表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

56/73

第43章『 責めるべき誰か 』

麗華の視点


 家に戻ったのは、いつも通り夜の九時半だった。


 海斗が入院してからというもの、それが私の日課になっていた。六時に仕事を終え、そのまま病院へ向かい、八時まで彼のそばにいる。そして十時頃に一人で食事を済ませ、三十分後にはベッドへ入る。けれど眠気はなかなか訪れず、しばらくすると私は落ち着かないまま寝返りを繰り返しながら、腹の底でじわじわと膨らんでいくあの不快な怒りについて考えていた。


 私は苛立っていた。


 それだけははっきりしている。だが、その怒りを誰に向ければいいのか、自分でも分からなかった。


 自分自身なのか。海斗の家族なのか。彼を轢いたとされる男なのか。それとも、他院の医師による診察を頑なに拒み続けるあの病院なのか。


 感情はあまりにも激しく、時には道を歩く他人にまで怒りを覚えているような気さえした。


 一方で、冷静さを失った頭の片隅では――特にこうして家で一人になっている時など――「考えすぎだ」と囁く声もあった。


『 あの人たちに何の罪があるの? 』


 理性の側に立つ私は、そう問いかけてくる。


『 社員たちも、飛鳥も、病院の医者も、通りすがりの他人も 』


 けれど、そう理解することと、実際に割り切れることはまったく別だった。


 そして私は、どうしても理性的になれなかった。


 眠気もとうに消え失せ、少しでも気持ちを落ち着かせなければと思った私は、一階のリビングのソファに腰を下ろし、煙草を片手に天井を見上げていた。


「禁煙するって言ったのに」


 私は小さく笑い、首を振る。


「……思ったほど、私は強い女じゃなかったみたいね」


 一口目の煙を吐き出した瞬間、こめかみの奥に鈍い頭痛が生まれるのを感じた。


 その痛みも、今ではすっかり日常の一部になっていた。時折、理由もなく舌がざらつくような感覚に襲われることもある。身体全体にまとわりつくような倦怠感は、何をする気力も奪っていった。


 まるで風邪を引く直前のようだった。


 熱が出る前触れのような、不快な感覚。


「何かしら。風邪でもうつった?」


 だが、すぐに違うと分かった。


 ここ最近、天気は悪くなかったし、夜だって不思議なくらい寒さを感じていない。


「じゃあ……」


 私は額に手を当てる。熱を測るみたいに。


「疲労? 空腹? それともストレス?」


 違う。


 どれも違う。


「分からない」


 私は片手で目元を押さえ、無理やり考えを巡らせようとした。


 だが、瞼を閉じた瞬間に浮かんできたのは、この数日間ずっと脳裏に焼き付いて離れない、あの光景だった。


 病室のベッドに横たわる海斗。


 腕にも頭にも包帯を巻かれたまま、微動だにせず、何も話さない彼。


 その姿を思い浮かべた時、ようやく私は、自分がなぜこんなにも苦しいのかを理解した。


 疲れ切った笑みが、自然と口元に浮かぶ。


「……近くにいるのが当たり前になってたのね」


 きっと、それしかなかった。


 もちろん、恋愛感情なんかじゃない。


 私は、人を好きになる感覚を知っている。誰かを求める気持ちも知っている。


 でも、海斗に対して抱いているものは、それとは違った。


 だから、これは愛じゃない。


 ただ――短い共同生活の中で、私たちはいつの間にか、完全な他人ではなくなっていたのだ。


「もう、私にとって他人じゃないから」


 私は小さく呟く。


 友人というほどではない。けれど、知人以上ではある。


 そんな曖昧な距離感だった。


 たぶん、私の言いたいことを上手く理解できない人もいるだろう。


 なら、こう考えてみてほしい。


 ある日突然、何の前触れもなく、自分の家に誰かが転がり込んできたとする。


 最初は鬱陶しい。


 なるべく顔を合わせたくないし、会話だってしたくない。近づかなくて済む理由を探すようになる。


 自分だけの空間だった場所に他人が入り込み、落ち着かなさを覚える。


 いつまでいるのか。いつ出て行くのか。


 そんなことばかり考えてしまう。


 当然だ。まして、それが予想外の同居人だったならなおさら。


 けれど日が経つにつれ、そうした感情は少しずつ薄れていく。


 完全に消えるわけではない。だが、次第に気にならなくなる。


 人は慣れる生き物だから。


 そして、そうして慣れてしまった頃に、その存在が突然いなくなると――今度は逆に、部屋の中にぽっかりと穴が空いたような感覚だけが残る。


 何かが欠けてしまったみたいに。


 別に、理解してほしいわけじゃない。


 もしかしたら、こんな感覚を抱いているのは私だけなのかもしれないし。


「……それとも、私がおかしくなったのかしら」


 皮肉げな笑みが浮かぶ。


「じゃあ、私は海斗さんが恋しいってこと? ……あは、は……はは」


 笑おうとした。


 本当に笑うつもりだった。


 けれど、漏れたのは乾いた息だけだった。


 静まり返った部屋の中では、遠くを走る車の音さえ霞んで聞こえる。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 沈黙。


 そして次の瞬間――


「っ、はぁ……くそ、誰を誤魔化してるのよ……!」


 そうだ。


 寂しいのだ。


 海斗がいないことが、どうしようもなく寂しかった。


 今この瞬間、どれほど彼を恋しく思っているのか、自分でも呆れるくらいに。


 私は両手で頭を抱え、そのまま吐き出すように叫ぶ。


「あぁ……っ、なんでこんなことになったのよ……!」


 答える者などいない。


 それでも私は、一人で喋り続けた。


「海斗……海斗、海斗、海斗……どうしてこんなことになったの。誰があなたをこんな目に遭わせたの」


 私は息を吸い込む。


 肺の奥へ空気を押し込むように。


「教えて。誰なのか。理由でもいい。動機でもいい。名前でもいいから」


 再び天井を見上げる。


 白かった。


「私はただ、責める相手が欲しいだけ」


 でなければ――


 きっと私は、ずっと自分を責め続ける。


「もしかしたら……憎める誰かさえ見つかれば」


 その相手に、この胸の中に溜まり続けている怒りを全部ぶつけることができれば。


「ようやく眠れるのかもしれない」


 私は、自分を善人だと思ったことはない。


 理性的な人間だとも。


 友人が多かったわけでもないし、立派な大人だったわけでもない。


 完璧じゃなかった。


 完璧に見せたいとも思わない。


 ただ、こういう人間だった。


 性格が悪くて。


 執念深くて。


 どうしようもなく、人間らしい。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