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消滅の宇宙  作者: 万世 千秋
カルメン
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55/60

敗北、恨み、悲壮


―――テンゴたちが闘牛場前に居た時、その内部では。


夕陽が広場の砂を真っ赤に染め上げるセビリア闘牛場。

数万人もの観客が発する熱気がすり鉢状の客席から立ち上り、むせるような興奮と熱狂が空間全体を支配していた。


突如、高らかに響き渡るファンファーレ。


第一ステージの幕開けだ。重々しい木製の扉が押し開かれ、漆黒の巨躯が猛然とピッチへ跳び出してきた。体重500キロを超える威容を誇る猛牛。しかしその双眸は、ただの野生を超えた「怒りと怪異の真っ赤な光」で爛々と不吉に輝いていた。


花形闘牛士(マタドール)であるエスカミーリョが、ピンクと黄色の絢爛豪華な大布「カポテ」を鮮やかに翻し、砂塵が舞うリングの真ん中へと静かに進み出る。


「トォロ(来い)……!」


鋭い制圧の声。巨牛は地響きを立てて猛進した。エスカミーリョは微動だにせず、計算し尽くされた足さばきでその突進を優雅にいなしてみせる。右へ、左へ。牛の角の傾きや癖を見極める、静かなる前哨戦だ。


そこへ、目隠しをされた堅固な馬に跨った「ピカドール(槍方)」が近づく。馬に激しく体当たりを仕掛ける巨牛。

その隙を突き、ピカドールが長く重い槍を牛の隆起した首筋へと深く突き刺した。野生の強靭な筋肉をほぐし、突進の頭を下げさせるための非情なる一撃。巨牛は重厚な咆哮を上げ、さらなる怒りを爆発させていく。


再びトランペットの音が甲高く鳴り響き、第二ステージへと移行する。


今度は「バンデリジェロ(モリ打ち)」の出番だ。マントという防御の盾を持たず、両手に色鮮やかな一対の短モリだけを握り締め、素手同然で牛の正面へと立つ。

観客席を張り詰めた沈黙が包み込んだ。


モリを打ち疾走する。同時に、巨牛も猛然と加速度を上げて激突コースを辿る。

激突の刹那、モリ打ちは美しい跳躍を魅せた。牛の巨大な角の先を掠めるような奇跡の一瞬の交差。

鮮やかな手際で、二本のモリが巨牛の背中へと深く突き刺さった。鋭い痛みが、槍のダメージで鈍りかけていた牛の闘争心に再び凶暴な火を点ける。背中から赤い血を撒き散らしながらも、巨牛はなおも牙を剥くような狂気的な闘志を漲らせていた。


そして――三度目のファンファーレが鳴り渡る。


楽団のために用意された特等席から、ビゼー作曲の名曲『闘牛士の歌』が闘牛場全体(プラサ・デ・トロス)へ向けて高らかに響き渡った。


最終・第三ステージ。運命の「真実の(テルシオ・デ・)瞬間(ムエルテ)」だ。


エスカミーリョがただ一人、再びリングの中央へと歩み出る。その手にあるのは、小さな赤い布「ムレタ」と、一本の細身の剣。

観客たちが一斉に息を呑む音が聞こえるほどの静寂が、歓声を塗りつぶして場内を支配した。

マタドールは、牛の燃え盛るような赤く光る眼差しを正面から堂々と受け止める。


「トーーロ……!」


低く、地を這うような呼び声。

巨牛は最後の生命力を絞り出すように弾け、弾丸となって突進した。エスカミーリョは身体を華麗にひねり、ムレタを美しく描く弧の軌跡で操る。牛の凶悪な角が、マタドールの着ているきらびやかな『光の衣装』の刺繍を掠めて通り抜けた。


一度、二度、三度。


赤い布の妙技に翻弄され、円を描くように無謀な突進を繰り返すうち、巨牛の息が荒くなっていく。完全に体力を消耗し尽くしたかのように、牛の動きがピタリと止まった。四肢を踏ん張り、荒い息を吐き出しながら叩きつけるように足踏みをする。


エスカミーリョは演出用の擬似剣を砂に捨て、一振りの真剣を抜いた。

剣先を牛の眉間へと向け、自らの命の照準を合わせる。死線を幾度も超えてきた二者の視線が、火花を散らすように交錯した。


エスカミーリョが力強く地を蹴った!


