第46章 『 決断』(2)
僕が善人なのか悪人なのか――そんなことを、僕はずっと考えてきた。
たぶん僕は、世の中の大半のことに、本当の意味では興味を持てない人間なんだと思う。これまでの人生で僕がしてきたことといえば、ただ命令に従うことだけだった。そこに罪悪感はなかったし、達成感のようなものもない。
つまり、僕の行いが善だったとしても、それは誰かにそう命じられたからで、悪だったとしても、やはり誰かにそう命じられたからだ。
それで僕は善人になるのか、悪人になるのか――そんなこと、僕には分からない。
けれど、他にどうしろというのだろう。
僕はそう育てられた。従うことだけが、幼い頃から教え込まれてきた唯一の生き方だった。だから僕も、ただ従って生きることを覚えた。
今でも覚えている。
最初に与えられた命令を。
「弟を泣き止ませなさい」
あの頃、僕は八歳くらいだったと思う。
その日までの僕の人生は、驚くほど単純だった。成長して、勉強して、十分に大人になったら父の会社を継ぐ。退屈なくらい穏やかな人生だった。何にも執着しない僕にとっては、それで十分だった。
けれど、弟が生まれたことで、その予定は全部狂ってしまった。
母の出産はかなりの難産だった。しかも若くして父と結婚したことで身体を壊してしまい、もう二度と子どもを授かれないのではないかと、母は長いこと怯えていたらしい。再び妊娠するまでに、実に八年もの歳月がかかった。
最初の頃、母は本当に嬉しそうだった。
それは、彼女の表情が仮面みたいに見えなかった数少ない瞬間の一つでもある。
もっとも、僕にはその喜びが理解できなかった。二人目も男の子だと分かっていたからなのか。ようやく父に認めてもらえると思ったからなのか。それとも、不妊だと陰で責め続けていた祖母を黙らせられるからなのか。
理由は分からない。
二度目の妊娠は、家にほんの少しの幸福を運んできた。
けれど同時に、大きな問題も連れてきた。
弟の泣き声だった。
出産で疲弊しきっていたうえ、もともと身体の弱かった母に代わって、赤ん坊の世話は主に使用人たちがしていた。
だが、弟には妙な癖があった。
母に抱かれている時しか眠らないのだ。
他の誰かがあやそうとすると、かえって火がついたみたいに泣き始めた。
気の短い母は、ほどなくして自分の息子に嫌気を覚えるようになった。
幸福そうだった表情は少しずつ倦怠に塗り替えられ、弟の世話も、次第に使用人へ任せきりになっていった。
その頃には、父も仕事でほとんど家にいなかった。
だから僕は、毎日毎日、弟の泣き声を聞かされ続けた。
耳を引きちぎってしまいたくなるほどに。
ほんの一瞬でも静寂が手に入るなら、右腕くらい差し出してもいいと、本気で思ったことさえある。
そのせいで、幼かった僕は弟を憎み始めた。
普段は何事にも無関心だった僕が、生まれて初めて抱いた強烈な感情だった。
弟の誕生は、僕の穏やかで予定された人生を壊しただけじゃない。
僕から平穏も、睡眠も奪っていった。
ある夜、騒音に耐えきれなくなった僕は、ベッドから起き上がり、庭へ向かった。
八歳の子どもなりの切実な決意を抱えて。
少しでも静かな場所を求めて、庭で眠るつもりだった。
けれど、弟の部屋の前を通りかかった時、僕は母の姿を見た。
母はベビーベッドに身を屈め、片手でおもちゃを揺らしながら弟をあやしていた。もう片方の手は額に当てられていて、今にもそのまま眠ってしまいそうなほど疲れ切っていた。
使用人は呼んでいなかった。
呼んでも意味がないと、母自身が分かっていたのだ。
その奇妙な光景に見入っていたせいで、母は僕の存在に気づいた。
「眠れないの」
母はぽつりと呟いた。
おもちゃをベビーベッドの中へ落とし、重たい動きで立ち上がると、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
「もううんざりよ、優一」
母は僕の肩に両手を置き、そう言った。
「お母さんを助けて。弟を泣き止ませなさい」
僕は戸惑って瞬きをした。
幼い僕には、母ですらできないことを、自分にどうやってやれというのか、想像もできなかった。
「やり方が分からない」
僕は正直に答えた。
「僕には無理だよ」
母の指が、肩に食い込むほど強くなる。
「優一」
その声を聞いた瞬間、まるで身体のどこかにスイッチが入ったみたいに、僕は反射的に背筋を伸ばしていた。
「命令よ……弟を泣き止ませなさい」
断り方なんて、分からなかった。
母は赤ん坊の部屋の隣にある自室へ戻り、そのまま扉を閉めた。
僕は呆然と立ち尽くし、その閉じられた扉を見つめていた。
いったい、何をしろっていうんだ。
僕は自分の運命を呪い、そして生まれてからずっと僕に厄介事しか運んでこなかった弟を呪った。
小さな踏み台を使って、僕はベビーベッドへ近づいた。
忌々しい弟は、相変わらず意味のない声を漏らしながら、足をばたつかせている。
とても小さかった。
