第45章 『 問い』(2)
あの醜態を晒したあと、なんだかんだで麗華は僕を家の中へ入れてくれた。 諦めの悪い僕を追い返すのは面倒だと思ったのか、それとも玄関先でこれ以上騒がれるのが嫌だったのか。
理由が何であれ、僕にとっては十分だった。 どうせ無理だと思っていたことを一つ通せた。それだけで、小さな勝利みたいに感じられた。
僕が通されたのは、おそらくリビングだろう。 ただ、正直に言えば少し狭く感じた。
キッチンと一続きになった空間で、食卓代わりらしいテーブルの周りに椅子が四脚。その脇には、大きな黒革のソファが壁掛けテレビへ向けて置かれていた。ガラスの引き戸もあり、その向こうは庭に繋がっているらしい。
こんな程度のことで驚くのかと思ったなら、それは黒田家の財力をまだ理解していないということだ。
金持ち――そんな言葉では足りない。
だからこそ親父も、あの家を半ば不可侵の共同経営者みたいに扱っている。 だからこそ僕も、弟と結婚した麗華相手には、ここまで神経を使わざるを得ない。
黒田家の本邸は、一街区丸ごと飲み込むほど広い。 藤村本家の屋敷と並べても遜色がないくらいだ。
それに比べれば、この家はかなり小さい。
……とはいえ、考えてみれば驚くほどのことでもなかった。 海斗を連れて初めてここへ来た時にも、同じ印象を抱いた覚えがある。
あれだけ金を持っていながら、麗華の暮らしぶりは驚くほど普通だった。
もちろん貧乏という意味ではない。 だが、護衛も、専属運転手も、付き従う使用人もいない。彼女ほどの立場なら当然ありそうなものが、ほとんど見当たらなかった。
どうしてだろう、と僕は思う。 彼女は黒田家の一人娘なのに。
実際、彼女のオフィスですら比較的質素だった。 というより、あれは本社ですらない。この街にある支社の一つに過ぎなかった。
そんなふうに僕が部屋を見回していたからだろう。 麗華は炭酸飲料の缶をガラスのテーブルへ乱暴に置いた。
乾いた音が響き、僕は思考から引き戻される。
数回瞬きをして、僕はとりあえず口を開いた。
「……寒いね」
麗華は僕と似たような飲み物を片手に、リビング唯一のソファへ腰を下ろした。
自然と、僕たちは小さな丸テーブルを挟んで向かい合う形になる。
ちなみに、僕は床に座らされていた。
この女、本当にクッション一つ寄越さない。
まあ、歓迎されていないことくらい分かっている。 そういう空気を、麗華は全身から滲ませていた。
そもそも飲み物を出してくれたのだって、玄関で僕が「おもてなし」について嫌味を言ったせいだろう。 その点、缶のままで助かった。もしグラスに注がれていたら、中に唾でも吐かれていそうで怖い。
僕は溜め息を吐き、プライドを飲み込んで会話を再開した。
「いい家だね」
麗華は手の中の缶を見下ろし、小さく舌打ちするとテーブルへ置いた。 どうやら冷蔵庫から適当に取ったせいで、自分の嫌いな飲み物を掴んでしまったらしい。
「ええ」
ようやく彼女は口を開く。
「いい家よ」
「ああ……うん、そうだね」
思わず変な返事になる。
無視されると思っていたのだ。 だから普通に返答されたことに、一瞬だけ調子が狂った。
だが会話を止めるわけにもいかない。
「最近買ったの?」
僕は缶を手に取りながら尋ねた。
麗華は腕を組む。 その表情には、興味とも嫌悪ともつかない色が浮かんでいた。 この女は本当に判別しづらい。
「職場から近かったから買っただけよ」
僕は肩をすくめる。
「そんな顔しないでよ。どうして僕が知ってるのか気になってるんだろ?」
麗華は答えない。
僕はその沈黙を利用して缶を開け、次の言葉を考えた。
