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消滅の宇宙  作者: 万世 千秋
『ドン・ジョバンニ』改め『ボン・ジョバンニ』
PR
58/62

罰せられた放蕩者

お越しいただき有難うございマス。

新章突入です。お読みいただけると嬉しいです



静かなる波打ち際にそびえ立つ、豪華なお城のような重厚な館。

波の音がかすかに響くその場所で、白い貴族服を身に纏ったアマデウスは、とある部屋の前で足を止めた。


コンコン、とノックの音を立てる。


「ハイ!」


中から独特なアクセントを持つ人物の声が聞こえてきたのを確認し、アマデウスは静かにドアノブに手をかけた。


「―――失礼します」

「ドウゾ、ドウゾ」

「―――ヴィレム様。『ダークマター』をお持ちしました」


そう、この豪奢な屋敷に滞在している主の名はヴィレム。

愛用のインバネスコートにシルクハット、そしてステッキは執務室のハンガーにかけられていた。


ヴィレムに手招きされるまま、アマデウスは執務室内にある応接用のソファへと静かに腰かける。

すると、再びドアをノックする音が響いた。メイドが淹れたてのコーヒーを運んできたのだ。湯気を立てるカップが二人の前に手際よく並べられる。


「今回のお仕事、大変お疲れ様でシタ」

「いえいえ、ありがとうございます」

「で、今回のお仕事はどうでしタカ?」

「はい……『お告げ』の通り、『宇宙の守護者』と遭遇いたしました」

「オ! 張っていた甲斐がありましタネ……」

「はい。少しばかり彼らの行動を拝見させていただきましたが――彼らが今後、我々の仕事を確実に妨害してくるかと」

「ナルホド……それが貴方のお考えですか……」

「はい……」


そう告げると、アマデウスは懐に忍ばせていた二つの漆黒の輝き――『ダークマター』を取り出し、ヴィレムに見せるように提示した。


「こちらの『ダークマター』二つは無事に回収できました……」

「はい、ありがとうございマス。頂きマス」


ヴィレムは片手を差し出し、掌を開いて『ダークマター』を受け取ろうとする。


「……それと。彼らの主張によると……ニコロさんから奪った『ダークマター』は……『消滅』したそうです」


その言葉を聞いた途端、ヴィレムは大きく目を見開いた。


「ハイ!? 消滅した!?」

「え!? 何デ!?」


驚愕に顔を歪ませるヴィレムに対し、アマデウスはどこまでも冷静に言葉を返す。


「……はい。彼らによれば『光を出しながら消滅した』とのことでして……」

「……私も彼らの発言には疑いを持ちましたが、到底あり得ない事態であると思います」

「そうでスカ……」

「信じますか……?」


アマデウスはヴィレムの表情を伺うように問いかけた。


「ウ~~~ン……困りまスネ~~~……」


ヴィレムは腕を組み、深々と眉間にシワを寄せた。


「もしそれが事実だとすると、折角集めた『ダークマター』が消されかねナイ……」

「……これは、考えを改めなくてはなりませンネ~~」


ヴィレムは静かに考え込んだ。執務室に重苦しい静寂が落ちる。


「……それと、次のお仕事についてでスガ……」


ヴィレムがそう言いかけた、その時だった。

執務室のドアから、トントンと二回ノックする音が聞こえた。


「お、来ましタネ……」

「ドウゾー……」


ヴィレムが声をかけると、静かにドアが開き、一人の男が室内へと足を踏み入れてきた。


「失礼します……ヴィレム様」


アマデウスとヴィレムの二人が、同時にドアから入ってきた人物へと視線を向ける。


「こちらへドウゾ……ニコロさん」


ヴィレムに促され、ニコロはゆっくりとした足取りで応接用のソファへと歩みを進めた。

タイミングを見計らったように再びメイドが現れ、新しい淹れたてのコーヒーをテーブルの上へと静かに置く。


「はい……」


衰えを感じさせない手つきでカップを受け取るニコロに対し、アマデウスが少し目を丸くして尋ねた。


