第47章 『 危うい賭け』(1)
優一の視点
自分の用事や仕事の雑務を片づけ、ついでにお母さんのちょっとしたわがままにも付き合ったあと、ようやく僕は麗華が働いているビルへ向かった。
いや、勘違いしないでほしい。ここを発つ最後の日まで、嫌がらせみたいに顔を出し続けようなんてつもりじゃなかった。……まあ、まったくそういう気持ちがなかったと言えば嘘になるけれど。
麗華が出張へ行く前に、どうしても必要なものがあったのだ。個人的な書類と、いくつかの申請書への署名――親権移譲の手続きを始めるための最低限の準備だった。
彼女の勤めるビルは、それほど大きくはない。四階建ての比較的こぢんまりとした建物だ。
一階から三階までは、十五人ほどの社員たちで埋まっていた。典型的なオフィスワーカーたち。目の下には隈を浮かべ、どこか生気のない顔でキーボードを叩いている。
まあ、まだ朝早い時間だ。気持ちはわかる。僕だって、この時間帯は憂鬱だった。
最上階には麗華のオフィスがある。
そこは広々としていて、四つの区画に分かれていた。会議室、社長秘書のデスク、そして当然ながら麗華の執務室。そこだけは完全に壁で仕切られた独立した部屋になっている。
それとは別に待合スペースもあり、僕は今そこで時間を潰していた。
なかなか洒落た空間だった。黒と白を基調にした内装に、ところどころ観葉植物が配置されている。全体的に整然としていて、見ているだけで妙に落ち着く。
それに、ほんのかすかに漂うバニラの香りが、身体の力を静かに抜いてくれる。
……失礼。
たぶんもう気づかれているだろうけれど、僕は昔からこういう癖があった。気づけば視線があちこちへ逸れて、見たものを必要以上に観察してしまう。
悪趣味だという自覚はある。けれど、長年染みついた癖というのは、なかなか抜けないものだった。
そのとき、規則正しい足音が僕の思考を断ち切った。
「藤村さん」
女性の声だった。
「はい?」
現れたのは若い女性だった。
茶色がかった髪は、光の当たり方によっては赤みを帯びて見える。背は小柄で、いかにも言葉遣いが上手そうな雰囲気を持っていた。
そう、この女性は飛鳥――麗華の部下だ。
「麗華さんの準備が整いました」
そう言って、彼女は手で奥を示す。
「こちらへどうぞ」
「どうも」
少なくとも、彼女は友人よりは愛想が良かった。
麗華と違って、飛鳥は表面を取り繕う術を心得ている。もっとも、彼女が僕を快く思っていないことくらい、痛いほどわかっていたけれど。
丁寧に接してくれてはいる。けれど、その言葉の奥に薄く毒が混じっていることも、ちゃんと理解していた。
きっと心の中では、
――なんでこの人がここにいるの?
そんなことでも思っているに違いない。多少表現が違ったとしても、意味は似たようなものだろう。
陰鬱な考えを振り払うように、僕は腕時計へ目を落とした。
時刻は十時十五分前。
聞いた話では、麗華は正午から出張へ出るらしい。
どうしてそんな情報を知っているのかって?
まあ、ちょっとした秘密だ。
飛鳥の小さな背中を追いながら歩いていると、ふと疑問が頭をよぎった。
彼女が最近、病院へ来なくなったことについてだ。
海斗の事故直後、飛鳥もよく病室へ顔を出していた。義姉が一人にならないよう、付き添っていたのだろう。
けれど海斗の昏睡状態が長引くにつれて、彼女の姿を見る機会は徐々に減っていった。
「飛鳥さん、でしたよね」
呼びかけると、飛鳥は足を止め、わずかに振り返った。
「はい?」
ふと、今何をしているのか直接訊いてみたい衝動に駆られた。
だが、どう切り出すべきかわからない。
「率直に聞いても?」
「構いませんよ」
「最近の麗華さん、少し無理をしすぎていると思いませんか?」
飛鳥はわずかに目を細めた。予想外の質問だったのだろう。
「……すみません、意味がよく」
「仕事が終わったあとも、毎日何時間も病院へ通っていたでしょう。長く続けば、さすがに疲れるんじゃないかと思って」
直接探るのが難しいなら、遠回しに聞くしかない。
答えを得られなくても、せめて何か察することができれば十分だった。
飛鳥は一瞬だけ床へ視線を落とし、それから少し声を潜めて言った。
「そうかもしれません。でも、私は友人の決断を尊重していますから」
そう言いかけて、彼女は額へ手を当てた。
「……上司、でしたね」
僕は小さく頷いた。
「ずいぶん大切に思っているんですね。最初の頃は、毎日のように病院へ付き添っていたし」
それが、僕なりの遠回しな問いだった。
飛鳥は静かにため息をつく。
「最初は、そうでした。でも言った通りです。私は上司の決定を尊重しているだけなので」
それ以上、彼女は何も言わなかった。
けれど僕には、それだけで十分だった。だいたいの事情は察せた気がしたからだ。
これ以上踏み込むのは危険だろう。そう判断し、僕はそこで追及をやめた。
それでも、最後に一つだけ伝えておきたいことがあった。
「ありがとうございます」
「……何がですか?」
「海斗に付き添ってくれていたことです」
飛鳥は、わずかに戸惑ったような目で僕を見た。
けれど僕の感情を読み切れなかったのか、結局は淡々とこう返した。
「お気になさらず。海斗さんの一日も早い回復を願っています」
沈黙。
少し長すぎる沈黙だった。
「……僕もです」
最後にそう答えた。




