第44章 『 憶測 』
優一の視点
空が翳り始めた頃には、もう正午近くになっていた。
本来なら、とっくに梅雨は明けていていい時期だ。だが、今年はどうやら例年より長引くらしい。
正直、寒さは嫌いだった。
気分が妙に湿っぽくなるし、手足の奥に、得体の知れない倦怠感がまとわりつく。
その一方で、最後に麗華と顔を合わせてから、すでに二日が経っていた。
以前のように、あからさまに彼女へ干渉することはしていない。むしろ、適度な距離を保っていると言っていい。
だが、それは監視をやめたという意味ではなかった。
いつ彼女が海斗の事故についての嘘を崩しかねない行動に出るかわからない――その事実が、ずっと僕の神経を擦り減らしていた。
追い詰められ、張り詰め、崩れる寸前だった。
今日ひどく疲れているのも、そのせいだろう。
雨のせいで冷え込み始めた車内で、僕は両腕を抱き寄せ、シートへ深く身体を沈めた。
エアコンの暖気が全身へ広がっていく。
その急激な温度差に、思わず身震いした。
それから間もなくして、僕はうとうとと舟を漕ぎ始めていた。
「優一様」
隣から声がした。
僕が反応しないと見るや、その声の主は軽く肩を揺すり、今度は少し切迫した調子で呼びかけてくる。
「優一様、優一様!」
これ以上、眠ったふりを続けるのは無理だった。
僕は溜め息をつき、冷えた声で応じる。
「……何ですか、山田さん」
僕の声音に滲んだ苛立ちに、山田さんは気まずそうな顔をして黙り込んだ。
山田健人。
父に長年仕えている運転手の一人だった。
五十は過ぎているはずだが、痩せぎすの身体に細い目、青白い顔色をしているわりに、髪には一本の白髪もない。
年齢を感じさせるのは、顔に刻まれた皺だけだった。
それに彼は、僕が多少の無礼を許している唯一の使用人でもある。
海斗も僕も、幼い頃からずっと彼に送り迎えをされて育った。
半ば家族のような存在だった。
沈黙が重苦しくなり始めた頃、僕はゆっくり身体を起こした。
「それで?」
フロントガラスに、最初の雨粒が弾ける。
視界の端で、山田さんがハンドルを握り直すのが見えた。
「差し出がましいようですが、優一様。勤務中に居眠りされているのを見たのは初めてです。……お加減でも悪いのではありませんか。顔色も優れませんし」
そんなに酷い顔をしていたのか。
熱があるわけではない。
だが、身体の芯に、妙な不快感がこびりついているのは確かだった。
それでも、そこまで露骨に出ていたとは。
僕はすぐに結論へ辿り着いた。
――ああ。
原因は決まっている。
麗華だ。
あの女のせいで、僕はここまで神経を擦り減らしている。
気を揉み、疲弊し、くだらない思考を延々と巡らせ、まるで道化みたいな真似までして。
「……あの女には、ほんと病気にされるな」
考えるより先に、言葉が漏れていた。
「え?」
「いえ、何でもありません、山田さん。たぶんあなたの言う通りなんでしょう。でも病気じゃない。ただ仕事で疲れてるだけです」
「でしたら、お屋敷へ戻って休まれては。旦那様には私からお伝えしますので」
「冗談じゃない」
背筋に、ぞっとするような寒気が走った。
「そこまで具合が悪いわけじゃありません。ただ少し……仕事から逃げ出したいだけです」
「“仕事から逃げる”、優一様がですか」
「ええ。父からも母からも。……はぁ、全部から」
山田さんは絶句した。
何か言いかけては飲み込み、慎重に言葉を選んだ末に、ぽつりと漏らす。
「旦那様が聞いたら、大変なことになりますよ」
「あるいは慈悲深く病院送りにしてくれるかもしれませんよ」
僕は遮るように言った。
「あの人は何をするかわからない」
だが、その点に関しては冗談ではなかった。
実際、それが理由で、父との打ち合わせが終わって一時間近く経つ今も、僕はまだ車から降りていない。
疲れていた。
今朝は仕事量が倍増し、昨夜もろくに眠れていない。
だからせめて数分くらい、会社から逃げていたかった。
僕だって人間だ。
たまには、そういう願望くらい抱く。
「いえ、いえ……」
山田さんは慌てて首を振った。
「旦那様には聞かれませんように」
「父、ね」
僕は鼻で笑った。
「僕の抱えてる問題の大半、あの人が原因だって知ってます?」
「優一様!」
僕は笑みを浮かべる。
「告げ口しますか?」
「まさか。私は藤村家に仕える身です。ご家族の間に波風を立てるような真似は望みません」
僕はしばらく無言で彼を見つめた。
「偽善者だ」
その言葉に、山田さんの口元が強張る。
彼が何か言い返そうとする前に、僕は手を振って話題を変えた。
「それで。母はどう思ってるんです? 海斗が家を出てからは、あなたが母専属だったでしょう」
