をつく。
「その……」
少しだけこちらへ身を寄せてくる。
「差し出がましいことを申し上げても?」
「まず前を見て運転してください。事故でも起こされたら困ります。それと、あなたは今さら許可を取るまでもなく、昔から十分差し出がましいですよ」
「これはまた手厳しい……優一様は」
山田さんは肩をすくめるように笑い、それから座り直して続けた。
「私は、優一様を長いこと見てきました。まだ小さかった頃から」
僕は軽く頷く。
物心ついた頃には、すでに彼はうちの運転手だった。
「ですから……こう申し上げたら信じていただけますか? 昨日までの優一様とは、どこか雰囲気が違うように見えるんです」
僕は眉をひそめた。
「回りくどいですね。結論は?」
「つまりですね、今日はどこか変わられたように見えるんです。少し肩の力が抜けているというか……よく休めた方のような顔をしている」
僕の反応を見ながら、山田さんはさらに言葉を続ける。
「長年お仕えしてきましたから分かります。今日の優一様は……昨日よりも、ずっと楽しそうに見えます」
一瞬、沈黙が落ちた。
その言葉を聞いた途端、妙に笑いが込み上げてくる。
「楽しそう?」
皮肉っぽく問い返す。
「僕が?」
山田さんは静かに頷いた。
「少なくとも、無関心を装っている人間が見せる顔としては、かなり」
「今のは本当に失礼ですよ」
そう返しながらも、心のどこかでは彼の言葉を否定しきれなかった。
朝から続く、あの妙な高揚感のせいかもしれない。
「昨日、病院に行ったからですかね」
僕は何気なく呟いた。
「病院へ?」
「最近ずっと体調が悪かったんです。異常に疲れやすくて……原因を知りたくなった。医者に言われたことが、少し気を楽にしたのかもしれません」
「何と?」
「命に関わる病気ではないそうです。頭痛も、ただの過労とストレスが原因だと」
そこで僕は小さく笑った。
「ちなみに、医者の一番の助言が何だったと思います?」
山田さんは首を横に振る。
「仕事を辞めろ、だそうです」
僕は低く呟き、そのまま苦笑を漏らした。
「優一様?」
考え込んでいた僕を気遣うように、山田さんが声をかけてくる。
「……別に大したことじゃありません。それと、しばらくは画面を見る時間を減らせとも言われました。仕事のモニターも、スマホも」
「でしたら、医者の言う通りになさるべきです。お身体のことなのですから」
「そうすべきなんでしょうね」
僕は頷いた。
「でも、“すべきこと”と、“できること”は別です。僕には仕事をやめることなんてできない」
山田さんは小さく息をついたが、それ以上は何も言わなかった。
僕の事情を、彼は誰より理解している。
だからだろう。彼は空気を変えるように口調を和らげた。
「ですが、病院へ行かれたことで気持ちが軽くなった、というのは確かにあるのでしょう。とはいえ……私は、それだけではない気がしております」
僕は片眉を上げ、思わず笑みを漏らした。
「山田さん、そろそろ本格的に歳ですね。随分と感傷的になった」
だが山田さんは気にした様子もなく、穏やかに言う。
「それでも分かります。今日の優一様は、昨日より幸せそうです」
そして、どこか意味ありげに微笑みながら続けた。
「……女性でしょう?」
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クリニックに着くまで、それほど時間はかからなかった。
僕が呼び出した倉庫に大輝が姿を現した頃には、すでに煙草を二本吸い終えていた。三本目に火をつけたところで、扉が開く。
「ここ禁煙だって言ったよな」
顔を見るなり、大輝はそう言った。
僕は肩をすくめるだけで答える。
大輝はそれ以上何も言わず、棚に積まれた消毒液のボトルの間を漁り始めた。やがて目当てのものを見つけると、小さく息を吐く。
煙草の箱だった。
「お前の煙草、頭痛くなるんだよ」
一本咥えながら言う。
「高いやつだからね」
「だから合わないんだろ。高すぎるものって昔から苦手なんだよ、俺。安くて雑なのが性に合ってる」
「相変わらず品がないな、大輝」
「親父がこのクリニック建てる前は、俺もこの煙草と同じくらい安っぽい人間だったんだよ。あの頃は楽だった」
そう言いながら、大輝はパレットの下を探り始める。しかし結局見つからなかったらしく、頭を掻きながら立ち上がった。
「けど、このクリニックができてからってもん、面倒な友達ばっか増えた」
僕は黙ってライターを差し出す。
「褒め言葉として受け取っておくよ」
火をつけながら言った。
「それより、随分機嫌が悪そうだね。寝不足?」
大輝は頷き、煙を深く吸い込む。
「その割には、お前は機嫌良さそうじゃん」
大量の煙を吐き出しながら、大きな箱へ背中を預けた。
僕は何も言わなかった。
お互い煙草を吸い終えるまで、ただ沈黙だけが倉庫に漂っていた。
「……どうなんだ」
先に口を開いたのは僕だった。
「海斗は?」
大輝は吸い殻を靴先で踏み潰す。
「特に変化なし。いつ目を覚ますかも分からない」
そう言ってから、口の中に残っていた煙をゆっくり吐き出した。