「これは……これは、お怪我の方はもう大丈夫なんですか?」

「ええ……なんとか、完治いたしました……」


深く重い声でニコロが応える。かつてテンゴたちとの激闘で傷ついた身体は、すでに前線へ復帰できるまでに回復しているようだった。


「さて、ニコロさんも来ましたので……今後彼のリハビリも兼ねて、一緒にお仕事に当たっていただけまスカ?」


ヴィレムはアマデウスの方を向き、ごく自然な口調で指示を出した。


「はい……承知いたしました」


アマデウスは静かに頷いた。


その後、ヴィレム、アマデウス、そして復帰したニコロの三人は、合計一時間ほどにわたって密密な会談を重ねた。

組織の今後の方針について――。

『お告げ』の者たち、すなわちテンゴたち『宇宙の守護者たち』の対処法について――。

『ダークマター』のさらなる効率的な生成手段について――。

そして、互いの生活模様や仕事環境に至るまで、細かな意見交換が行われていく。


そうして、重苦しくも確かな殺気を秘めた会談は、静かに終了の刻を迎えたのだった。


◆◆◆


影のざわめきと、月なき夜の狂騒。

吹きすさぶ冷たい夜風が、『ゴルドバルク』の古びた石畳を舐めるように通り過ぎていく。

それはただの夜の気まぐれか、あるいは数刻後にこの路地で流される血の匂いをあらかじめ嗅ぎ取った、世界からのささやかな警告だったのかもしれない。


「昼も夜も働いて主人から感謝される訳でもなし……金になるわけでもない、とても我慢できない……。殿様暮らしがしたい、召使なんてまっぴら御免だ……!」


レポレッロが羽織っているのは、幾度も風雨に晒され、すっかり色あせた茶褐色の外套だった。

あちこちに綻びが見え、丁寧に当てられた継ぎはぎが、彼の歩む苦労の多い道のりを物語っている。


主人とは違い、実用性だけを重視したその粗末な布地は、冷たい夜風を完全に遮ることもできず、彼は身を縮こまらせるようにして歩いていた。

頭にはくたびれたフェルト帽を無造作にかぶる


華麗なる破滅へと突き進む極上の黒と、主人に振り回されながらも泥臭く生きる生活感の茶。対照的な二つの影が、甘美で危険な夜の帳の中へと溶け込んでいく。


仮面の男の身に纏うものは、夜そのものを縫い合わせたかのような漆黒のマントだった。

上質なベルベットの生地は微かな風にもなめらかに波打ち、その深淵のような黒の中に、ふとした拍子に見え隠れする裏地の真紅が、底知れぬ妖しさと情熱を匂い立たせる。


襟元や袖口には精緻な銀糸の刺繍が贅沢に施され、闇夜においても彼がただ者ではない気高い身分であることを無言で主張していた。

髪の毛はアフロ。仮面の下の端正な顔立ちと冷徹な瞳をより一層引き立てている。

その装い全体が、快楽のためならあらゆる危険を冒す、危険な美の象徴であった。


バルコニーの影に身を潜める仮面の男の胸中では、欲望という名の獣が飢えた瞳をぎらつかせていた。彼の足元には、従者レポレッロが震える手でマントを抱え、絶え間なく周囲の気配を窺っている。従者の愚痴交じりの呟きなど、ジョバンニの耳には一切届いていない。彼の全神経は、ほんの数分前まで熱を交わし合っていた貴婦人――コンスタンツェ……いや、ドンナ・アンナの部屋の窓へと注がれていたのだ。


「……こんばんは……夜分遅くに失礼。実は、貴方に殺人の依頼が出されてね……。こんな美しい貴婦人なのに、実に勿体ない……」


彼の美しく歪んだ唇が、微かに夜の闇へ言葉を溶かす。若き騎士の血潮は、あらゆる神の律法を嘲笑うかのように熱く昂っていた。


「では……勿体なきよう、お命頂戴――」


――錯綜する刃と、崩れゆく仮面。

だが、運命の歯車は冷酷なまでに正確に、破滅への軌道を刻み始めていた。

殺気に気づいた女の表情が、一瞬で底知れぬ恐怖へと塗り替えられる。


「!!!!」

「いやああああああああああああああああ!!!!!」


窓から飛び出してきたのは、待ち焦がれた恋人ではない。闇を切り裂くような切迫した悲鳴、そしてそれに続く激しい押し問答の気配。何者かが、彼の正体を暴こうと猛然と迫ってきたのだ!