真っ直ぐに、猛牛の鋭利な両角の間へと飛び込んでいく。それは己の肉体を完全に無防備へと晒す、文字通りの命懸けの跳躍――!


――ガシィッ!!


肉と肉、骨と角がぶつかり合う、不吉で鈍い打撃音。


その瞬間だった。


牛の瞳が怪しく、昨夜と同じ「暴走の赤」へとなお一層激しく発光した!

布の誘導など完全に無視し、牛はエスカミーリョ本体の位置を正確に捉えていたのだ。


「――っ!?」


刺突の体勢に入っていたエスカミーリョのはらわたをえぐるように、凶悪で分厚い角が突き刺さった!


「ぐあぁぁぁぁぁぁぁっ……!?」


鮮血がセビリアの闘牛場の砂を真っ赤に染め上げる。


たった今までの熱狂が嘘のように、闘牛場を満たしていた『闘牛士の歌』の演奏がブツリと途切れ、数万人の観客席から一瞬の静寂の後、凄まじい大悲鳴とパニックのざわめきが巻き起こった。


その惨劇の真っ只中――闘牛場関係者用の出入口である「プエルタ・デ・クアドリージャ」の重い扉を押し開け、血の気が引いたカルメンの姿がそこに飛び込んできたのだった。


ミカエラの元を飛び出したテンゴたちは、息も絶え絶えに闘牛場のエントランスへと駆け込んだ。


館内は奇妙なほどの静寂に包まれていた。ロビーには凛々しい雄牛の銅像が佇み、歴代のマタドールが纏った絢爛豪華な闘牛士の衣装『トラヘ・デ・ルセス』がいくつもガラスケースの中に誇らしげに飾られている。

しかし、リング内で起きた異変のせいでスタッフたちは全員そちらへ総出で駆けつけているらしく、この辺りには人影ひとつなかった。テンゴたちは誰にとがめられることもなく、闘牛場の中心である砂の円形リング『ルエド』へと通じる通路を難なく走り抜けることに成功した。


このルエドの真上に位置する上段の席『グラーダス』や、一般的な観客席である『タンディードス』からは、観客たちのパニックに満ちた怒号と悲鳴が波のように押し寄せている。さらには、来賓たちが観戦する貴賓席『パルコ』のお偉方たちも、想定外の事態に泡を食っている。


テンゴたちは闘牛士たちの出入り口である『プエルタ・デ・クアドリージャ』へと辿り着き、ついにその視界に『ルエド』の全景を捉えた。


そのすぐ傍らには、誰よりも早く追いついていたカルメンの姿があった。

彼女は目の前に広がる凄惨な光景を前に、呼吸すら忘れ、ただ呆然と両手で口を覆い、言葉を失ったまま戦慄の表情で立ち尽くしている。


「あぁ……っ……!!」


つい先ほどまで、誇り高き花形闘牛士『エスカミーリョ』が華麗なステップで観客を魅了し、自身の勇姿を披露していたはずの場所。

そのリングの真ん中で――悪夢のような現実が繰り広げられていた。


物陰の避難所である『ブルラ・デロ』の板塀から、ピカドール(槍方)やバンデリジェロ(銛打ち)たちが、青ざめた顔で恐る恐る顔を覗かせている。そして次の瞬間、仲間を救おうと彼らは一斉にエスカミーリョの元へと駆け出した。


しかし、その目の前に立ちはだかっていたのは――昨日の海岸線で世界を狂わせた「黒い牛」、そしてジグラルタルの牛追い祭りで暴走した、あの禍々しい化け物「黒い牛」そのものだった。