「もちろん調べた」
僕はあっさり認める。
「だって君、僕の大事な弟と結婚する相手だったし」
「あなたのこと、ますます理解できなくなってきたわ」
「まあ、ろくな印象じゃないだろうね。でもさ……こういう政略結婚がどういうものか、僕たちはお互い分かってるはずだ。見て見ぬふりをしても、そのうち自分の舌を噛むだけだよ」
麗華は小さく息を吐いた。 そこは彼女も否定しない。
「だから――」
僕は飲みかけの缶を軽く掲げる。
「この縁談に乾杯しようか、義姉さん」
麗華は僕の動きには付き合わなかった。
代わりにソファへ深く凭れ、腕を組んだまま長いこと天井を眺めている。
また無視か、と思った頃になって、ようやく彼女は口を開いた。
「優一さん……どうしてここにいるの?」
「いきなり本題だね」
「言ったでしょう。こういう話がどう進むかくらい、お互い理解してるって」
「麗華さんって、僕のこと嫌いだよね」
彼女は天井から視線を外した。
そして、薄く笑う。
「あなた、そういうのをすぐ個人的に受け取るのね。私は昔からこういう性格よ。言うべきことだけ言って、あとは黙っていてほしいだけ」
僕は空になった缶を静かにテーブルへ置いた。
「僕はあんまり好きじゃないけどね、そういうの」
「まさか、それを聞くためだけに来たの? 自分が嫌われてるかどうかを」
僕は指先でテーブルを軽く叩く。
「冷たいなぁ。聞きたいのはもっと単純なことだよ」
しばらく沈黙が落ちた。
「……どうして海斗と結婚したの?」
一瞬だけ、彼女の表情が強張る。
「藤村家なら、この結婚の利益くらい理解していると思っていたけれど」
「そういう話じゃない」
僕は手をひらひら振った。
「君って、親の言いなりになるタイプには見えないんだよね。ちゃんと自分の意思を持ってそうだ。なのに、どうして受け入れたの?」
麗華は眉を上げ、指先で黒髪を耳へ掛けた。 短い髪でも、一日も経てば多少は乱れるらしい。
「本当に、その質問をするためだけに来たの?」
僕は頷く。
彼女は笑った。 もちろん、優しい笑みではない。
「じゃあ今度は私から聞かせてもらおうかしら」
わざと間を空けてから、柔らかな声で続ける。
「どうしてあなたは、そんなにお父様の奴隷みたいなの?」
今度は僕が黙る番だった。
その問いは、僕が彼女へ投げたものと同じだ。 つまり、自分の意思で動いていないんじゃないか――という示唆。
「……何の話?」
答えるのが早すぎた。
自分でも分かるくらい、声が揺れていた。
麗華は身を乗り出す。 さっき直したばかりの髪が、また頬へ落ちた。
「まさにそういうところ」
僕はどうにか表情を整え、無理やり笑みを作る。 その時になって初めて、自分の唇が冷え切っていることに気づいた。
「まあ……怖いのかもしれないね、親父のことが」
冗談っぽく言ったつもりだった。
だが、麗華の冷たい瞳に見つめられているせいで、思った以上に本音みたいな響きになってしまう。
彼女はソファへ背を預けた。
「なるほど。ただの臆病者なのね」
腹の底に、不快感が突き刺さる。
この女、何様のつもりなんだ。
冷たい態度を取られるくらいなら我慢できる。 だが、侮辱までされて黙っていられるほど僕も出来た人間じゃない。
喉元までせり上がった苛立ちは、そのまま言葉になって飛び出した。
「君だって、相当上手に嘘を吐くよね。じゃなきゃ何? 君も命令されたから結婚したんじゃないの?」
空気が凍りつく。
麗華の表情が一瞬止まり、それから怒りに歪んだ。
――やった。
完全に踏み抜いた。
「……あなた、自分が何を言ってるか分かってるの?」
麗華の声は震えていた。