「やはり来たな!?許さん! 卑劣な鼠め、姿を見せろ!」


響き渡ったのは、地鳴りのような重厚な怒声だった。

闇の中から現れたのは、ドンナ・アンナの父親である、厳格なる騎士団長(ドンナ・コマンダー)その人であった。彼は怒りに震える手で抜き身の剣を構え、黒マントに身を包んだ侵入者へと立ちはだかる。月の光が、その老騎士の中折れ帽と、決して揺るがない正義の信念を冷たく照らし出した。


仮面の男ジョバンニの足が、反射的に一歩引く。しかし、それは恐怖によるものではない。あまりに滑稽な障害物に対する、底知れぬ苛立ちと、血を求める快楽への渇望だった。


「おや、ご老体。こんな夜中に夜回りですか?」


嘲笑を帯びたジョバンニの声が、闇夜に響く。

彼は仮面を外しはしない。闇そのもののような漆黒の衣服に身を包み、冷ややかな微笑をその端正な顔に貼り付けたまま、お遊びでもするかのように軽やかに剣を抜いた。


「無礼者! 名を乗れ、さもなくば貴様の命をここで奪う!」


老騎士の剣先が震えている。それは老いによるものではなく、娘の名誉を踏みにじられたことに対する、沸騰するような憤怒のせいだった。騎士団長は一歩も引かず、容赦なく若き悪漢へと斬りかかった。


「娘から離れろ!!」


――鋼の衝突と、神の沈黙。

キィィンッ!


「あぁ……ボン様……っ!」


従者レポレッロが屋敷から飛び出してきた二人の対決を、震えながら監視している。

そう――本来の依頼対象ではない相手と、無益に剣を交えているのだ。


静寂を切り裂く金属の甲高い激突音が、『ゴルドバルク』の静まり返った街路を激しく揺らした。

二人の影が、まるで月のないキャンバスに描き殴られた狂気のように、複雑に交差する。


技量は、若さと圧倒的な狂気を宿したボン・ジョバンニが勝っていた。彼は相手の気迫をどこか冷めた目で観察し、まるで手慰みでもするかのように老騎士の攻撃を軽くいなしていく。しかし、騎士団長の背後には、守るべき誇りと、長年積み上げてきた揺るぎない道徳があった。その一撃一撃には、人間が持ち得る最高の気高さが宿っていた。


「……ふん、頑固な老いぼれめ」


ジョバンニの瞳の奥で、黒い炎がパチパチと音を立てて燃え盛る。

これ以上この劇を長引かせるわけにはいかない。周囲の窓が開き、使用人たちが騒ぎに気づき始める気配があった。一瞬の隙――ジョバンニはふっと息を吐くように、あえて力任せではない、死角からの鋭い突きを放った。


――ズシュッ。


鈍い肉を裂く音が、夜の冷気の中に吸い込まれた。


時間の流れが、突如として無限を引き延ばされたかのようにスローダウンする。

騎士団長の動きがピタリと止まった。彼の開いた口から、熱い血の泡がぽたりと零れ落ちる。その眼差しは、目の前の侵入者ではなく、遥か遥か遠く――彼が信じ続けてきた天上の神々を見据えているかのようだった。