巨体の怪物は真っ赤な目を狂気的に爛々と光らせ、その鋭利な両角に、血塗られた『闘牛士エスカミーリョ』の肉体をまるで串刺しにするように突き刺し、宙へと高く掲げ上げていたのだ。


あまりにも残酷な敗北。

その衝撃の事実は、セビリアの闘牛場『プラサ・デ・トロス』の全観客の絶望へと瞬く間に伝播していった。


エスカミーリョの口からはダラダラと鮮血が溢れ出し、脇腹や腹部からは大量の血が砂の地面へと滴り落ちている。彼の双眸はすでに虚ろを宿し、意識の限界を超えた――まさに「死の直前」の絶望的な状態に陥っていた。


「……ぐはぁっ……」


口から再び黒ずんだ血の塊を吐き出すエスカミーリョ。


「エスカミーリョ……っ!!」

「マタドール! しっかりしろ……っ!」


救出に向かったピカドールとバンデリジェロが、槍と短剣を構えて黒い牛へと飛びかかる。

その機を逃さず、テンゴたち『スペラン』の面々も「今度こそ逃がさない!」と武器を構えてルエドの砂塵の中へと一斉に駆け出した。


だが――。

怒りに燃える専門闘牛士たちの剣撃や槍先を、黒い牛はまるで蚊を払うかのように難なく躱し去る。それどころか、角にエスカミーリョの肉体を突き刺したまま、不気味に巨体をブルブルと震わせた。


「っぐへぇ……」

「っぶっへぇぇぇ……ッ!」


苦悶のうめき声を漏らしながら、英雄の肉体がさらに深く、冷酷な角の先端へと沈み込んでいくのだった――!


「「「エスカミーリョーーーッ!!!」」」


テンゴたちは声を揃えて叫び、ルエドの中央へと一斉に駆け寄った。

セビリアの円形リングのど真ん中で、英雄エスカミーリョがあの化け物牛の角に串刺しにされている光景は、あまりにも惨痛で見るに忍びないものだった。


誰よりも早く、ネルソンが一人疾風のように突進する!


「――『天球円舞・砕骨音衝(こつさいおんしょう)』!!」


飛び込みざまの回転の勢いを乗せた刃が、黒い牛の首筋へ強烈に叩き込まれた。

漆黒の体躯に真っ赤な目を光らせた狂暴な牛は、その強烈なダメージにたじろぎ、角に刺し貫いていたエスカミーリョの体をたまらず解き放ってしまう。


どさっ、と乱雑に砂の上へ叩き置かれるエスカミーリョ。


「っぶはあぁぁぁっ……!!」


口から再び激しく血を吐き出しながら、虚ろな眼差しでテンゴたちを見上げる。


「……に……逃げ……ろ……っ……」


そこへ、背後から追いついてきたピカドールとバンデリジェロが青ざめた顔で声を張り上げた。


「君たち、ここへ来てはいけない!!」

「ここは我々に任せて、早く逃げるんだ!!」


ターゲットをネルソンへと変更し、激しい殺気を放つ漆黒の猛牛。

テンゴは盾となるように一歩前へ踏み出し、二人の専門闘牛士へ向かって毅然と言い放った。


「逆だ! ここは俺たち『守護者』に任せろ!」


テンゴたち4人は、満身創痍のエスカミーリョとピカドール、バンデリジェロの三人を取り囲み、背後から庇うように守備陣形を展開する。


そして、間髪入れずに前線に立ち塞がったネルソンが、ニヤリと不敵に口元を歪めた。


「こいつ一体だけなら……拙者がすぐに片づけるげんて!!」


「行くぞ……!!」

「――奥義! 『剣の舞(つるぎのまい)・星のさすらい人』!!!」


ネルソンが叫んだ瞬間、彼の背後に眩い『星の紋章』が煌々と浮かび上がった。

必殺技発動を告げる絶対のシグナル――彼が戴くサムライの星の紋章『彫刻具座(ちょうこくぐざ)』である。自身のMP(マジックポイント)の半分を使用し発動した。


そのスキルの説明、真意には――。

『どこにあるのか、私の国は。私の祖国となる国、私自身の言葉が話されている国は。サムライよ、「お前のいないところにその国はある」』


旅人が果てしない星や無限の銀河をただ一人、孤独に歩み続けるように――「己の存在すら置き去りにするほどの超神速の抜刀」によって、敵の存在する空間そのものを丸ごと断ち切る、対ボス用の一撃必殺居合い術。


