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第46章  『 決断』(3)

あの頃について、それ以上語るつもりはない。

ただ、一つだけ言えることがあるとすれば――幸せだった、ということだ。


もっとも、よく言われるように、永遠に続くものなんてない。

その脆い平穏も、父の帰宅によって壊された。


父は昔から厳格で、短気な人だった。


幼かった僕でさえ、父の育て方が弟を傷つけていることくらい理解していた。

確かに、海斗は成長するにつれて泣くことは減っていった。けれどその代わり、少しずつ言葉を失っていった。人格の歪みは深刻で、いつしか他人の目をまともに見られなくなっていたほどだ。


それでも、一つだけ変わらなかったことがある。


海斗は、ずっと僕の後ろをついてきた。

僕が気づかないうちに、いつも。


まるで、初めて僕があいつを笑わせた、あの日みたいに。


そして、否定はできない。

僕自身も、そんな海斗の存在に慣れてしまっていた。


赤ん坊だった頃も。

初めてランドセルを買った時も。

中学へ入学した時も。


――最後の最後まで。


麗華と結婚した、その時まで。


海斗はいつも僕の後ろを歩いていて、僕はそんなあいつを横目で確認しながら、置いていかれないよう、少しだけ歩幅を緩めていた。


もしも――

もし、あの日、学校で起きた喧嘩の件で、父ではなく僕に連絡が来ていたなら。きっと、結末は違っていた。


もしも――

もし、黒田家から接触があったあの日、母が父ではなく僕に話をしていたなら。そもそも、この結婚自体が成立していなかったはずだ。


だが、今さらそんなことに意味はない。


起きてしまったことは変えられない。

そして今、父から命令を受け、さらに麗華からも遠回しな最後通告を突きつけられた僕は、どちら側につくのかを決めなければならなかった。


これは、僕の人生でも特に答えを出すのに時間がかかった問題の一つだった。


その時の僕は、会社近くの公園のベンチに座っていた。


時刻は夕方。もう五時近くで、空は茜色に染まり始め、気温も下がってきていた。

それでも僕は動かなかった。


頭の中にあったのは、たった一つの考えだけだ。


――どうする?


時間が遅くなるにつれて、公園からは人影が減っていく。


――どうする?


六時になると街灯がぽつぽつと点灯し始めた。

それでも、僕の頭の中では同じ問いが繰り返される。


――僕は、どうすればいい?