「ぐっ……あ……っ」


老いた身体を支えていた最後の気力が、急速にその血管から逃げていく。

騎士団長の手から重い鉄の剣が手離れ、石畳の上へと無慈悲な音を立てて転がり落ちた。


――静寂の訪れと、底知れぬ予感。

ボン・ジョバンニは、自らの手で突き刺した剣の柄から、冷ややかに手を離した。

彼の胸にあったのは、勝利の歓喜でもなければ、慈悲の念でもない。ただ、「一つの障害物が片付いた」という、乾いた虚無感だけだった。


「……馬鹿な真似をするからだ」


息も絶え絶えとなった騎士団長は、自らの足で立つことができず、崩れるようにその場へ膝をついた。そして、冷たい石畳の上に全身を投げ出すようにして、微動だにしなくなった。

鮮烈な赤黒い血が彼の老いた身体の下からじわりと広がり、ジョバンニの磨かれた靴の先を濡らしていく。


風がぴたりと止んだ。

宇宙のすべてが、この瞬間に起きた「神聖な死」の重みに耐えかねて、息を潜めているかのような圧倒的な静寂。


遠くで、ドンナ・アンナの悲痛な叫び声と、住人たちの怯えた震え声が、夜の帳を破ってこちらへ近づいてくるのが聞こえた。


だが、ボン・ジョバンニは振り返らない。彼はただ、自らの血に染まった剣を静かに拭うと、不敵でどこか狂気を孕んだ笑みを浮かべたまま、その場から逃げるように走り出した。


そして、背後から悲痛な悲鳴が響き渡る。


「きゃああああああああああああ!!!!!」


闇夜から響くその声は、悪漢たる彼にとって痛快かつ爽快な響きであった。……だがしかし、本来の依頼対象(ドンナ・アンナ)を仕留め損ねたという思いだけは、悔しさとなって胸に残った。

何せ、これでは依頼金を受け取ることができないのだから――。


◆◆◆


夜の冷たい風が吹き抜けるその街――『ゴルトバルク』。

夜の気候だけが冷え込んでいるのか、あるいはこの惑星自体が冬の季節を迎えているのかは定かではない。

周囲の建物には明かりひとつ点いておらず、街全体が不気味なほどシンと静まり返っていた。物音ひとつ立てれば街路の奥まで響き渡るほどの静寂の中で、耳に入る音といえば、建物と建物の間を吹き抜ける寒風の音ばかりであった。


「いや~、暗いね~~」


誰かがぽつりと呟いた。暗闇のせいでその表情を窺い知ることはできない。


「来る時間帯、間違えたか……?」

「一回戻る……?」


静寂を破って歩く複数の足音。チヒロの提案に、独特な語尾の男性が肩を叩きながら愚痴をこぼす。


「なんか、体中が痛いんげんけど……あー、変な所で寝とったからなんかなー」

「こういった街って何か起こりそうなんだよなー。何せ、いつも『闇』に溶け込んでいる我だからこそ分かるんだが……」


フードを被ったピローが、闇に視線を泳がせながら呟く。


「2回続けて地球ではないとすると、ここも地球じゃなさそうだな~……。やっぱ戻って惑星探査(サーチ)の待機するか……」


静寂の中で会話を交わしながら歩むのは――『宇宙の走破者(スペースランナーズ)』の5人である。


「けどさー、もうそろそろ地球が見つかったり、他のプレイヤーと遭遇したりしてもいいんじゃね?」


テンゴが首の後ろに手を回しながら言った。


「うむ、うちらだけじゃ寂しいしなー」


ピローも同意するように頷く。


カルメンのいたセビリアの星から帰還した後、テンゴたちは各自の自室でしっかりと休息を取っていた。……ネルソンだけは転送室の床で気絶するように爆睡していたのだが、それもご愛嬌である。


そして、それから二日後のこと。

彼らはスペースコロニー『星巡りの港』において『惑星探査(サーチ)』を実行し、次なる目的地を探していた。そうして次に見つかったのが、この『ゴルトバルク』の街だったのだ。


決して目立つように降り立ったわけではない。探索するには良い時間帯かと思いきや、いざ転送されてみれば、肌を刺すような冷たい風が吹き抜ける真っ暗な街に出て来てしまっていた。


会話に夢中になっていた5人は、暗闇のせいで――自分たちに向かって猛スピードで近づいてくる「駆け足の音」に、直前まで気づくことができなかった。


――ドスッ!!


