偽蝶
八千代は雪目の背中目掛けて勢いよく飛び掛かると、その背中に包丁を突き立てた。
「あガッ……!」
しかし、血が噴き出るかと思われたその背中からは、光る粉のようなものが、ふわりと舞っては消えていた。
近づきながら目を凝らすと、光るそれは小さな蝶であった。
それが無数に飛び出しては消えていき、雪目はそれと共に消えていった。
「やっぱりか。危なかった」
八千代は包丁を置くと、手を払った。
「え……な、何だ?」
「今のは偽蝶。擬態する蝶とも、戯れる蝶とも言われている妖怪だ」
「ギチョウ……蝶の妖怪か?」
「そう。ドッペルゲンガーとか、それと似たような物だよ。早めに気が付けてよかった」
「早めに気がつけないと何かマズいのか?」
「マズいよ。この偽蝶、人を惑わす鱗粉を放ってるから。雪目が戻ってきた時、なんか変な匂いしたでしょ?」
余計な事を言ってしまうのでは──と、スルーを決め込んだ事であった。
もし自分1人であれば、何時間たっても触れることはなかっただろう。
「それを長時間吸い続けると、違和感を違和感として認識できなくなるんだよ」
「違和感?」
「んーと……擬態する人間の姿、声、歩き方に細かい仕草。こういったものを真似て人を騙す、そんな悪戯好きな妖怪でさ。だけど中身は本人じゃないから、直近の記憶に合わせた行動は取れても、古い記憶にまでは合わせることができない。だからその行動には本人との乖離が生じるし、会話してればおかしいなと思うところが色々出てくるんだよ」
「はぁ。でも俺あんま姐さんの過去とかは知らねぇからな……」
多少の違和感も感じなかったわけではないが、だからといってそこから雪目が偽物だと判断できたこと問われれば、である。
「この場合は私が、かな。まぁ違和感を持ったんだよ。けど、長い事放置すればそれを違和感として認識できなくなっていく。するとどうだ、本当のことを言っている雪目と、頓珍漢な事を言っているのに雪目だと認識されている雪目という、2人の人物がこの世に存在することになる」
「……怖いな、それ」
「怖いよぉ、存在証明ができなくなるというのは。まぁ、2人が同時に、同じ場所に居さえすれば何とかはできるかもしれない。けど、もう片方の偽物が自分の知らないところで勝手な事をしていたりすれば大変なことになるというのは、言わなくてもわかるでしょ?」
もし仮に、今の偽物が犯罪でも起こそうものなら、その罪は全て雪目の元へ行くこととなる。恐ろしいどころの話ではない。
「大昔には国と国を争わせた、なんて記録もあるし。まぁ、偽蝶からすれば悪戯のつもりだったんだろうけどさ」
国のトップにでも擬態していれば、その発言で多くの人間を動かすことにもなるわけで、やっている事と被害の規模があまりにも釣り合っていない妖怪である。
「じゃあさっき包丁の場所を聞いたのは……」
「そう。去年だったか、少し前にも私はここに来てて、その時この辺がごちゃごちゃしてたから片付けてあげたの。だけど雪目はここにある包丁なんて普段使わないだろうし、当然新しく移し替えた場所も知ってるわけがない。案の定、今の雪目は前まで入れてた場所で認識してたみたい」
室内に置かれたキッチンスペースは、衝立で隠されているとは言えちゃんとした場所でもある。
しかし、雪目がここを使うことはほとんどなく、精々、小皿とコップがどこにあるのかを把握しているくらいのものだった。
「それに、雪目は絶対にモンブランを食べない」
「嫌いなのか?」
「うぅん、嫌いではないよ。……これくらいなら言ってもいいのかな」
八千代はボソリと呟くと、箱の中のモンブランに目を向けた。
「アレは雪目の姉の、智春ねぇの好物なんだよ」
「はぁ……姉の」
以前、そんな事を言っていた事を思い出した。2人の姉がいて、その片方の子供──つまりは姪が、傑の通う学校の生徒会にいることも。