「そう」
「昏睡患者なんてそんなもんだよ。一日で起きるかもしれないし、一週間後かもしれない。一年後かもしれないし、そのまま目を覚まさない可能性だってある」
僕は小さく頷いた。
「厄介だね」
「まあ」
大輝は続ける。
「痣のほうはほとんど消えた。頭の傷跡もかなり塞がってる。ただ、完全には消えないだろうな」
そこで一度息を吐き、僕を見る。
「……で? 聞きたいことはそれだけか?」
大輝は馬鹿じゃない。
わざわざ倉庫に呼び出した時点で、表では話せない内容だと察している。
「いや」
僕は箱にもたれかかる。
「診断書の件も聞きたい。どこまで隠蔽できてる?」
大輝は意味深に笑った。
「安心しろ。他の医者が直接診察でもしない限り、本当の昏睡理由なんて分からない。このクリニックの記録上じゃ、お前の弟は交通事故でこうなったことになってる。そしてここにいる限り、その設定は崩れない」
そこで目を細める。
「……何だよ急に。俺を疑ってんのか?」
「いや。ただ、状況が変わった」
「どういう意味だ?」
大輝の姿勢が少しだけ変わる。
今までより、明らかに真剣な目だった。
一方の僕は力を抜くように、近くの箱へ寄りかかった。
「僕の義姉さん、麗華のこと覚えてる?」
大輝は即座に頷く。
「あの美人な厄介女?」
少し同情するような目で僕を見た。
「お前も大変だよな。俺も似たような問題抱えてるし」
「どういうこと?」
大輝は後頭部を何度か箱へぶつけ、長いため息を吐く。
「最近、クリニックに若い顔が増えたの気づいたか?」
「君の職員なんて知らないよ」
「研修医だよ。親父が中央大学と繋がっててさ、実習受け入れ頼まれたんだ。断れなかった。親父の命令だし」
「その研修医と問題でも?」
「問題どころじゃない」
大輝の声が少し低くなる。
「少し前、その研修医の一人が、海斗の病室の前をうろついてるのを見つけた」
心臓がわずかに縮む。
「……何かあった?」
「警備に監視させてたんだけど、一瞬目を離した隙に病室へ入ろうとした」
「それは……」
犯人にはすぐ思い当たった。
「麗華か……」
大輝は声を潜める。
「ああ。たぶん、お前の義姉さんの差し金だ」
僕はしばらく考え込んだ。
確かに、彼女には金がある。そして総合病院との繋がりもある以上、学生一人を買収するくらい難しくない。
だが、目的は?
そんな僕の考えを読んだように、大輝は続けた。
「あいつ、海斗の本当の状態を調べたかったんだろ」
「それだけ?」
僕にはまだ意図が掴めなかった。
「麗華さんは医者じゃない。毎日見舞いに来てても、本当に状態が良いのか悪いのか判断できない。あるいは、そもそも俺たちを信用してない」
そこで煙草を取り出そうとして、もう無いことに気づき舌打ちした。
「だから外部の医者に情報を流そうとしたんだ。専門医を直接連れてくるのは禁止されてる。だから研修医に診察させて、情報だけ持ち出させるつもりだった」
「それが問題になるの?」
「なるに決まってるだろ」
大輝の声が鋭くなる。
「研修医でも医者は医者だ。包帯外せば分かる。肩や腕の痣が交通事故じゃなく、棒か何かで殴られた傷だってな」
そこで彼は低く呟いた。
「そうなったら終わりだ」
その震えた声で、僕たちがどれほど危うい場所に立っていたのか理解した。
僕がどう収めたいかなんて関係ない。
そのためには、麗華に真実を知られてはいけなかった。
もし、お父さんが海斗にしたことを彼女が知れば――両家の全面衝突になる。
そして、どちらも無傷では済まない。
「その研修医はどうした? いつの話だ。どうしてすぐ僕に知らせなかった?」
立て続けの問いに、大輝は宥めるように肩へ手を置いた。
「昨日の朝だよ。メッセージ送っただろ?」
そう言ってから、呆れたように笑う。
「“海斗が目を覚ましたって話じゃないなら連絡するな”って返したのお前だぞ」
……覚えていた。
罪悪感が胸を刺す。
あの時、僕はお父さんとの話に集中していて、それどころではなかった。
そして同時に、別のことにも気づく。
昨日、お父さんと話した後、僕は麗華へ連絡を入れた。
親権譲渡を受け入れる、と。
最初は無視されると思っていたが、彼女は一度目の着信で出た。
今なら分かる。
彼女は、僕が研修医の件で追及してくると思ったんだ。
もちろん、全部僕の推測に過ぎない。
ただ、あの異様な早さで電話に出たのは――
「大人しく渡さないなら、こちらにもやり方がある」
そう告げるためだったのかもしれない。
「……なるほど」
僕は小さく呟く。
「何か気づいたのか?」
麗華の動きは完全に予想外だった。
ずっと警戒していたはずなのに、何一つ察知できなかった。
その事実に、彼女への警戒心と同時に、ある種の敬意すら強くなる。
危うく一手取られるところだった。
しかも、攻撃される瞬間まで気づけなかった。
「これから、あいつどう動くと思う?」
大輝が尋ねる。
普通に考えれば、しばらくは動かない。
僕はすでに親権を渡すと約束している。
合理的に考えるなら、その約束が有効な間は様子を見るはずだ。
――だが、麗華は合理的な人間か?