隊列の端を歩いていたフード姿のピローの肩に、闇の中から突っ込んできた何者かの身体が激しく衝突した!


「っぐわっ!?」


ピローは痛む肩を突き出された拍子に顔を上げる。

すれ違いざまに横目で確認すると――相手は目元だけを覆うベネチアマスク(ハーフマスク)をつけ、血相を変えて凄まじい勢いで走り去っていく人物だった。


「「「「「!?!?」」」」」


逃げ去る仮面の影を見送りながら、ピローが肩を押さえてぽつりと独り言のように呟いた。


「……いったたた……。今のは……血の匂い……?」


ピローがその不吉な匂いを察知した、まさにその瞬間――。


静寂と冷風の音しかなかった街中に、耳を突くような悲痛な絶叫が響き渡った!


「きゃあああああああああああああああああーーーーーッ!!!!!」


ドン・ジョバンニ改めボン・ジョバンニ編スタート


寒風吹きすさぶ街路に、悲痛な悲鳴がどこまでも高く響き渡った。


テンゴたちは尻もちをついていたピローを素早く引き起こすと、顔を見合わせて悲鳴の聞こえた方角へと即座に歩みを進めた。

すれ違いざまに肩がぶつかったあのベネチアマスクの人物は、振り返った時にはもう完全に向こうの闇へと溶け込み、姿を消してしまっていた。


悲鳴を聞きつけた街の住民たちが、ぽつり、ぽつりと不審そうに家の中から顔を出し始めている。


「みんな、行くぞ!」


テンゴの鋭い一声とともに、5人は暗がりの中を全速力で駆け出した。


現場へとたどり着いたテンゴたちが目にしたのは、すでに5人ほどの野次馬や使用人たちが集まっている惨劇の渦中であった。

その中心の石畳の上には、大量の血を流し、すでに息絶えてしまった一人の年配の男性――50代か60代ほどに見える厳格な面持ちの男が倒れていたのだ。


「!!」

「これは……っ」


あまりにも不吉な光景に、言葉を失うテンゴたち。

その人集まりの端で、肩を小さく震わせながらこっそりとその場を辞しようとする男が一人いた。従者レポレッロである。


「あの人も……騒ぎを嗅ぎつけて来た人なのかな……?」


チヒロが疑問気に呟く。


――その時。

屋敷の奥から、事態に気づいた人物たちが飛び出してきた。

先頭を走るのは、白いネグリジェ姿のまま飛び出してきた女性――殺害された騎士団長の娘、ドンナ・アンナである。そしてそのすぐ後ろを、彼女の許嫁であるドン・オッターヴィオが青ざめた顔で追ってきていた。


