楽子
雪目が高校三年生の頃である。
4月の頭から…いや、実際にはもう少し程前から受験シーズンは始まっており、クラスの空気はどこかピリピリとしたものであった。
皆が進路をそれぞれ考えていく中、雪目は自身の進路を、まるで暗闇に包まれた細い道のように見ていた。
「高校はバイトが禁止の所でねぇ。……今思うとおかしいよね?進路を考える段階になったら社会の事を見てとか考えてとか言うくせに、社会に触れる手段としてのバイトを禁止してたんだからさ。ま、ほとんど誰も守ってなかったんだけどねぇ」
「ま、気でも触れなきゃそんな校則は作らねぇだろうな」
「だから私も悩んでさ。自分が何をしたいとかっていうのは、そんなのは大学に入ってから決めることであって、高校生の時点で決められるものじゃないだろって、そんな風にしか考えられなかったんだよ」
「したいこととかなかったのか?」
「その時はなかったんだよ──いや、歴史科目は好きだったし、それに関連した仕事もいいかな、なんてくらいの事はあったんだけどさ、如何せん食える職業じゃないからね。現実的なところでは何もなかったんだよ、やっぱり」
傑は考えた。今はまだ高校一年の身ではあるものの、ではいざ改めて将来の事を考えようなった際、具体的な案は何一つ出てこないと。
経験も知識も乏しい今の段階で決めきれることなど、そう多くは無いのだ。
ただ、普段の雪目を見ているせいか、進路に悩む彼女の姿というのが想像できなかった。
「まぁ、私はよかったんだよ。分からなかったってだけで、そのうちそれなりに考えも纏まっていったからさ。まぁ尤も、今はこうしているワケだから、当時考えていたことというのは何一つ為し得ていないのだけど」
「そういや友人の話だっけか」
「そう。それでも私さえ色々考えている中で、その子だけ少し、様子が変だったんだよ」
「変って?」
「何もしてなかったって言うかさ、周りに言われるがままにポンポンと適当に進路を決めてたんだよ」
「……それはアレじゃないのか?まだ決めてないけど、周りにいろいろ言われるのが面倒で取り敢えずそうしてただけ──みたいな」
「それなら私もまだ理解は出来たし、周りだって不審がることはなかったはずなんだよ」
「それだけじゃなかったのか」
「うん。勉強もあまり身が入らないといった風だったし、課題さえ碌に提出しなくなってしまってね。もともとそんな子じゃなかったのは教師達含め皆知っていたから、どうしてしまったのかって」
「これまでの反動が来た……ってのも変な話か」
「それも無いとは言い切れないのだけどね。それでも、私の数少ない友人がダメになっていくのを見ているワケにもいかないと思って、本人に色々聞いてみたんだよ」
本人曰く、どうにもやる気が出ないでいる。選択肢が提示された時、自分の意志かどうかも分からないままに楽な方ばかりを選んでしまっている──とのことであった。
鬱病や燃え尽き症候群とでもいうものなのだろうかと、もしそうであればどうするのが正解なのか──そんなことを雪目は懸命に調べた。
しかし、そんな中で行きついた一つの可能性があった。
「そういう妖怪がいるって、そういう話だ。名を楽子と言ってね」
「調べに調べてそれか……にしても、ラッコ?」
「貝殻を抱えている方ではないよ。確かに一部ではラッコの妖怪だとも言われているのはそうなんだけど……喜怒哀楽の楽に子供の子だ。人を堕落させ、やる気だとかそういった物を根こそぎ吸い取っていってしまう──というのがこの妖怪だ」
やっていることはなんとも妖怪らしい妖怪だと、そう感じた。
「時に傑君。楽をすることに対して、君はどう考える?」
「どう……って?」
唐突な質問に、彼は首をかしげて聞き返した。
「何でもいいよ。良い事か悪い事か、みたいなのでも」
傑は唸る。そして、どっちつかずの答えを返すことになった。
「時と場合によるんじゃねぇのか?」
「というと?」
「手抜く事を楽するっつったらダメだろ。俺はこれ──後で楽する為に今ちょっとずつ進めてっけどよ」
課題の冊子を指差して言う。本来なら夏休みが始まって早々に片付けていたハズの物なのだ。
その方が楽だから、後で追い込まれなくて済むから。そんな風に考えていた。
もしそれをやっつけ仕事のように終わらせたのであれば、その時こそ悪なのだろうが、きちんとこなしていた。だとすれば、そこに非難を受けるいわれはない。