ネルソンが静かに刀を鞘へと納め、深く身構えたその一瞬。


セビリアの闘牛場を包んでいた観客たちのパニックの咆哮も、風の音すらも一切が途切れ――世界から完全に「音」が消え去った。


次に訪れたのは、地面を叩くかすかな足音と、肌を刺すような凍てつく冷気だけ。


ターゲットである「漆黒の赤く目を光らせた黒い牛」には、逃げ場のない圧倒的な重圧――身動き一つ取れなくなる無慈悲な呪縛が覆い被さっていた。

もはや術者であるネルソンの気配すら感じ取ることができず、黒い牛は困惑したように真っ赤な目を泳がせる。

その怪物の瞳には、遠く離れた場所に立つネルソンの「残像(影)」だけが錯覚として映し出されており、それに気づいた時には――すでに神速の抜刀軌道は完了していた。


術者ネルソンが放ったのは、空間そのものを両断する神の如き居合い。

どこにも存在しない理想郷(=敵の生存領域)を求めて放たれた刃は、鞘を抜けた瞬間に、黒い牛の背後へと疾風のように通り抜けていた。


――カチリ。


静寂のなか、納刀の硬質な音がルエドに硬く響き渡る。


漆黒の黒い牛の巨体に、一瞬遅れて鮮烈な十字の閃光が奔った。

己の体が灰となって消滅していくことすら知覚できぬまま、その真っ赤な瞳は最後まで獲物を探し求めるように虚空を彷徨い――そして、煙となってセビリアの空へと溶けて消えていった。


「銀河を越え、星を渡り……我が居場所は、どこにもない」


刃を完全に納めきったネルソンは、風に髪を揺らせながら低く呟いた。


「なればこそ――此の一太刀に、すべてを捧ぐ。……げっちゃ」


その時、モモがそっとエスカミーリョの傍らへ歩み寄ると、上から見下ろしながら抱え込んだアザラシクッションをギュッと強く抱きしめた。

地の上に横たわるエスカミーリョは、虚ろな眼差しで彼女を見上げる。


「――『全休符《ヒール》』」


モモが呟くと同時に、アザラシクッションの双眸がエメラルドグリーンの幻想的な光を放った。

次の瞬間――エスカミーリョの肉体を貫いていた凄惨な腹部の傷口が、瞬く間に塞がっていく。血に染まっていたはずの全身へ、まるで最初から何もなかったかのような圧倒的な回復エネルギーが充満していった。