目の前に広がる実の父親の残酷な死にざまを目にし、ドンナ・アンナは気が狂いそうなほどの衝撃に襲われる。


「お父様……! 愛するお父様……ッ!!」


白いネグリジェを血で汚すのも構わず、ドンナ・アンナは膝をついて父である騎士団長の遺体へと縋り付いた。


「何と…言う…ことだ……」


後ろに控えていたドン・オッターヴィオが、絞り出すような声を漏らす。

屋敷の使用人たちも、自分たちの偉大な主人である騎士団長が冷たい石畳の上で死に絶えている現実を受け止めきれず、絶句していた。


騎士団長という職にある以上、死が常に隣り合わせであることは周囲の者たちにとっても周知の事実であった。

戦場での勇猛な戦いの末の戦死であれば、誇り高き命の散り様として街の者や家族にも誇りと覚悟をもって受け入れられただろう。


だが――今回はあまりにも違っていた。

忍び寄った不審な殺し屋の手によって、身内の邸宅の前で無惨に命を奪われたのだ。


ドンナ・アンナは必死に胸の奥で覚悟を決めようとした。衝撃のあまり、彼女の瞳からは涙すら流れなかった。


「殺し屋に殺されてしまうなんて……お父様……っ」


ドンナ・アンナは震える手で、冷たくなり始めた騎士団長の手に自身の手を重ね合わせる。


「息をしていないわ……手足も、こんなに冷たい……」


父の死という冷徹な事実を、彼女は自覚してしまった。


「愛するお父様ッ!! お父様ーーーーッ!!!……」


激しい感情の昂ぶりに、ドンナ・アンナはその場で叫び声を上げた。

すかさず近寄ったドン・オッターヴィオが、倒れそうになる彼女の肩を抱きかかえてなだめようとする。気が遠くなり、今にも意識を失いかけているドンナ・アンナを支えながら、オッターヴィオは控えていた召使いへ怒鳴るように指示を出した。


「気づけ薬を探してきてくれ!! 手遅れにならないように、何か気付けに効く強いものを頼む!!」


「は、はいっ!」


言われた召使いの一人が、顔を真っ白にしながら大急ぎで屋敷の中へと走り込んでいく。


――この凄惨で悲痛な光景を、テンゴたち5人は驚愕の目で見つめていた。

すると、ピローがハッと何かを思いついたように隣のモモへ声をかける。


「モモ……行こう……!」

「……うん」


二人はためらうことなく、血の海の中心へと歩み寄った。

崩れ落ちそうなドンナ・アンナを抱えていたドン・オッターヴィオが、見慣れぬ格好の二人に気づいて鋭く声をかける。


「……あんた達は誰だ!?」

「ただの通りがかりだ」


ピローが静かに答える。


「医者か……!?」

「我は違うが……こっちの女性はそうだ」


モモは何も語らず、アザラシクッションをそっと抱き直すと、迷いなくスキルを唱えた。


「――『全休符《ヒール》』」


アザラシクッションの両目が緑色の柔らかな光を放ち、温かな治癒の波動が騎士団長の身体を包み込んでいく。


――しかし。


どれほど治癒の光が注がれようとも、仰向けに倒れた騎士団長が再び目を開くことはなかった。

すでに命の灯火が完全に消え去った遺体に対しては、回復魔法すらも虚しく掻き消える運命にあったのだ――。


「……………」


スキルを注ぎ終えたモモは、静かに手を下ろした。

騎士団長の身体からは何の反応も返ってこない。


「……既に遅かったわね……」


冷たくなった肉体を前に、モモはポツリと呟いた。

その神秘的な緑の光を目撃したドン・オッターヴィオが、呆然と声を漏らす。


「……ん? ……何だ、今の光は……?」


しかし、微動だにしない悲惨な光景を前に、オッターヴィオは首を振った。


「……まあいい、もう……手遅れなんだ……」


そう諦めを口にすると、オッターヴィオは周りで震えていた召使いたちへ低く指示を出した。


「おい、お前たち。このお体を屋敷の中へとお隠ししろ」


指示を受けた召使いたちは、固まった表情のまま数人がかりで騎士団長の遺体を持ち上げ、静かに運んでいく。一人の召使いが、石畳の上に転がっていた騎士団長愛用の重厚な鉄の剣を拾い上げ、遺体の後を追うように立ち去っていった。