父の側につき、黒田家を敵に回すか。

それとも麗華の側につき、それ以上に厄介な問題へ足を踏み入れるか。


藤村家は甘くない。

それは、汚れ仕事の大半を任されてきた僕自身が、誰より理解していた。


遊んでいた子どもたちも、一人、また一人と帰っていった。

友達同士で連れ立って。あるいは迎えに来た大人と一緒に。


そうして時間だけが過ぎ、公園は完全に静まり返った。


結局、答えは出なかった。

今日はもう帰って眠り、明日改めて決めるべきかもしれない――そんなことを考えていた。


だが、立ち去ろうとした時、公園の遊具の陰に人影が見えた。


近づいてみると、小さな子どもだった。

七歳くらいだろうか。一人きりで、滑り台の裏にしゃがみ込み、石を積み上げたり崩したりしている。


どこか寂しそうだった。


僕はしばらくその子を見つめていたが、すぐに「関係のないことだ」と自分に言い聞かせ、その場を離れた。


車の中は落ち着く。

だが、なぜかエンジンをかける気にはなれなかった。


僕は長いことハンドルを見つめていた。

そして、何気なく再び公園へ視線を向ける。


すると、さっきまで一人だったあの子が、少し年上の子どもの後ろを歩いていた。

二人ともコンビニの袋を手に提げていて、中にはパンが入っているのが見える。


たぶん兄弟なのだろう。

少なくとも、幸せそうには見えた。


弟が兄の後ろを歩く――その光景が、妙に懐かしかった。


もう、あの子は泣いていない。


僕は二人の背中が夜の闇に溶けて消えるまで、じっと見送っていた。


それから携帯電話を取り出す。

気が変わる前に、そのまま通話画面を開いた。


少しだけ躊躇った後、僕はある名前を押した。


呼び出し音がやけに長く続く。

もう出ないかと思った頃、ようやく声が聞こえた。


『……はい』


短い返事だった。

挨拶すらない。


誰と話しているのかは、説明するまでもないだろう。


「麗華さん……海斗の親権を取れるよう、僕が協力します」


沈黙。


聞き取れなかった人間の沈黙ではない。

聞こえすぎるほど聞こえてしまって、それを信じるべきか迷っている人間の沈黙だった。


僕は念を押すように繰り返した。


「聞こえた通りです。僕はあなたに協力する。海斗の親権を取れるように」


『優一さん』


麗華の声がわずかに低くなる。


『……私をからかっているんですか?』


「本当のことを言っています。もっとも、信じられなくても無理はありませんが」


『どうして信用できるんです? あなたに、そんなことをする理由なんてないでしょう』


麗華が僕を好いていないことくらい、理解していた。

だから警戒されるのも当然だ。


僕は慎重に言葉を選ぶ。


「もう一度言います。僕は両親から海斗の親権を引き離して、あなたに渡します。四日ください。それで終わらせます」


一拍置いてから、さらに続けた。


「ただし、その日まで、この件を僕の両親にも第三者にも口外しないでください。もし四日後までに僕が親権の書類を渡せなかった場合、その時は藤村家に対して、あなたの好きなように動いて構いません」


『四日……。時間稼ぎじゃないと、どう証明するんです?』


「仮にそうだったとしても、あなたが失うのは四日だけです。それ以上はありません」


再び沈黙。

今度はさっきより長かった。


『……見返りは?』


僕は小さく息を抜いた。


正直、もっと強く疑われると思っていた。

だが、よく考えれば当然だ。彼女にとって、この提案は断る理由の少ないものだった。


受け入れて損をするわけではない。


麗華はビジネスの世界で生きる人間だ。

価値のある提案かどうかを見極めることには慣れている。


『本当に受け入れるつもりなんですか?』


「まだ受け入れるとは言っていません。何を望むのかを聞いただけです。意味は違います」


僕は、見えない相手に向かって静かに頷いた。


『ですが、仮に受けるとしても問題があります。明日から海外出張なんです。八日ほど日本を離れるので、書類には署名できません』


「延期はできませんか?」


『簡単じゃありません。たとえ私が望んでも』


僕は少し考えるふりをしてから答えた。


「なら、書類はこちらから郵送します」


『……それで法的に問題ないんですか?』


僕は心の中で笑う。


「裁判所側に知り合いがいます。受理されるよう手配しておきます。――麗華さん、返事は?」


短い沈黙。


そして彼女は、もう一度同じ問いを口にした。


『だから、あなたは何を望むんですか?』


「一つだけです」


車の窓越しに夜空を見上げる。

もう完全に日が落ちていた。


疲れ切った身体が、早く帰って休めと悲鳴を上げている。


僕は長く息を吐き、ようやく答えた。


「これから先、何があっても――僕を完全に信じてほしい。それだけです」


危険な賭けだった。

それは間違いない。


だが同時に、成功する可能性も決して低くはなかった。


進むべき方向が決まった今、きっと次の四日間はあっという間に過ぎていくのだろう。


その夜、僕は病院へ行かないことにした。


一つ目の理由は、麗華と海斗に二人きりの時間を与えたかったからだ。

彼女は長い間家を空けることになる。きっと、彼女なりの別れ方が必要なのだろう。


そしてもう一つの理由は、もっと個人的なものだった。


眠りたかったのだ。


頭を十分に冴えさせた状態で、この馬鹿げたゲームの最後の一局に臨むために。


勝たなければならない。

――僕は、自分の命を賭けていたのだから。

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