さっきまで息絶え絶えに倒れていたはずのエスカミーリョは、驚きに目を見開きながらその場でガバッと起き上がった。


「こ……これは……っ!?」


エスカミーリョは自分自身の手のひらを何度も開閉し、次いで抉り取られたはずの自身の腹部へと触れてみる。

そこには傷跡ひとつ残っておらず、それどころかリングに足を踏み入れた瞬間以上の万全な体力が、全身に満ち溢れていたのだった。


「無事に回復できたようね……」


モモがアザラシクッションを抱え直しながら、静かに言った。


そこへ、血の気が引いていたカルメンが、信じられないものを見るような、それでいて深い安堵を湛えた眼差しで駆け寄ってくる。


「エスカミーリョ……っ!」

「カルメン……っ!」


二人は固く見つめ合い、お互いの名を慈しむように呼び交わした。


追いついたピカドールとバンデリジェロの二人も、唖然とした様子で歩み寄ってくる。


「いま……一体何が起きたんだ……!?」

「君たち……一体、何を使ったんだ……!?」


そしてカルメンもまた、目を丸くしてテンゴたちを見つめた。


「あなたたちって……本当に何者なの……?」


元気いっぱいに躍り出たエスカミーリョは、誇らしげに胸を張ると高らかに叫んだ。


「カルメン! バンデリジェロ! ピカドール! その問いには、この私が答えよう!!」


三人が一斉にエスカミーリョへと視線を向ける。


「彼らの真の正体は――『宇宙から来た守護者』だッ!!!!」


自信満々に堂々と宣言するエスカミーリョ。


「「「「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!?」」」」

「「「「うあああああああああああああああっ!!!?」」」」


その突き抜けた宣言に応えるように、闘牛場全体『プラサ・デ・トロス』の観客席から、天地を揺るがすような怒涛の大歓声と拍手が巻き起こった!


「な、なんだ今の光景はーーーっ!?」

「あり得ない! 瀕死のマタドールが一瞬で立ち上がったぞ!?」

「おいお前たち、一体どこからやってきたんだーっ!?」

「闘牛士の隠された仲間なのかーーーっ!?」


客席の至る所から絶叫のような疑問と興奮の声が飛んでくる。

化け物牛を神速の一閃で葬り去ったネルソンが、肩をすくめながらテンゴたちの元へとゆっくり歩いて戻ってきた。


テンゴたち5人は苦笑いを浮かべつつも、観客席の熱狂に応えて大きく手を振ってみせる。それに触発されたエスカミーリョもまた、華やかな笑顔で観客たちへ手を振り返した。


「やあ、君たち……なんとお礼を言えばいいか分からないよ。本当なら私は、ここで命を落とし敗北していたはずだった」


エスカミーリョは穏やかな微笑みを浮かべ、テンゴたちと視線を合わせた。


「この職に就いている以上、『死』とは常に隣り合わせだ。相応の覚悟はしていたつもりだったのだが……。しかし、あの赤く目を光らせた化け物牛は見るのも聞くのも初めてだったよ。あれは本当に、この世界の『牛』なんだろうか?」


「……それが、俺たちにもさっぱり分からないんだ」


テンゴが腕を組み、眉をひそめて答える。


「あの牛はこの街に最初からいた個体なのか……それとも、何か全く別の異常事態が生み出した存在なのか……」

「昨日の海岸線で戦った牛も、さっきの『牛追い祭り』で暴れてた牛も、みんな同じように赤く目を光らせていたわね」

「あの牛たちってさ、単純に赤い月を見たから凶暴化したってわけじゃなさそうだよね〜」


仲間たちが口々に分析を交わし合う。


「そうか……だがね、ここ『ルエド』のリングに立った以上、どんな相手だろうと闘牛士として誇り高く戦うのが私の生き様だ」


エスカミーリョは自身の胸に手を当て、力強く言葉を続けた。


「命を救ってくれたことには心から感謝する。ありがとう、見事な守護者たちよ。私は闘牛士エスカミーリョだ! たとえ次があろうとも、あんな化け物に決して臆することなく立ち向かってみせるよ!」