ドン・オッターヴィオは、自身に弱々しく寄りかかってくるアンナの肩を強く抱きしめ、必死に声をかける。


「アンナ、しっかりするんだ……! 元気を出してくれ……!」


何もできずに立ち尽くしていたピローとモモは、重苦しい空気から逃れるように、そっと数歩後ろへと下がった。

悲鳴を聞きつけて集まった野次馬は、テンゴたちを含めてすでに十人以上に膨れ上がっている。


「もう……いいわ……向こうに行って……! 私も……お父様と一緒に死ぬわ……っ」

「……アンナ!?」

「私の……私の愛するお父様が……あぁ……っ!!」

「アンナ、落ち着いて私の話を聞くんだ……!」

「いいのよ……! ねぇ、私のお父様はどこ……? どこへ行ってしまったの……!?」


正気を失いかけたドンナ・アンナは、よろめきながら激しく慌てふためく。オッターヴィオは彼女の悲痛な叫びを真正面から受け止め、その肩を強く掴んだ。


「これからは……私を夫とも、そして父とも思って頼ってくれ……!」

「ならば……誓って……ッ! お父様を無惨に殺したあの悪漢に……必ず復讐を果たすと誓って……!!」

「あぁ……誓う! 誓うとも……! 神に誓って、必ずやカタキを討つ!!」


テンゴたちは息を呑み、二人の悲痛な誓いのやり取りを黙って見つめていた。

事件の決着を見届けた野次馬たちも、どこか後味の悪さを顔に滲ませながら、一人、また一人とその場を去り始めていく。


――血濡れた灰色の日。

今日から二人の心は宙に漂い、ただ彷徨うばかり。心ここにあらずといった有様だった。

こうして復讐を固く誓い合った二人は、支え合いながら暗い屋敷の中へと消えていった。


騎士団長が流した鮮烈な赤い血は、冷たい石畳の上にそのまま取り残され、風に煽られながら溝へと静かに落ち、闇の中へと流れていく。


「……行こう……」


テンゴたち5人もまた、重い足取りでその場を去ろうとしていた。

ただただ、衝撃のあまり言葉を失っていたのだ。


――何故なら、このL K O(ラニアケアオンライン)において、「NPCの死」が確認されたのはこれが完全に初めてのことだったからだ。


5人の心境は今、激しく揺れ動いていた。

人が明確に「死亡」するという現実にぶつかったのは、この世界に囚われて以来、初めての出来事であった。

もしこれが運営の仕組んだイベントであるならば、死亡フラグの演出として処理される。

しかし――これが単なる決められた「イベント」などではないという恐ろしい可能性が、彼らの頭を強くよぎっていた。


(本当に……NPCが死んだのか……? なら、もし俺たちが……)


背筋を凍らせるような様々な可能性と謎を胸に抱きながら、テンゴたちは静まり返った『ゴルトバルク』の闇の中へと、静かに消えていくのだった。


その日の夜――。

『ゴルトバルク』にある一軒の宿屋の一室。小さなランプの灯りが、静まり返った部屋をほのかに照らしていた。


丸いテーブルを囲むように、テンゴ、チヒロ、ピロー、モモ、ネルソンの5人が集まり、ひそひそと膝を突き合わせていた。

この寒々とした謎多き惑星の街で、一体何が起きているのか。その真相を確かめるべく、互いの知恵と記憶をすり合わせるためだ。


「……ルスランが居たあの星の時、チェルノモールは完全に息絶えて退場したとばかり思ってたよ」


テンゴがランプの炎を凝視しながら、ぽつりと溢した。


「そうね……。でも後から分かったのは、彼は操られた状態でかろうじて生きていたってことだったわよね……」


チヒロが神妙な顔つきで頷く。


「しかし、あの時点では完全な生死不明の状態だった……」

「けど……あのチェルノモールだって、目を覚まさないだけで『完全に命が途絶えて死んでいた』わけではなかったのよね」


チヒロのその言葉に、ピローがふっと天井を見上げる。


「うちが『全休符(ヒール)』を掛けてもあの老騎士は目を覚まさなかったから、てっきり我が死んだと思い込んでいたが……」


モモがアザラシクッションを小さく抱き直しながら、ポツリと呟いた。


「そういや……この世界からログアウトできなくなって以降、誰も『墓』を落としてないからな……」


そう――『|L K O《ラニアケアオンライン』におけるデスシステムは特殊であった。

通常、フィールドでの狩りや激しいボス戦を問わず、プレイヤーのHPがゼロになると、上から自身の名前が刻まれた巨大な「墓(墓石)」がドスンと降ってくる仕様になっていたのだ。