黒い瞳。寝癖みたいに乱れた黒髪。小さな手は、僕の指を二本包めるかどうかというくらいだった。
あの頃の僕にとって、弟は弟ではなく、ただ鬱陶しい未知の生き物でしかなかった。
けれど、母に泣き止ませろと命じられた以上、僕はそれを果たそうとした。
まず、母がしていたように、おもちゃを頭上で揺らしてみた。
効果はなかった。
次に、僕と同じで寒いのが嫌なのかもしれないと思い、毛布をかけてみた。
だが弟は足をばたつかせ、何度も毛布を蹴り飛ばした。そして、さらに激しく泣き始める。
その泣き声の変化に、僕は焦った。
突然、恐怖が背筋を駆け抜ける。
母が怒って部屋から出てきて、僕を叱りつけるんじゃないか――そんな恐怖だった。
僕はベビーベッドを揺らした。
けれど、八歳の腕力では大して動かせない。
その時だった。
母の部屋から足音が聞こえた気がした。
僕は追い詰められた。
小さな声で、赤ん坊に泣き止んでくれと懇願したほどだ。
すると、扉の向こうから怒鳴り声が飛んできた。
「優一!」
涙がこぼれそうになりながら、僕は両手で弟の口を塞いだ。
完全に黙らせることはできなかったが、少なくとも音は少し弱まった。それでも、くぐもった呻き声が指の隙間から漏れていた。
「優一!」
再び母が叫び、今度は壁を叩く音まで響いた。
泣きたかった。
怖かった。
それが、僕が人生で二度目に抱いた強烈な感情だった。
恐怖だ。
口を塞ぐだけでは足りないと思った僕は、踏み台から降り、部屋にあったクッションを掴んだ。
僕が何をしようとしていたのか、もう分かるだろう。
あの頃の僕には、それで窒息するかもしれないなんて理解できていなかった。
けれど、運だけは昔から僕の味方をしてくれない。
クッションを抱えて踏み台に上がろうとした瞬間、僕は足を滑らせた。
自分の足にもつれ、そのまま勢いよくベビーベッドへぶつかり、床へ顔から倒れ込む。
痛かった。
顔を上げようとした時、吹き飛んだクッションが僕の上に落ちてきて、涙が滲んだ。
それでも、母への恐怖が涙を堪えさせた。
もし僕たち二人とも泣いているところを見られたら、母が何をするか分からなかった。
僕は床に座り込み、目を擦った。
その時になって初めて、部屋が静まり返っていることに気づく。
弟はベビーベッドの中から、じっと僕を見つめていた。
小さな黒い瞳に映っていたのは、埃まみれで、寝不足のせいで目の下に隈を作った僕の姿だった。
やがて弟は足をばたつかせ、声を上げて笑った。
聞いたことがない人には分からないかもしれないが、赤ん坊の笑い声というのは、この世で最も心を落ち着かせる音の一つだと思う。
最初、僕はどうしていいか分からず、ただ笑いかけてくる弟を見つめ返していた。
そして、ようやく口から出た言葉は――
「……うまくいった」
ようやく静かになった。
弟はもう泣いていなかった。
そして僕は――認めたくはないけれど、そのことを嬉しいと思っていた。
なぜあんなに満たされた気持ちになったのか、自分でも分からない。
母の命令を果たせたからかもしれない。ようやく眠れると思ったからかもしれない。
あるいは、弟の笑顔を見て嬉しかっただけなのかもしれない。
結局、僕もまた、どこかおかしな生き物だったのだ。
勢いに任せて、僕はいろいろな馬鹿な真似をした。
わざと転ぶふりをしたり、クッションに殴られる芝居をしたり。毛布と喧嘩して、負けたことさえあった気がする。
そして、弟が笑えば笑うほど、僕は満たされていった。
それが、人生で三度目に抱いた強烈な感情だった。
そして、唯一の“良い感情”だった。
やがて睡魔が限界を迎え、僕は立ったまま舟を漕ぎ始めていた。
ベビーベッドへ近づくと、弟は僕に抱き上げてもらいたいと言うみたいに、両腕を伸ばしてきた。
僕は弟を抱き上げた。
八歳の子どもなりに力を振り絞って、なんとかベビーベッドから外へ出す。正直、二度目に落としかけた。
そのまま床へそっと座らせる。
泣き止ませることができた嬉しさで頭がいっぱいだった僕は、その成果を母に見せたくて、急いで母の部屋へ向かった。
けれど、扉を開けた瞬間、僕の熱は冷めた。
母はベッドに横たわり、規則正しい寝息を立てながら深く眠っていた。
風船の空気が抜けるみたいに、胸の高揚がしぼんでいく。
その時、背後から弟の声が聞こえた。
もちろん言葉ではない。いつもの意味不明な喃語だ。
どういうわけか、弟は僕についてきていた。
振り返ると、またあの笑顔を浮かべながら、こちらへ向かって一生懸命に這ってくる。
僕のところまで辿り着くと、弟は僕の足にしがみついた。
僕は、それを振り払おうとは思わなかった。
そして僕自身も、もう眠気で限界だった。
弟を抱き上げ、母のベッドにもたれかかるように床へ座り込み、そのまま弟と一緒に眠った。
あの後のことは、あまり覚えていない。
ただ一つだけ分かっている。
あれは、夜の寒さをそれほど嫌いにならなかった、数少ない夜の一つだった。