もっと慎重になる必要がある。
「あと四日か」
「四日?」
もし四日後までに約束が果たされなければ、僕は彼女から得た僅かな信頼すら失う。
それどころか、再び裏で動く理由を与えることになる。
そして次は、もっと容赦がない気がした。
今度こそ成功するかもしれない。
もう時間がない。
僕は箱から身体を離し、大輝を真っ直ぐ見た。
「頼みがある」
大輝は黙ったまま、続きを待つ。
「四日後、海斗の親権を麗華へ渡す」
そのまま続けた。
「それ以降、海斗に関する決定権は全て彼女に移る。入院先も、治療方針も全部だ」
大輝の表情が固まる。
ゆっくりと目が見開かれていき、やがて掠れた声を漏らした。
「……は?」
僕は繰り返す。
「麗華が親権を持つ。これはもう覆らない」
沈黙。
大輝の顔が、困惑から disbelief、そして恐怖へ変わっていく。
「いや……待て」
首を振る。
「待て待て待て」
床を見つめ、唇を舐め、それから箱から身体を起こした。
「分かってないだろ、藤村」
指を突きつけてくる。
「真実知られたらどれだけ厄介か」
「大輝、もう後戻りはできない」
「俺を巻き込むな」
声こそ荒げていないが、無理やり抑え込んだ苛立ちが滲んでいた。
「真実知ったあの女が何すると思ってんだ」
分かっている。
麗華は元々このクリニックに好意的じゃない。
しかも感情的な性格だ。
関係者全員へ報復しても不思議じゃない。
「俺をお前らの問題に巻き込むな」
胸を指で押される。
「何とかしろ。他に方法ないだろ」
「聞いてくれ、大輝」
「嫌だ。俺は巻き込まれない。お前に頼まれて協力しただけだ。これ以上は無理だ。絶対に止めろ」
大輝は背を向け、そのまま出て行こうとした。
僕は咄嗟に手首を掴む。
「聞け、大輝。ちゃんと考えはある。君には迷惑かけない」
「そんなわけあるか。真実知られてクリニックが無事で済むと思ってんのか?」
「大丈夫だ。僕が何とかする」
大輝は呆れたように首を振った。
まるで、虚勢を張る人間を見る目だった。
それでも僕は手を離さない。
ここで納得させなければ意味がない。
「じゃあ……お前の父親は?」
掠れた声で問う。
「お前の父親はどうする」
「お父さん?」
僕は天井を見る。
「お父さんは――」
そして大輝へ近づき、耳元で静かに何かを囁いた。
数秒、空気が止まる。
やがて、掴んでいた手首から力が抜け落ちた。
顔色は完全に消えている。
まるで身体の中から何かが抜け落ちたみたいに。
彼は僕の手を振り払おうともしなかった。
「……何を……」
声にもならない吐息のような音だった。
僕はすぐには答えない。
ただ視線を合わせたまま、冗談ではないことだけを理解させる。
それから、静かに笑った。
大輝はゆっくり箱へ寄りかかり直す。
足から力が抜けたみたいだった。
そして視線を落とす。
「安心して。失敗するつもりはない」
僕は淡々と言った。
「……何だかんだ言っても、海斗は僕の弟だから」
けれど大輝は、もう何も答えなかった。