「もちろんご心配されています。奥様がどれほどお子様方を愛しておられるか、優一様もご存じのはずです」
それを聞いた瞬間、笑いそうになった。
「愛してる……ですか」
僕は低く呟く。
「ええ、母は何でも愛しますよ。子供も、夫も、家も。自分の髪も、壁の剥製も、爪も、庭も、使用人たちも。晴れの日も雨の日も同じように愛してるし、床を這うゴキブリですら愛してるかもしれない」
山田さんを見る。
彼は苦い顔をしていた。
「でも母の愛情は、簡単に移り変わる。一秒前まで命を懸けるほど愛していたかと思えば、瞬きをした次の瞬間には、もう忘れてる。そうして別の何かを愛し始める。置物でも、気まぐれでも、何でもいい」
雨音が車体を叩き続けていた。
僕は身を乗り出し、覆い被さるように山田さんへ近づく。
「だけどね、山田さん。あの人の愛情を信じるなんて馬鹿だけですよ。少し忘れて、また思い出したように愛して、それを延々と繰り返す。愛して、忘れて、その速さが怖いくらいに」
僕はぼんやりと前方を見つめた。
「今この瞬間、母は僕を愛してるんでしょうか。それとも、家に帰る頃には、もうどうでもよくなってるんでしょうか。海斗のことだってそうだ。ようやく病院へ顔を出して、愛情を思い出したみたいに付き添い始めるかもしれない。食事も喉を通らなくなって、息子の回復を願って、天に祈り続ける“良い母親”になるかもしれない」
僕の長い吐露が終わる頃には、山田さんは目を見開いたまま固まっていた。
額には青筋が浮いている。
感情を押し殺すのに必死なのが、見て取れた。
母を侮辱されるのが気に入らないのだろう。
当然かもしれない。
山田さんは元々、藤村家ではなく、母方――藤原家に仕えていた人間だ。
言ってしまえば、両家の婚姻と一緒に送り込まれてきたような存在だった。
だから彼の忠誠は、結局のところ母に向いている。
「山田さん。今の話、母に伝えますか?」
ほとんど顔が触れそうな距離だったが、それでも山田さんはどうにか声を絞り出した。
ただ、その声には迷いがあった。
「先ほども申し上げた通り、私の望みは藤村家の安寧のみです」
「やっぱり偽善者だ」
僕は元の姿勢に戻り、ポケットを探って煙草を取り出した。
もう十分すぎるほど車内に留まっていた。
そろそろ仕事へ戻らなければならないことも理解している。
それに、山田さんとの会話のせいで、喉の奥に嫌な苦味が残っていた。
煙で誤魔化せればと思ったが、ライターが見当たらない。
家に置き忘れたらしい。
「……くそ」
「どうぞ、優一様」
差し出されたのは、山田さん自身のライターだった。
僕は一瞬ためらった末、それを受け取る。
「優しいんですね。あんなこと言われたあとでも」
再び沈黙が落ちた。
雨音は次第に弱まっていく。
やがて山田さんが、穏やかな声で言った。
「別に怒ってはいません。優一様は、ただ誰かに当たりたかっただけでしょう。そして残念ながら、たまたま私が近くにいた」
その通りだった。
わかっている。
それでも、謝る気にはなれなかった。
「山田さん」
「……はい?」
僕たちは二人とも、前方の道路を見たままだった。
だから彼がどんな顔をしているのかはわからない。
「僕って、どんな人間に見えます?」
「どういう意味でしょう」
「父や母みたいな人間なのかってことです。……それとも違うのか。僕は良い息子なんでしょうか。それとも、ただ最低な人間なだけなのか」
山田さんはしばらく黙っていた。
「山田さん」
「はい」
「まだ答えてません」
「無礼を承知で申し上げるなら……」
「どうぞ」
小さく息を吐いてから、彼は言った。
「優一様は……ただ、怯えている大人に見えます」
――怯えている。
僕はその言葉を、長いこと頭の中で転がしていた。
怯えている?
僕が?
だが、彼の言いたいことを理解した瞬間、笑いが込み上げた。
「……ぷっ、ははっ」
笑った。
しばらく笑い続けたあと、煙草の煙で曇ったフロントガラスを眺めながら、僕は口元に薄く笑みを浮かべる。
「たぶん、その通りだ。僕はただの臆病者なんでしょうね」
やがて雨は完全に止んだ。
けれど、そのことに、僕は少しだけ失望していた。
寒さを理由に、このままあと数分だけでも仕事から逃げ続ける――その言い訳が消えてしまったからだ。
初めてのことだったが、不思議と悪くなかった。
「でもね、山田さん」
煙草の吸い殻を揉み消しながら、僕は言う。
「はい?」
「ここにいるこの臆病者、一度も勝負に負けたことはないんですよ」
山田さんはシートベルトを外し、車を降り始めた。
「ええ、信じていますよ、優一様。だからこそ、旦那様もあなたを信頼しておられるのでしょう」
――さて。
仕事へ戻る時間だ。