「そう。私もそれなりの付き合いだって言ったけど、それこそ辿れば小学生くらいからの付き合いでもあってさ。智春ねぇも日葵ねぇも、雪目と一緒に遊んでくれてたんだけど……結構前に死んじゃって」
「そう……なのか」
「とある事件……というか事故というか、何とも言えないんだけど。雪目は姉を助けられなかったってずっと言っててね。それ以来、姉の好物だった物とか、モンブランなんかには一切手をつけなくなったんだよ」
「じゃあ……今日モンブランを買ってきたのは……」
「癖だよ、癖。抹茶ケーキは私の好物で、ティラミスは日葵ねぇの好物。雪目はチーズケーキが好きでよく食べてたから、それで選んじゃって。本当は買う必要もなかったんだけど、なんか仲間はずれにしてるみたいで、それも嫌だなぁって」
と、傑が声をかけようとした時、背後で扉の開く音がした。
「お、八千代、来てたんだねぇ。時間的には少し早いような気もするけど──それを言ったら私の帰りが遅いって話にもなるし。こっちはこっちで何かあったのかい?」
雪目であった。やけに口数が多い。
先程嗅いだ花の様な匂いはせず、恐らくは本物なのだろう。
手に下げたビニール袋を置き、中身を取り出していった。
「……いや、何もないよ。ケーキ食べようとしてたところ。チーズケーキ、食べるでしょ?」
「あぁ。頂くよ」
「姐さんも何かあったのか?」
「ん?あぁ。それがとある妖怪に迷わされてね。普段行き来してるはずの道に30分以上閉じ込められて、原因を探して退治しようにも、それはそれでまた迷うしで大変だったよ」
雪目はやれやれといった具合にそう話した。
「組んでたのかな……」
八千代は消えいるような声で一言、誰に聞かせるわけでもなく呟く。
が、雪目はそれを聞き逃すことはなかった。
「──何と何が組んでいたって?」
雪目は八千代の背後に回り込み、肩を掴んでいた。
「え、あぁ、いや……」
「誤魔化すなよ、傑君は私にも何かあったのかと聞いたんだ。君達にも何かが起きていたと考えるのが妥当で、今の発言と合わせるのならそれと、私を惑わせた迷わし神とが組んでいたという事になる」
「迷わし神?」
「その名の通り、人を迷わせる神……まぁ妖怪なのだけれど。それで、ここには何が出たんだい?」
雪目は傑に問いかけ、傑は八千代を見た。
「偽蝶って奴が……まぁ、姐さんに化けてた」
何の妖怪が出たのか、それだけなら問題もないだろうと、傑は白状した。
すると雪目の表情は一変し、眉間に皺をよせた。
「なるほど。聞き逃さなくてよかった」
「何が?というか雪目、離して欲しいんだけど!」
「妖怪と妖怪が手を組むことがだ」
「え?……いや、妖怪同士が手を組むという言い伝え自体はそれなりにあるでしょ?それこそ牛鬼と濡れ女みたいな……」
「言い方が悪かった。この2つの妖怪に関しての話だ」
2人はああでもないこうでもないと議論を交わす。
「な、何の話してんだ……?」
傑が尋ねると、雪目の顔が向けられた。
「迷わし神は鷲の妖怪だとも言われていてね。安直な話だけど、つまりは鳥なんだよ。それに対して偽蝶は蝶、虫の妖怪だ。本来、協力なんてできるはずがない」
鳥と蝶。この2つを同じ籠に入れればどうなるかなど、やるまでもなく想像がつく。
「ここから考えられるのは何か。傑君、分かるかい?」
「……協力させた奴がいるのか?」
「惜しいかな。協力させたというよりは、この2つの妖怪が重なり合うように引き合わせた者がいる……という事だろう。もちろん偶然という事も考えられるが、それはいささか楽観的が過ぎるというものだろう」
「でも雪目、それだと……」
「あぁ、あの時と一緒だ」
「そう……そっか。……なら私も、しばらくこの辺に残って調べ回ってみることにするよ。久しぶりに榊にも会いに行っておきたいし」
「……?」
会話についていくこともできず、傑はただ茫然としていた。
ただ何故か、直感的にとでもいうのだろうか、雪目が化物を嫌う理由に繋がっているのではと、2人の表情を見てそう思ったのだった。