しかし、異形の黒い牛は完全に消滅し、ルエドの砂の上に危険な存在はもう一頭も残されていなかった。これにて、本日の闘牛興行は幕を閉じたのだ。


「ああ! そうだな! それでこそ本物の『闘牛士』だ!」


テンゴがニッと笑って親指を立てた。


「……これで、ひとまずは一件落着なのかな〜?」


モモが首をかしげる。


「暴れていた奴らは、これで全部倒しきったはずやが……」


ネルソンも刀の柄に手を置いたまま呟いた。


「エスカミーリョ……」


カルメンが静かな声で彼を呼ぶ。


「カルメン……すまない。今回の闘牛で、私は不甲斐なくも敗北を喫してしまった……」

「いいのよ……そう、無事だったのなら、それで十分よ……」


カルメンは優しく微笑むと、再びテンゴたちへと視線を向けた。


「本当に……あなたたちって、一体どんな人たちなのかしらね。なんだか、すっごく興味が湧いてきちゃったわ」


その時だった。


カルメンはエスカミーリョから視線を外し、目の前に立つテンゴに少しだけ歩み寄って、その正体を聞き出そうと口を開きかけた。


「ねぇ…あなたのお名前を聞かせ……」


――だが、テンゴの瞳がふと、彼女の背後にある闘牛士の出入り口――自分たちがつい先ほど潜り抜けてきたばかりの「プエルタ・デ・クアドリージャ」へと向けられた。


その暗がりから、一人の男の姿がふっと浮かび上がった。

周囲を埋め尽くす観客たちの熱狂的な歓声や拍手が凄まじかったため、その足音がかき消され、彼の接近に気づくのが遅れてしまったのだ。


その男の姿を、カルメンはよく知っていた。

ここ数日間、愛と憎しみの渦中で行動を共にしてきた人物――ドン・ホセ。

しかも彼の両手には、いつどこで手に入れたのかも分からない異様な「銃剣」がしっかりと握り締められていた。


カルメンが息を呑み、目を見開いて硬直する。その絶望に染まった表情を見た瞬間、テンゴの背筋に稲妻のような戦慄が走った。


(――来るっ……!! とてつもなくヤバい事が起きる……ッ!!)


テンゴの直感は、最悪の形で的中した。


カルメンの真横にいたテンゴは、考えるよりも早く愛用の扇子を構え、文字通り飛び込むように前へと身を乗り出す。


その刹那――セビリアの闘牛場『プラサ・デ・トロス』の全空間と、テンゴたちの耳を切り裂くような狂気の叫びが響き渡った。


「死ねえええええええええええええええええええええ――――ッ!!!!!! カルメーーーンッ!!!!!!」


爆音が闘牛場を揺らす。銃口から火を噴いた発砲音が、すべての歓声を一瞬で塗りつぶした。


「――『天空・完(パーフェクト・)全五度(フィフス)』ッ!!!」


テンゴが叫びと共に扇子を掲げた瞬間、その小さな扇子は目眩く光を放ち、一瞬にして巨大な扇型の「完全無敵の光の盾」へと膨れ上がった。


――ガキィィィンッ!!


飛来した凶弾は、黄金の光の障壁に真正面から弾き飛ばされ、軌道を大きく逸らされる。

あまりにも紙一重の神速の防御。もしわずかコンマ数秒でも遅れていれば、弾丸は確実にカルメンの――あるいは周囲の誰かの命を奪っていたはずだった。


弾き飛ばされた銃弾はカルメンの頬をかすめ、鮮やかな一筋の血を引いて背後の壁へと消えていく。


「なっ……!? 何だ、今のは……!? なぜ外れた……ッ!?」


ドン・ホセが狂乱したように喚き散らす。その手はすでに次の銃弾を装填するため、狂ったようにリロードの動作へと移っていた。


「まだだ……まだ終わってないっ!!」


テンゴは頭をフル回転させる。

先ほど発動した『天空・完全五度』は完全無敵の絶対防御を誇るが、召喚持続時間は2秒、その代わりクールタイム(再使用までの待機時間)が5秒という致命的な隙がある。

連続して展開することは不可能であり、あと3秒は絶対に待たなければならない。ホセの焦燥じみたリロード速度次第では、次の銃撃に対して防ぐ手段がなくなってしまう。


その緊迫した一瞬の隙を逃さず、チヒロがすぐさま前へと踏み出した。


ドン・ホセは震える手で無理やり装填を完了させ、ふたたび血走った目で銃口をカルメンへと向け、引き金を引いた。


――パンッ!!


銃声が轟く。しかし、再使用のクールタイムが間に合わないと悟ったテンゴは、とっさに手元に残されていた扇子をカルメンの目の前へ物理的に力任せで振ってみせた。

一か八かの荒業――しかし、その奇跡的なタイミングがドン・ホセの狂気の銃弾を再びわずかに弾き、弾丸はカルメンの足元の砂を激しく抉りながら掠めて飛んでいった。


「今度こそ……今度こそ確実に仕留める……っ!!」


ドン・ホセは絶叫しながら、再び次の弾薬を込めるべく震える指を動かす。しかし、極限の精神状態と焦りからか、なかなか装填が噛み合わずにもたついている。


その致命的なもたつきを、チヒロは見逃さなかった。


「させないっ……!!」


ドン・ホセからわずか3メートルほど離れた横の死角から、チヒロの影が雷光の如く飛び出した。


「――『雷天の(ライトニング・)瞬奏(スタッカート)』!!」


チヒロが振り下ろした白杖の先端から、大地を抉るような凄まじい青白い雷が幾重にも迸る。

一撃、二撃、三撃、四撃――そして五撃目!