彼女は立ち上がり、玄関のほうへ数歩歩いて言う。
「話は終わりよ。それだけなら帰って」
僕は思わず溜め息を吐いた。
これだ。 これが僕たちの最大の問題だった。
会話が必ずこうなる。
互いに好感を持っていないからか。 あるいは、昏睡状態の弟の存在が、ずっと会話の裏側に横たわっているからか。 それとも単純に、僕たちが似た者同士で、無駄に意地っ張りだからか。
きっと麗華は、これまで誰にも本音をぶつけられずに生きてきたのだろう。 そして僕もまた、藤村として、誰かに見下されることに慣れていない。
深く息を吸い、帰りたくなる衝動を押し殺す。
「君って本当に短気だよね」
声の調子を整えながら僕は言った。
「感情に引っ張られすぎる。そこが、君と僕の違いだと思う」
僕は空の缶を見つめたまま続ける。
「君は怒ると制御を失う。でも僕は、ちゃんとプライドを飲み込める。だから少なくとも……少しは理性的なんじゃないかな」
笑う。
「だから政略結婚なんて受け入れたんだろうね。誰かか何かに腹を立てて、その捌け口にした」
次の瞬間。
麗華がテーブルを強く叩いた。
僕は再び彼女を見る。
怒っていた。
「あなた、本気で私のことを何か知ってるつもり?」
僕は肩をすくめる。
麗華は呆れたみたいに笑いながら首を振った。 だが彼女が何かを言う前に、僕は先に口を開く。
「本気なの?」
「……何が?」
「弟の親権を取るって話。本当にそのつもり?」
麗華は身体を起こす。
そこで改めて気づいた。 女にしてはかなり背が高い。
「本気だったら、何?」
やっぱり。
だから僕は、次の問いを止められなかった。
「どうして?」
彼女は困惑したように瞬きをする。
僕が本当に気になっていたのは、海斗が目を覚ますかどうかではない。
どうして麗華が、そこまでして彼を目覚めさせたがるのか。
この結婚は、所詮ただの家同士の契約だ。 一緒に暮らした期間だってせいぜい一週間程度。
なのに、彼女は異様なほど執着している。
彼女ほどの立場の人間が、理由もなくここまでするとは思えなかった。
海斗に何を求めている?
どうして親権を欲しがる?
そこまでして、藤村家から何を得たい?
どうして、そこまで彼を心配しているふりをする?
もし本当の目的さえ分かれば、別の形で懐柔できるかもしれない。
僕たちは長い間、無言で見つめ合った。
麗華は僕の質問の真意を測りかねていて、 僕は彼女の本音を暴こうとしていた。
張り詰めた空気は、刃物でも入れば切れてしまいそうだった。
どれほど見つめ合っていたのか分からない。 遠くを走る車の音だけが、微かに耳へ届いていた。
先に沈黙を破ったのは麗華だった。
「……それ、どういう意味?」
「どうして?」
僕は遮るようにもう一度問う。
「どうして弟の親権を欲しがるの?」
「海斗さんに目を覚ましてほしいからよ」
「その先に何があるの?」
「普通のことでしょう?」
「この結婚はただの見せかけだ。海斗が目を覚まして、君に何の得がある?」
だが、麗華の返答は僕を黙らせた。
「帰ってきてほしいから」
「……は?」
何を言われたのか、一瞬理解できなかった。
帰ってきてほしい?
黒田家へでも、何かの利権の場へでもない。
ただ――家へ。
それに何の意味がある?
麗華に何の利益が?
「……何のために?」
間抜けみたいに聞き返す。
麗華は深く息を吐いた。
「海斗さんに目を覚ましてほしい。ただそれだけ。家に帰ってきてほしいの」
僕は言葉を失った。
理解できない。
まるで砂利でも飲み込んだみたいに、喉の奥がざらつく。
本当に、この女には裏がないのか? 打算も、利益も、計算もなく?
