第46章 『 決断』(1)
優一の視点
その朝、僕は遅くに目を覚ました。
腹の奥を、妙な痺れのような感覚が這っている。ほとんど水だけで眠ったせいかもしれないし、ここ数日の悪天候のせいかもしれない。理由はどうあれ、不快ではなかった。むしろ身体が妙に軽く、どこか浮ついたような感覚すらあった。
ありがたいことだった。これから僕は、麗華よりも遥かに厄介な相手と向き合わなければならないのだから。
――父さんだ。
日を追うごとに、海斗の昏睡という嘘をこれ以上維持できないことは明白になっていた。遠からず麗華の忍耐も限界を迎え、藤村家に本格的な圧力をかけてくるだろう。
しかも黒田家は、僕たちにとって軽視できる存在ではない。彼らの要求を、真正面から、しかも長く拒み続けることはできない。
それどころか、あの女の激情的な性格を考えれば、古い家同士の盟約など無視して、敵に回る可能性すら十分にあった。
だから準備が必要だった。
争いを避けるためではない。被害を致命的なものにしないためだ。
父さんとの話し合いは、そのための鍵になる。返答次第で、僕は立つ側を決めなければならない。
麗華か、それとも父さんか。
長い目で見て、どちらについたほうがより面倒が少ないのか――それを。
父さんのオフィスに着いた頃には、すでに昼を回っていた。
案の定、すぐには通されなかった。
父さんは昔からそういう人間だ。向こうが呼べば即座に駆けつけなければならない。だが、こちらから会いに来た場合は、父さんが満足するまで待たされる。
待合室で座っていると、白髪混じりの男が静かに歩み寄ってきた。
「優一様」
柔らかな声だった。
痩せた身体に青白い肌。鉤鼻の男。
「……何ですか、田中さん」
僕がスマホから視線を外したのを見て、田中さんは小さく一礼した。
「旦那様がお待ちです」
低く滑らかな声だった。どこか人を眠らせるような響きがある。
僕は頷き、二歩ほど距離を空けて彼の後をついていった。
長い廊下を進み、並ぶオフィスの横を抜け、階段を上がる。そして重厚な黒木の両開き扉の前で、田中さんは足を止めた。
彼は二度、控えめに扉を叩く。
「藤村様。ご子息がお見えになりました」
返事を待たずに扉を開け、僕を中へ通した。
父さんは巨大な机の奥に座り、書類に没頭していた。
僕が入室しても、顔すら上げない。
田中さんは脇のソファへ静かに腰掛け、小さな本を開いて読み始める。
一方の僕は、父さんの無関心を前にしたまま立ち尽くしていた。
部屋に響くのは、紙をめくる乾いた音だけ。
永遠にも思える数分が過ぎたあと、父さんは書類から目を離さないまま口を開いた。
「それで?」
僕は軽く頭を下げた。
見られていなくとも、礼儀だけは崩さない。
「本日もお変わりなくお過ごしでしょうか、父さん」
返事はない。
僕は続けた。
「少々、厄介な件についてご相談がありまして。以前、父さんから任されていた件です」
「自分一人では解決できない子供だったか?」
興味の欠片もない、冷えた声だった。
「そういうわけではありません。ただ……僕の出した結論が、父さんのお気に召すかどうか、自信がなくて」
そこでようやく、父さんは顔を上げた。
椅子の背にもたれかかると、軋む音が低く響く。
しばらく無言で僕を見つめ、その目にわずかな好奇心が浮かんだ。
「どの“厄介事”の話だ?」
「建設会社の認可か。東京での揉み消しか。それとも本家の我儘か」
僕は思わず瞬きをした。
確かに問題はいくつも抱えている。だが、海斗の件を真っ先に思い出しもしなかったことに、苛立ちを覚えた。
僕はあれほど苦労して動いているというのに。
「海斗の件です」
当然だろう、というつもりで答える。
父さんはわずかに眉を寄せた。
「ああ……それもあったな」
浮かんだ興味は、一瞬で消え失せた。
再び視線を書類へ落とす。
「父さん……」
僕がなおも口を開くと、
「好きに処理しろ」
父さんは僕を見もしないまま言った。
「ただし、黒田家とは敵対するな。それだけだ」
そしてまた紙へ目を戻す。
喉の奥まで、苛立ちがせり上がってきた。
信じられなかった。
そもそもこの惨状を招いたのは父さん自身だ。それなのに、今さら自分には無関係だと言わんばかりの態度を取っている。
堪えきれず、僕はほとんど怒鳴るように言った。
「……あなたの息子でしょう」
辛うじて叫びにはならなかったが、言葉は荒く零れ落ちた。
父さんはゆっくりと顔を上げた。
黒い瞳に浮かんでいるのは、不快感。そしてはっきりとした怒気。
「田中」
「はい、旦那様」
