第45章 『 問い』(1)
優一の視点
夜だった。嵐のような雨が過ぎ去ったあとの、あの独特な風の吹きつけが、骨の芯まで冷やしてくる。歯は小刻みに鳴り、少しでも熱を逃がすまいと背を丸め、吐き出した白い息は街灯の逆光の中で白く滲んだ。
要するに、気分は最悪だった。僕を知る人間なら「また大袈裟に騒いでる」と言うだろうし、実際その通りでもある。僕は昔からそういう人間だ。
だが、他にどうしろというのか。
機嫌が悪い。そしてその原因は、ある女だった。 僕をここまで振り回せるのは、あの女しかいない。
腕時計を見る。
「もうすぐ十時か……」
呟いた。
それなのに、その女はまだ現れない。
誰のことかは、もう察しがつくだろう。麗華だ。
その時の僕は、まるで悪徳集金人みたいに、彼女の家を囲う塀に張り付くようにして立っていた。帰ってきた彼女を見逃さない程度には門に近く、だが不審者だと思われない程度には距離を取る――そんな中途半端な位置だ。
麗華の顔を見なくなって、もう三日になる。
弟の様子だけは欠かさず見ていたが、彼女が病院へ来る時間帯だけは避けていた。
なぜか。
僕たちの関係には、一度距離を置く時間が必要だと分かっていたからだ。互いの存在に、互いが息苦しくなっていた。 それに、その間に考えたかった。彼女が海斗の親権を求めているという問題を、どう片付けるべきかを。
そして今、僕の頭の中には一つの答えがあった。 もし思惑通りに進めば、これで全部終わらせられる。
だがその前に、どうしても麗華に確かめなければならないことがあった。
その問いに対する彼女の答えが、この問題の結末を決める。
二度目に時計へ目を落とした時、僕は思わず舌打ちした。
「十時ちょうどかよ」
夜が更けるほど、寒さは増していく。 あるいは、長く待たされている苛立ちのせいかもしれなかった。
少しでも身体を温めようと、吸いかけの煙草の箱を取り出す。 だがライターを探ろうとした瞬間、指先の震えで手元が狂い、ぽとりと地面へ落としてしまった。
驚いて、半ば反射的にそれを蹴ってしまう。 ライターは濡れた歩道の上を滑るように転がっていった。
僕は溜め息を吐いた。
「……今日はついてないな」
本当にそうだった。
ライターを拾おうと身を屈めた時、目の前を小さな子犬が横切っていったのだ。
野良犬だろうか。 黒い毛並みで、少し痩せて見える。
そいつは地面のライターを見るや否や、ぱっと駆け寄り、口にくわえた。
熱いものに触れたみたいに、僕は咄嗟に手を引っ込める。
いや、勘違いしないでほしい。 別に犬が嫌いなわけじゃない。
ただ、あまりいい記憶がないだけだ。
結局、僕は何もできず、その犬がライターをくわえたまま去っていくのを見送るしかなかった。
しかも最悪なことに、その直後、視界の端を黒いスポーツカーが横切った。
間違いなく彼女だ。
だが車は僕に気づくことなく、そのままガレージの自動扉へと吸い込まれていった。
僕は間抜けみたいに立ち尽くしたまま、再び閉じていくガレージの扉を見ていた。
胸の奥を、鈍い失望が刺す。
ようやく我に返った時、僕は吐き捨てるように呟いた。
「くそっ……」
叫びたかった。 というか、なんだったんだ、今までの待ち時間は。
そもそも僕が麗華の家の前で待ち伏せしていたのは、僕たちの関係が良好とは程遠かったからだ。 彼女が僕と話したがっていないことくらい分かっている。だから、話すには半ば強引にでも機会を作るしかなかった。
なのに、その機会を逃した今、どう動けばいいのか分からない。
あの女は、本気で僕を締め出すことくらい平然とやる。
病院で話すのも気が進まなかった。 ここ数日で気づいたのだ。病院にいる時の彼女は、いつも以上に機嫌が悪い。
無理もないのかもしれない。
あの病室には、頭の大半を包帯で覆われ、死にかけた海斗が横たわっているのだから。
もう帰れ、と心のどこかが囁く。
だが別の声が、それを否定した。
もう時間がない。
このままでは、本当に麗華は海斗の親権の件を親父に持ち込む。
だから、さっきまで以上に荒んだ気分のまま、僕は玄関へ向かった。
彼女が車を降り、家の中へ入って少し落ち着くくらいの時間だけ待つ。