プレイヤーたちは復活地点を選択して即座にリスポーンするか、あるいはその場で待機して仲間からの蘇生や時間経過による自動復活を待つこととなる。

かつて|L K O《ラニアケアオンライン時代には、降ってきたその「墓」をモンスターやボスの苛烈な攻撃を防ぐ緊急用の盾として悪用する『墓盾(はかだて)』という戦術を生み出す者まで現れたほどだ。パーティーの指示があればその場で墓のまま待機し、デスカウントが完全に尽きた場合のみボス部屋から強制退場させられ、扉の前で戦闘が終わるのを待つ……というのが、かつての当たり前のルールだった。


「……なぁ。もし、このログインできない『今の状態』で本当に死んだら……俺たちやNPCはどうなるんだろうな……」


テンゴの落ちついた、だが重みのある問いかけが、部屋の空気をいっそう冷たく沈み込ませた。


誰もその答えを知らない。

今まで見てきた戦闘やトラブルは、あくまでシステム上の演出や気絶で済んでいた。しかし今日、目の当たりにした騎士団長の最期には、あの「墓」すら落ちてこなかったのだ。これはプレイヤーではない事を確定させていた。

ただ冷たい血を流し、肉体そのものが物言わぬ死骸となって石畳の上に放置されていた。


その夜、5人の会話は絶えることなく静かに続いた。


明日以降、この見知らぬ街『ゴルトバルク』でどのように行動するべきか――。

逃亡中にピローの肩へと激しくぶつかって行った「ベネチアマスクの人物」の正体は何者なのか――。

そして、この街の裏で一体何が動き始めているのか――。


もし、敵対組織『UNIVERSAL ORDER(ユニバーサル・オーダー)』のような存在がこの街にも潜んでいるとしたら、自分たちはどう立ち回るべきなのか。万が一「死」に直面した時、システム的な保証など存在するのか……。


言葉を交わすほどに、問いだけが積み重なっていく。

しんみりとした重苦しい空気は、窓の外を包み込む『ゴルトバルク』の静寂なる漆黒の闇とともに、どこまでも深く、深く沈み込んでいくのだった。

今回の新章の登場人物

街『ゴルドバルク』

殺人鬼:ボン・ジョバンニ 殺人依頼を受ける。ドンナ・アンナを殺害しようとする。

騎士団長の娘:ドンナ・アンナ 忍び込んだベネチアンマスクの男に殺されそうになる

従者:レポレッロ 見張り役、役に立たなかった

騎士団長:ドンナ・コマンダー 仮面の男の正体を知らず殺される。

許嫁:ドン・オッターヴィオ ドンナ・アンナの父親の死を目にする。本人を介抱する。


2026/11/4 追加記入

今までジョバンニの服とレポレッロの服が定まってなかったので、記入しなかったが今回正式に決定追加します。


ボン・ジョヴァンニの身に纏うものは、夜そのものを縫い合わせたかのような漆黒のマントだった。上質なベルベットの生地は微かな風にもなめらかに波打ち、その深淵のような黒の中に、ふとした拍子に見え隠れする裏地の真紅が、底知れぬ妖しさと情熱を匂い立たせる。襟元や袖口には精緻な銀糸の刺繍が贅沢に施され、闇夜においても彼がただ者ではない気高い身分であることを無言で主張していた。髪の毛はアフロ。仮面の下の端正な顔立ちと冷徹な瞳をより一層引き立てている。その装い全体が、快楽のためならあらゆる危険を冒す、危険な美の象徴であった。


かたや、その後ろを慌ただしくついて歩く従者レポレッロの姿は、あまりにも対照的だった。


レポレッロが羽織っているのは、幾度も風雨に晒され、すっかり色あせた茶褐色の外套だった。あちこちに綻びが見え、丁寧に当てられた継ぎはぎが、彼の歩む苦労の多い道のりを物語っている。主人とは違い、実用性だけを重視したその粗末な布地は、冷たい夜風を完全に遮ることもできず、彼は身を縮こまらせるようにして歩いていた。頭にはくたびれたフェルト帽を無造作にかぶる


華麗なる破滅へと突き進む極上の黒と、主人に振り回されながらも泥臭く生きる生活感の茶。対照的な二つの影が、甘美で危険な夜の帳の中へと溶け込んでいく。



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