裏表
「ん、宿題かい?」
そろそろ9月も近い昼下がりの事、暇になったからと事務所内の机の上に宿題を広げ始めた傑に、雪目は問いかけた。
「あぁ。全部終わらしたと思ってたんだけどよ、鞄の中漁ったらまだ入ってやがった」
「夏休みの課題か……懐かしいな。やった覚えはないけれど」
「だろうな」
雪目の口から一瞬、言葉が失われた。目をぱちくりとさせると、咳払いをして話を変えた。
「それにしても……傑君はそういうのは全部片付けるタイプなんだね」
「そういうタイプには見えねぇだろうな」
「正直なところを言うとね。今はそうでもないけど」
「ま、ただでさえこんな見た目で、事情はあれど人をぶん殴ったりもしてるんだ。そういうところはちゃんとやるようにしてんだよ」
高校の入学試験の時からずっとそうであった。
普通に受験をして面接をすればまず間違いなく落とされる。
そう思った彼は筆記試験でほぼ満点に近い点を叩き出し、その上で面接に臨むことになった。
そこでも言葉遣いや身のこなしなどには細心の注意を払い、万全を尽くしていった。
それが功を奏したのかは今となっては分からないのだが、彼は無事、今の高校に入学することができた。
しかし、それはゴールなどではない。自分が自分でいることを認めてもらうためにはそれなりの材料が必要である。
曲がった奴を見ると我慢が利かなくなることに関して、これはもうどうしようもないと諦めているのだ。
なれば、別の部分でそれをせめて帳消しにしなければならない。
授業態度もよく、課題もきちんと提出し、その上で試験も良い点数を取る。人助けなんかもするし、少しでも周囲からの自分に対する評価を上げることに尽力している。
まだ4カ月程度の事ではあるものの、着実にそれは身を結んできていた。
だからこそ、ここでそれを途切れさせるわけにはいかない。
信用というのは脆いもので、積み上げるのに要する時間や手間と、それを失うのに要するそれは釣り合っていないのだ。
彼は黙々と作業を続けていく。まだ提出までは数日の猶予があり、最初の授業にさえ間に合えばよい。このまま進めていけば、計画通りそれは終えることができるだろう。
「字綺麗だね、スピードの割に」
いつの間にか横に座っていたらしい雪目が、覗き込むようにしていた。
「書く字にはそいつの人間性が出るらしいからな。中坊の頃に猛練習したんだよ」
「書は人なり、だね。ただ……ああいうのは基本的に全員に当てはまる事しか言わない、所謂バーナム効果というものだから、あまり真に受けることもないとは思うよ」
「でも、汚ねぇよか綺麗な方がいいだろ」
「それはそうだ。社会に出ても通用するスキルだよ。勿論、裏社会でもね」
「……ハッ、行かねぇよ。そんなとこには」
冗談交じりの雪目の言葉に、傑は少し拗ねたように返した。
「そうかな?」
しかし、雪目がやに真面目にそう返すものだから、傑は思わず手を止めてしまった。
「どういう意味だ?ホントに行かねぇぞ?」
「傑君は今私が、そしてそれと行動を共にする君が立っている場所がどう見えているのかと思ってね。私のような人間のいる場所は果たして表か、それとも裏なのか」
「……表じゃねぇのか?」
「魔力の影響でこの世に実体を持ってしまった妖怪を相手にするのが、この私、無慈籠 雪目だよ」
無表情にそう付け加えた。
「……」
表ではないのかもしれないと、そう思った。
「二元論とでもいうのかな、善か悪かとか、そういう視点だけで物事を見るとそうなる」
雪目は百円玉を取り出すと、表と裏をそれぞれ見せる。
「確かに私は人を助けることもある。そこを見れば善かもしれないし、所属している組織的にも表かもしれない。でも、それとは別に人ならざる者にも触れてしまっている身だ。そこを見れば悪……とは言わないにしても、表に居ていい人間ではないと、そう言わざるを得ない」
親指で百円玉を弾きながら、雪目は言った。
ピン──と音を立てて空中に放り出されると、回転しながら彼女の手元に戻っていくそれを、傑は目で追う。
「君もそうだ。人を助けると同時にえげつない暴力を振るったりするわけだろう?」
自覚があり、目を逸らした。
「だからね、表か裏かでいえば……私たちがいるのはここだ」
雪目は百円玉の縁を指でなぞる。どちらでもない、そう言いたいのだろうか。
しかし、そんな考えは見透かされたように否定された。
「どちらでもないんじゃぁない、どちらにもなってしまう──という事だ。いや、それ自体は人間も妖怪も、皆そうなのだけどね」
「そりゃぁ……力の使い方の話か?」
「いや、周囲がどう見るかの話だ。君は自分の事を善人だとは思ってないだろう?」
「まぁ、な」
「故に人間は周囲の評価に頼り、自分を知る事になる。殴られた側は君を悪だと言うだろうし、助けられた側は君を善だと言うだろう。そこにおいては本人の意思とは関係なく、君という人間に対しての評価がなされるわけだ」
「その結果、どちらかが決まる…ってことか」
「善悪という考え方は好きではないのだけどね。私には私の、君には君の、それぞれ信念に基づいた正義があるのだから」
「正義か……気に食わない奴がいたら殴る……ってのは、正義に数えていいもんなのか?」
「さぁね。でも、本当に大事なのは正義じゃない、大義だ。行動の目的が正しいものであるならば、それが人の道理を違えぬものであるならば、世間はその正義を受け入れてくれる。だから、例えそれが何であれ、自分の中にある正義は大事にした方がいいよ。勿論、暴力で全てを解決することは善い事ではないのだろうけど、それも若さ故だと思えばね」
雪目は立ち上がると、傑の頭に触れた。
「それで……あぁ、宿題の途中だったね。まぁやっぱり集団の中にいる以上は評価も大事なものだ。もし多いようならこれで上がってくれても構わないよ」
「いや、そこまででもねぇよ。量も大したもんじゃねぇし」
「そうかい?」
「おう。人が来るまではこうさせてもらうけどよ、別に終わらそうと思えばいつでも終わるしな。一気にやるのは面倒だからちょっとでも片付けておこうと思ってただけだし。その方が後でやる時に楽出来る」
「楽……か。大事だね」
彼女はデスクに戻ると、自身にも課されている書類の山を見て、渋々それに手を付け始めた。
傑はいつの間にか手から零れ落ちていたペンを持ち直すと、作業を再開した。
しばらく室内にはペンの走る音と紙の捲られる乾いた音だけが聞こえていたが、どちらかが息を吐くと、雪目は傑に声を掛ける。
「暇だねぇ……こうも無音だと少し気が滅入るな」
「そうか?無音ではねぇと思うけど」
「延々と同じ音しかしないというのは中々苦痛でもあってね。……折角だ、また何か話でもしようじゃないか。傑君の邪魔にならなければだけど」
「それは別に構わねぇけど、何の話だ?」
「ん、そうだな……あぁ、さっき傑君が言っていた、楽に関する話にしようか」
「楽?」
「そう、楽。そういう妖怪がいてね、思えばそれが私が初めて祓った妖怪だったかな」
「いつの話なんだ?」
「えっと、今の傑君と同じくらいの……いや、高三の頃だったかな。実際に自分の知り合いがそれに憑かれてしまってね。それを祓ったのが最初だ」
そうして、雪目は1つずつ思い出すようにしながら、順を追って語り始めた。