それからインターホンを押した。
数秒待って、もう一度押す。
さらに待つ。
……だが、返事はない。
分かっていた。 やはり家へ入る前に捕まえるべきだったのだ。
門の脇には、最近よくあるタイプのインターホンが付いていた。小さなカメラとマイクが内蔵されているやつだ。
つまり、外にいるのが僕だということは、とっくに気づかれている。
それでも僕はマイクへ顔を寄せ、声をかけた。
「その……麗華さん、僕です。優一……藤村優一です。少し話したいことがあって」
数秒待つ。
「頼む、開けてくれ」
返事はない。
埒が明かないと悟り、別の手を試すことにした。
もう一度インターホンを押す。 一回、二回。
少し待ち、それから今度は、まるで命でも懸かっているみたいな勢いで四回連続で鳴らした。
すると、ようやくインターホン越しに声が返ってきた。
『それ以上やったら、壊れるわよ』
相変わらず冷え切った声だった。
それでも、本当に応答してきたというだけで、思わず笑みが漏れそうになる。
だが余計な感情を振り払い、僕は急いで言葉を重ねた。
「麗華さん、どうしても話したいことがあるんだ。そんなに時間は取らせない。なんなら、外に出てきてくれるだけでいい。門のところで話せるから」
『時間がかからないなら、そのままそこで話して』
……まあ、そう来るよな。
悪態を飲み込み、僕はなおも食い下がった。
「本気でインターホン越しに話すつもりか?」
返事はない。
「本当にすぐ終わる。大事な話なんだ」
『クリニックの件?』
「いや、それは……」
『なら、明日でいいでしょう』
マイクから指を離した時特有の、あの小さなノイズ音が聞こえた。
駄目だ。 全部無駄だ。
もう二度と返事は返ってこない。
そういう女なのだ、麗華は。 会話を一方的に切る。
きっと友達も少ないに違いない――本気でそう思った。
それでも、明日まで待っている余裕はなかった。
正直、あと何日猶予があるのかは分からない。 だが人生経験上、一つだけ確信していることがある。
最善の結果というのは、時間がない前提で動いた時にこそ手に入る。
だから僕は数歩後ろへ下がり、家を見上げながら考え込んだ。
その時、不意に視線が石造りの塀へ向く。
そして、一つの考えが頭をよぎった。
胃のあたりが重くなる。
「……馬鹿げてる」
そう呟いたものの、同時に、案外うまくいくかもしれないとも思ってしまった。
自分がどれほど追い詰められているかくらい、理解している。 この会話で、今後どうするかを決めなければならないのだ。
もう全部、終わらせる時だった。
僕は深く息を吐き、石塀へ歩み寄った。
そこまで高くはない。 だが、屋敷の中を隠すには十分な高さだった。
慎重に塀を観察し、腕を限界まで伸ばす。 指先でも引っ掛けられるような出っ張りを探した。
時間はかからなかった。
石の継ぎ目に足先を掛け、勢いをつける。 運よくしっかり掴めた。
一回目は成功だ。
同じ動作を繰り返す。 手を伸ばし、足で壁を蹴って身体を持ち上げる。
だが、その日は雨だった。
石には長く湿気が残っていた。
三度目か四度目の時だった。 指が滑る。
気づいた時には、僕は地面へ落ちていた。
「っ、あ……!」
衝撃で息が詰まる。
鈍い痛みが背中から首筋、そして片方の手首へと広がっていった。
痛い。
昔から、痛みとは相性が悪い。
だから僕は、情けなくて、腹立たしくて、痛みに顔を歪めながら、しばらく地面に寝転がったまま、あの女への悪態を心の中で並べ続けていた。
街灯の光が暗い夜を白く塗り潰していて、星も雲の輪郭も見えない。
だが、その時――
「……あなた、自分が何をしてるか分かってるの?」
鋭い声が横から降ってきた。
そう、麗華だった。
横目に見えた彼女の顔。 冷えた黒い瞳。 細く結ばれた赤い唇。 そして怒った時にだけ眉間へ刻まれる、あの小さな皺。
それを見た瞬間、僕は笑ってしまった。
――本当に、笑ったのだ。
まるで、久しぶりに旧友と再会したみたいに。
最後に彼女を見てから、まだ三日しか経っていないというのに。
それでも、なぜだか少しだけ懐かしく感じた。




