第47章 『 危うい賭け』(2)
飛鳥は社長室の前で立ち止まり、扉を軽く二度ノックした。
返事を待つことなく、半身だけ入れる程度に扉を開く。
「お連れしました」
中から許可が下りると、僕は彼女のあとに続いて部屋へ入った。
麗華は長いデスクの向こう側に腰を下ろしていた。
意外なことに、その机は驚くほど整頓されていて、書類一枚散らかっていない。端には色ごとに分けられたファイルが、小さな山になって積まれていた。
お父さんの机の惨状とは、まるで別世界だった。
僕は部屋の中央で立ち止まり、軽く頭を下げる。
「おはようございます……」
「頼まれていたものは用意してあるわ」
言い終える前に、麗華が遮った。
相変わらず、挨拶すら返してくれない。
その辺りは、本当にお父さんによく似ている。
嫌味の一つでも言いたくなる衝動を堪えながら、僕は答えた。
「急にお願いしてすみません。何時に出発するかわからなかったので、できるだけ早く手続きを始めたくて」
飛鳥が机の上に置かれていた黄色い封筒を手に取り、僕へ差し出す。
「不足があれば、飛鳥が渡すわ」
麗華はそう言った。
僕は頷き、中身を確認する。
特に問題はなさそうだった。
「はい。必要ならお願いすると思います。それと……」
僕は鞄から別のファイルを取り出し、中の書類を飛鳥へ渡した。
「これは?」と麗華。
「申請書類や各種手続きの書類です。ほら、手続きを始めるための」
もう気づいている人もいるだろうが、以前と比べれば、僕たちの会話はかなり自然になっていた。
もちろん親しい友人同士のようではない。
けれど少なくとも、言葉に露骨な苛立ちはなくなっている。言い争うこともなく、淡々と、それでいて以前より少し柔らかな空気で会話を交わしていた。
麗華は書類を受け取ると、静かに目を通し始めた。
数枚は飛鳥へ渡し、彼女にも確認させる。
彼女を完全に信頼しているのが見て取れた。
「何時に出るんですか?」
答えを知っていながら、僕はあえて尋ねた。
意外にも、麗華は素直に答える。
「昼を過ぎた頃よ」
「本当に八日間なんですか?」
少し踏み込みすぎだとはわかっていた。
けれど、しばらく会えなくなるのだ。だからこそ、この機会を無駄にしたくなかった。
ある意味では、これも別れの挨拶だったのかもしれない。
たぶん僕は、彼女のあの冷淡ささえ恋しくなる。
「ええ」と麗華は答える。
「避けられないものだから」
書類を確認し終えると、どこに署名すればいいのか尋ねてきた。
僕が場所を示すと、今度は彼女のほうから会話を続けた。
「もし私に選べるなら……海斗さんが目を覚ますまでは行きたくなかった」
僕は答えなかった。
「でも、どうにもできないこともあるわ」
「そうですね」と僕は続ける。
「思い通りにならないことなんて、いくらでもあります」
麗華は書類をまとめ直し、今度は直接僕へ手渡した。
「残念だけど、その通りね」
僕はそれを受け取る。
気まずい沈黙が落ちた。
……たぶん、この空気も少し恋しくなる。
「それで、用件は以上?」
どうやら、それが彼女なりの「もう帰って」という意味らしい。
少しくらい関係が改善したのかと思えば、こうして一瞬で期待を打ち砕いてくる。
それでも僕は頷いた。
こういう態度のとき、彼女の考えは絶対に変わらない。もう十分理解している。
「はい。これで全部です」
軽く頭を下げ、それから僕は言った。
「それで?」
「……何が?」
麗華が怪訝そうに眉を寄せる。
「見送りの言葉くらい、ないんですか?」
彼女は目を細めた。
冗談なのか本気なのか、判断しかねているらしい。
やがて諦めたように口を開く。
「四日で親権を渡すって言ったでしょう」
僕は頷いた。
「なら、さっさと約束を果たして。でないと……」
そこで言葉は途切れた。
けれど、その先に続く意味くらい簡単にわかる。
それでも僕はわざと呆れたふりをして、背を向けながら言った。
「やれやれ、世の中そんなに簡単にはいかないみたいですね。でも、もう少しくらい優しくしてくれてもいいと思うんですが。なんだかんだ、僕はあなたを助けようとしてるんですから」
背中に彼女の視線が突き刺さるのを感じた。
「それじゃ、八日後に」
扉へ手をかけた瞬間、麗華が僕を呼び止める。
「優一さん」
振り返る。
そして、不意に――
「……ありがとう」
麗華は小さく頭を下げた。
その光景に、飛鳥が目を見開く。
「へえ」
思わず口元が緩んだ。
「いい傾向じゃないですか」
もしかすると、何も変わらないんじゃない。
ただ、一晩では変われないだけなのかもしれない。
僕は扉を開け、そのまま外へ出ていった。
けれど最後にもう一度だけ振り返り、半ば扉の陰へ隠れるようにしながら、ひとこと付け加える。
「今の顔、もっとしたほうがいいですよ」
「……何のこと?」
「笑った顔です」
表情自体はほとんど変わっていなかった。
それでも、長い時間と数え切れない出来事を経た今ならわかる。
ほんの一瞬だけ。
ほんのわずかな時間だけ。
彼女は確かに、僕へ笑いかけた。
本人は認めないだろうけれど。
しかも不思議なことに、今回はそこに悪意を感じなかった。
僕は何も答えず、そのまま立ち去る。
そして扉を閉めると同時に、体裁と良識が許す限りの速さで、その場から逃げ出した。