「席を外せ」
田中さんは静かに立ち上がり、僕たち双方へ一礼すると、音も立てずに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
「一つ聞くぞ、優一」
僕は即座に背筋を伸ばした。
「海斗が目を覚ましたら、どうなると思う?」
「混乱はするでしょう」
慎重に言葉を選ぶ。
「ですが、僕が話をします。問題が起きないように」
父さんが何を指しているのか、理解していた。
海斗は単なる事故で昏睡したわけではない。
父さんの命令に逆らった結果、ああなったのだ。
あの夜の衝突は凄惨だった。たとえ今は眠っていても、海斗の憎悪が消えることはないだろう。
目覚めれば、怒り狂うはずだ。
父さんへの恨みを抱えたまま。
そして、それこそが父さんの最も恐れていることだった。
海斗が真実を口にすること。
あの夜に何が起きたのかを暴露すること。
麗華を通じて、黒田家の力を使うこと。
だから僕は慌てて付け加えた。
「絶対に、余計なことは言わせません」
だが父さんは、鼻で笑うように言った。
「余計なこと?」
「そんなもの、私が気にしていると思うのか」
「……え?」
「何を話そうが構わん。誰に話す? 母親か? 父親である私か? 兄であるお前か? 学園長か? 友人か?」
父さんは冷たく言い放つ。
「誰が信じる? 誰があいつのために動く? 誰が怒る?」
小さく鼻を鳴らした。
「私が問題にしているのは、あの息子が私の命令に従わなくなったことだ」
机を指先で何度も叩く。
「黒田家との繋ぎとして価値があったから置いていただけだ。それが私に歯向かい、二度と従わないとまで言った」
父さんは僕を見据えた。
「そんなものが、私に必要だと思うか?」
僕は長く黙り込んだ。
予想外だった。
父さんは真実が露見することを恐れているのではなかった。
そんなこと、どうでもいいのだ。
気に入らなかったのは、海斗が自分に逆らったという事実、それだけ。
だから許さない。
「ですが……息子ですよ」
「もう役に立たん息子だ」
父さんは淡々と言った。
「つまり、もう私の息子ではない」
その意味は、痛いほど分かっていた。
わざわざ言葉にされるまでもない。
長年そばで働いてきたからこそ、父さんが何を意味しているのか理解できる。
僕の視線は宙を彷徨った。
頭の中で必死に打開策を探す。
考えを変えさせるのは不可能に近い。それでも、僕は食い下がった。
「黒田家は……どうするおつもりですか。まさか、関係を切る気では」
そこにだけは、まだ一縷の望みがあった。
しかし父さんは、手をひらひらと振って否定する。
「お前が引き継げ」
「……は?」
父さんは深く息を吐いた。
「海斗は所詮、繋ぎ役だ。黒田家との取引は失えん」
「長男だろうが次男だろうが、向こうの後継者と結婚するのに変わりはない」
「問題など何もない」
「ですが父さん、僕には婚約者がいます。黒鉄家との話はどうするんですか」
「破談にする」
「敵対されるかもしれません」
「黒田と黒鉄、どちらが重要だ?」
父さんは即答した。
「どちらが力を持っている?」
「どちらかを裏切る必要があるなら、切るのは決まっている」
沈黙が落ちた。
父さんがそういう人間だとは知っていた。
だが、黒鉄家との婚約まで、ここまで躊躇なく切り捨てるとは思わなかった。
「結局のところ」
父さんは続ける。
「黒田家が欲しいのは、こちらの影響力と、自分たちの娘に子を産ませることだけだ」
「いずれ正式に場を設けて話を詰める」
僕は反応できなかった。
本当に、海斗をこうも簡単に切り捨てるつもりなのか。
「向こうも受け入れる。間違いない」
父さんは断言した。
「結婚したら、あの麗華という女をできるだけ早く孕ませろ」
そう言って再び書類へ視線を戻す。
僕はその場に立ち尽くしたまま、今聞いた言葉を処理できずにいた。
動かない僕に苛立ったのか、父さんはさらに言った。
「よく聞け、優一」
「お前まで役立たずになれば、私はお前も切る」
「そしてお前の母親をもう一度孕ませる。新しい息子を作る」
「今度は、ちゃんと従う息子をな」
脅しではない。
父さんは脅迫などしない。
ただ、自分がこれから行うことを告げるだけだ。
僕は肺の奥に溜まっていた息を静かに吐き出し、踵を返して扉へ向かった。
「優一」
ドアノブに手をかける直前、父さんが呼び止める。
「……何ですか」
「父親を誇らせてみせろ」
低い声が背中に落ちた。
「結局、お前だけなんだからな。私に残った息子は」