「そうだね。人間という生物はそもそも楽をすることで進化し、文明を前に進めてきた生物だ。歩くより楽だからと車輪を開発したし、それでもまだ楽をしたがったから蒸気機関を開発した。紙とペンで計算するよりも楽だからって、コンピューターも作ってみせた。人間は何かを今よりも楽にしたいからこそ、そのための最善を考えることができる生物だ」
そう言う彼女を横目に、傑は再びペンを動かした。そう考えれば楽をすることの方がいいことなのではと、そう感じる。
「だから楽をすること自体は人類として否定できないし、苦労して成し遂げたからといってそれに何か付加価値が生まれるわけじゃない。苦労することが悪だとは言わないが、どうせ同じ結果なら楽をして出した結果の方がいいに決まっている。だけど、そこには楽をするための努力が必要なワケで、ただ流されることを楽をするとは言わない。それはただ怠惰なだけだ」
「なるほどな。……で、その友人とやらは結局どうしちまったんだ?やる気を失って……要は悪い方の楽をし始めたわけだろ?」
「あの時は結局……」
その頃の雪目にはまだ、妖怪を視て直接祓うという事は不可能であった。
それ故に考え、話を聞き、説得して、ありとあらゆる方策を友人に対して試していった。
結果、5月の初旬過ぎ、世間でいうところのゴールデンウイーク明けにはすっかり元通りに戻すことができた。
「そうだ、連休中に理由を付けて旅行に連れて行ったんだよ。3泊くらいしたんだったか、懐かしい」
「それだけでよかったのか……?」
「いや、それくらいしなきゃいけなかったんだよ。問題はあの子がずっと同じ環境で同じようなことを言われ、それを考え続けていたことだったんだ。もともと真面目な子だったからね。気が病んでいたというか、単に滅入っていたんだろう。だから一度全部忘れさせてみた──というワケだ」
「それで旅行か……。まぁ、気の持ちようってことか」
「楽子は同じ場所に留まってしまっている人間を標的にすると言われている。そう言われるとラッコ──貝殻抱えてる方のラッコと似ていると言えなくもないけどね」
ラッコもまた、動かないものを餌とすることがほとんどである。それは単に泳ぐことに不向きな体のつくりをしているためであるのだが、楽子とラッコが紐づけられるに至った理由でもあった。
「でもそれ、旅行から帰ったらまた同じことの繰り返しじゃねぇのか?」
納得した傑ではあったが、ふと思ったことを訊いた。
例え一度動いたとしても、戻ってくれば同じことの繰り返しではないのか。これまでに見てきた妖怪にもそういうものはいたのだ。
「本当ならそうなる。まぁ結局、その子が楽して生きていきたいと考えていたのは割と本心でもあったらしくてね。だから付け込まれたんだろうけど、だったら投資の勉強でもすればいいと説得して、今はその通りの人生を送ってるよ」
「投資な……なんか、それはそれで大変そうだけどな」
液晶を何枚も並べてそれを監視している、そんな人間が想起された。座りっぱなしでは不健康そうで、目にも悪そうである。
いずれにせよ、傑が普段送っている生活から程遠いものであることは明らかであった。
「そうかい?割と楽しく生きてるように見えるけど」
しかし、それに対する雪目の返答は妙なもので、それではまるで自分の知ってる相手の様ではないかと、彼は当惑した。
「……何がだ?」
「八千代だよ。本職は巫女でもあるけど、収入源は投資で得たお金だよ。そうでなければあんな家には住めないだろう。……まぁ、投資をしていたと言っても、普通の人間がやっていては、ああはいかなかっただろうけどね」
話の中の友人というのは八千代の事であったらしい。彼は一瞬言葉に詰まった。
「……え?あぁ、あの人の話してたのか」
「そういえば言ってなかったか。お互い妖怪だの何だのに触れ始めたのはその頃からでね。畢竟、憑かれた者は魅入られるのだろう」
今はまだこの街にいるとのことらしいが、彼女がこの街で一体何をしているのか、傑は何も聞いていない。
「ふぅん……ってことはあれか?姐さんも妖怪に憑かれたことってのはあるのか?」
「……そう……だね。憑かれたのとは、少し違うのだけれど」
雪目は少し目を見開いた。
「あぁ、私はとある化物に関わったからこそ、その時考えていた将来設計を一度総てご破算にすることになったんだよ」
相変わらず片目しか見えてはいないが、酷く冷たい目をしていた。