……いや、そんなはず――
だが、真剣な麗華の表情を見ているうちに、僕の疑念は少しずつ崩れていった。
「……本当に?」
気づけば、そんな言葉が漏れていた。
麗華は静かに頷く。
その瞬間、喉の奥から妙な音が漏れた。
押し殺した笑い声だった。
「あ……は、は」
そう。 僕は笑っていた。
もちろん麗華を笑ったわけじゃない。
ただ、この状況があまりにも滑稽だった。
僕はずっと、嘘と建前と裏切りの中で生きてきた。 だから、麗華みたいな人間が本当に存在するのだと理解した瞬間、ひどく調子が狂ったのだ。
不快ですらある。
まるで、自分だけが知っていると思っていたゲームのルールを、誰かが勝手に書き換えてしまったみたいだった。
「あはは……」
麗華は眉を顰める。
「頭、おかしいんじゃないの」
だが、その言葉はもう先ほどみたいな脅しには聞こえなかった。
相変わらず冷たい。 けれど、その奥に少し違うものを感じてしまう。
……僕は、この女をどうすればいいんだろう。
笑うのをやめ、僕は首を振って唇を舐めた。
「ねえ、もう本当に帰ってくれない? 疲れたんだけど」
僕は頷く。
だが、いつまでも彼女を見つめたまま立ち上がろうとしない僕に、麗華は怪訝そうに眉を寄せた。
「……何? 顔に何かついてる?」
「いや。ただ、君って本当に変な女だなって思って」
そう言った瞬間だった。
麗華は飲みもしなかった缶を掴み、そのまま僕の頭へ投げつけてきた。
「さっさと帰れ!」
缶は綺麗な放物線を描き、鈍い音を立てて僕のこめかみに直撃する。
「っ、痛……あはは。普通に痛いんだけど」
何なんだ、この女。
せっかく褒めてやったのに。
やっぱりそんなに好きじゃないかもしれない。
海斗はこんな女と、普段どうやって暮らしていたんだろう。
その時だった。
スマートフォンの着信音が鳴る。 誰かから電話らしい。
「仕事?」
麗華は溜め息を吐きながらも応答した。
「……仕事よ」
そのまま廊下へ出ていく。
声量を抑えているせいで、僕には「急すぎる」とか「どれくらいの期間?」みたいな断片しか聞き取れなかった。
僕はしばらく彼女を眺めていた。
……まあ、否定はしない。 見ていた理由の半分くらいは見た目だ。
誰が責められる?
麗華は大人の女だった。 しかも、若い女と比べても引けを取らないくらい身体つきがいい。
長く形の整った脚は薄い黒のストッキングに包まれ、まるで第二の皮膚みたいに脚線を際立たせている。 仕事帰りらしいタイトスカートは太腿の半ばまでしかなく、廊下の灯りが布地の艶を淡く浮かび上がらせていた。
細い腰。 その上には、白いブラウス越しにも分かるほど豊かな胸。 そして、歩くたびに揺れる丸みのある腰つき。
全部が上品で、抑制されていて、 それなのに妙に色気がある。
細い黒縁の眼鏡もそうだ。 知的で冷たい印象を与えるくせに、少し俯くと鼻先へずり落ちる。
短い漆黒の髪は、一日の終わりで少し乱れていた。 頬や首筋へ落ちる髪を、空いた手で払い除ける仕草にすら妙な艶っぽさがある。
……まあ、男なら誰だって見てしまうだろう。
とはいえ、弟への義理もある。 だから僕も、あまり凝視しないようにしておく。
そもそも昔から、女にはそこまで興味がない。 面倒事も頭痛の種も増えるだけだし、当然といえば当然だ。
目的は果たした。 聞きたいことも聞けた。
だから僕は立ち上がる。
心が、少しだけ軽かった。
頭の中に溜まっていた靄が、少し晴れたような感覚。
僕は裏を探しに来た。 なのに持ち帰ることになったのは、想像もしなかったものだった。
本当に変な女だ。
他人を本気で心配できる人間なんて、 僕にはまるで未知の生き物みたいだった。
麗華が電話を続ける中、僕は静かに玄関へ向かう。
彼女がこちらを見たので、僕は軽く手を振った。
「悪いけど、これ以上は長居できないや」
すると麗華は、露骨に苛立ったみたいに舌打ちした。
……もう少しくらい、からかってやってもいいかもしれない。
この数日、散々振り回されたんだ。 まだ借りは返しきれていない。
世の中にはいくつか確実なことがある。
毎朝太陽が昇ること。 そして――
藤村ほど執念深い人間はいないということだ。
とはいえ、その日はそれ以上何もしなかった。




