第42章『 疑念の理由 』
優一の視点
女の言葉に完全に不意を突かれたことなど、片手で数えられるほどしかない。
言葉を失い、唇が勝手に震えるほど追い詰められた経験など、なおさらだった。
……まいったな。
気づけば額にじっとりと汗が滲んでいた。
寒々しい病室の空気。背中にこもる嫌な熱。渇いた喉。口内に残る苦味。
最悪だった。
どれほどの間、黙り込んでいたのかは分からない。
ただ、あの女の冷え切った暗い瞳に囚われたまま、身動きひとつ取れずにいた。
――はあ、本当に。
なんなんだ、あの女は。
麗華。
まったく、とんでもない女だ。
「そうやって黙らせることもできるのね」
麗華がぽつりと囁いた。
その声で、ようやく意識が引き戻される。
まるで止まっていた機械に電源が入ったみたいに、長いこと沈黙していた感覚の頭が、ようやく動き始めた。
「……え?」
僕は瞬きをした。
麗華は小さく息を吐き、再び海斗へ視線を戻す。
「別に」
軽く首を振る。
「忘れて」
「何をだよ」
問い返すと、麗華は呆れたような目を向けてきた。
「どうせ答えは分かってるもの。否定するんでしょう? もちろん」
皮肉っぽい笑みが浮かぶ。
「でも、私には理解できないわ。どうしてそこまで隠したがるのか」
そして彼女は、独り言のように続けた。
「きっと、ろくでもないことなんでしょうね……きっと」
最後の声は、ほとんど聞き取れないほど小さく消えていった。
言い返そうとして、やめた。
危険な会話の流れに入っている。
それくらいは分かる。
一度どころか、三度は考えてから口を開かなければならない。
時間も余裕もない中で、僕は必死に頭を回し、少しでも無難な言葉を探した。
……だが、何を言う?
何が正解なんだ?
仮に、ここで僕が拒否したとする。
血縁だの責任だの、それらしい理屈を並べ立てる。
兄である自分が第三者に海斗を任せるわけにはいかない――そんな綺麗事で誤魔化す。
そうした場合、麗華はどう出る?
少なくとも機嫌は損ねる。
それは確実だ。
下手をすれば、また僕たちの間で面倒な衝突が起きるかもしれない。
リスクが大きすぎる。
それに何より、余計に疑念を深めるだけだ。
いや、もしかすると、もう既に疑っているのかもしれない。
――海斗の本当の容態について、僕たちが何かを隠していると。
かといって、了承した場合はどうなる。
麗華は別の病院へ移そうとするかもしれない。
あるいは別の医者を呼んで、海斗の状態を詳しく調べさせる可能性もある。
そうなれば、交通事故などではなく、誰かに半殺しにされた結果だと知られるのも時間の問題だった。
……最悪だ。
結局、僕に残されていた選択肢は、一つしかなかった。
「い、いや……それを決めるのは僕じゃない」
頭に手をやり、考え込むふりをしながら軽く掻く。
そして最後に、わざとらしくため息をついた。
「父さんと母さんに聞いてくれ。海斗の後見を任せるかどうかは、あの人たちが決めることだから」
先延ばし。
今はそれしかない。
だが、それで多少は時間を稼げる。
しばらく沈黙が落ちた。
麗華はベッドのシーツを撫で、皺を丁寧に伸ばしてから、ゆっくり立ち上がる。
「……そうね。確かに、その通りかもしれない」
短いスカートについた見えもしない埃を払うような仕草をして、彼女は病室を出ていく。
「また明日」
僕は笑みを作りながら、短くそう告げた。
だが、扉を閉める寸前、麗華は足を止めた。
「でも、その答えも予想してたわ」
その一言に、僕は再び黙り込む。
やがて、廊下の奥へ消えていくヒールの音が完全に聞こえなくなった頃、ようやく身体から力が抜けた。
深く息を吐き、さっきまで麗華が座っていた椅子に腰を落とす。
座面には、まだ彼女の体温が残っていた。
だが、その熱は僕を落ち着かせるどころか、逆に背筋をざわつかせる。
それでも立ち上がる気にはなれず、むしろ身体を沈めるように深く座り直した。
……どうやら、まだ終わっていない。
そんな気がした。
麗華はきっと諦めていない。
海斗の後見について、父さんたちと直接話をつけるつもりだ。
「面倒事ばっかりだな……」
思わず独り言が漏れる。
普通に考えれば、そこまで大きな問題ではないはずだった。
父さんたちが断れば、それで終わる話だ。
あるいは、海斗が目を覚ますまで待てと言うかもしれない。
本人の意思を確認したい、と。
それなのに、なぜ僕はここまで焦っているのか。
答えは単純だった。
――父さんだ。
あの人は回りくどいことを嫌う。
海斗にしたことなど、僕に比べればまだ軽い。
もし僕が事態を上手く処理できていないと気づけば、次に矛先が向くのは間違いなく僕だった。
だからこそ、何があっても麗華の話を父さんの耳に入れるわけにはいかない。
「父さん、今度は僕を殴ると思うか?」
海斗に問いかける。
当然、返事はない。
けれど、このまま麗華に考える時間を与え続ければ、遠からず本当に行動に移す。
そんな確信だけはあった。
「……動くべき、か」
小さく息を吐く。
「まあ、今日は無理だな。今日は完全に負けた」
それに、焦って動けば、本当に終わる。
そのことだけは、痛いほど理解していた。