正確無比に叩き込まれた雷撃の鞭が、ドン・ホセの両手で構えられていた銃剣の銃身を強烈に撃ち抜いた。


ガシャアァァンッ!!


凄まじい電撃の衝撃に耐えきれず、ドン・ホセの使用していた銃剣は粉々に弾き飛ばされ、原型をとどめぬ鉄くずとなって宙を舞う。

さらにその弾き飛ばされた凶器の残骸は、あろうことか来賓や貴賓たちが観戦する高級貴賓席『パルコ』のど真ん中へと派手に飛び込んでいき、お偉方たちの悲鳴を誘った。


「んがっ……!?」


ドン・ホセは自分の手元から突如として銃が消え去り、目の前で起きたあまりにも非現実的な出来事に、その場で動きを止めて呆然と固唾を呑み込むのだった――。


「うおおおおおおおおおおおおっ……!!!!」

「カルメーーーンッ!!!!」


銃を失ったドン・ホセは、理性を完全に焼き切った獣のように絶叫し、再びカルメンめがけて突進した。

だが、その進路に立ち塞がったのは――他ならぬ、闘牛士エスカミーリョだった。彼は自らの肉体を頑丈な壁とし、狂乱するホセの猛進を真正面からガッチリとブロックする。


「このっ……! 雌牛め……ッ!!」

「憎い! お前という人間が心底憎い!! 俺はすべてを投げ打って、お前と新しい人生を歩むつもりだったんだ……!」

「なのに、なのにどうして……こんな惨い仕打ちをするんだよおおおっ……!!」


ドン・ホセはカルメンに対する積年の怒りと、報われない憎しみを狂気的にぶちまける。エスカミーリョが作り出した人間の壁の隙間から、血走った顔を無理やり覗かせ、大声で泣き叫んだ。


その鬼気迫るホセの姿を、エスカミーリョは一歩も引かぬ気迫でその身を挺して押し返す。


「ふああっ……! 嫌だ、嫌だ嫌だ……!! こんな恋の終わり方なんて、俺は認めない……認めないぞ、カルメンッ……!!」


ポロポロと大粒の涙を零し、子供のように泣きじゃくりながら訴えかけるホセ。


「何故なんだ……! 一体何故なんだよ……!? 俺のいったい何がダメだったんだ……! 教えてくれよ、カルメン……あぁあああああっ……!!」


絶望の淵で発狂したように吠えるドン・ホセの肉体から、突如として――不可思議な「漆黒の黒いオーラ」がボワボワと禍々しく沸き上がってきた。


そのドス黒い瘴気はうねりを上げてホセの後頭部の一点へと急速に集束し、ついには禍々しい「漆黒の黒い球体」を形成していく。その黒い球はドン・ホセの背後に落ちたのだ。


その異様な光景を目の当たりにした瞬間、テンゴたちの背筋に冷たいものが走った。

――あの黒い球体は、どこかで見た覚えがある。ジグラルタルの海岸と「牛追い祭り」で暴れ回った赤目の黒い牛たち、その根源から漂っていた不気味な気配と完全に一致していたのだ。


「お前なんか、もう地獄に落ちればいい……! この世から、消えてなくなってしまえばいいんだ……ッ!!」


ボロボロと涙を流し、見苦しくも狂ったように叫ぶドン・ホセの姿を、カルメンは冷ややかな眼差しで静かに見つめていた。

もはやそこにあるのは恐怖などではなく、あまりに情けない男への深い「呆れ」と軽蔑だけだった。それは、テンゴたち『スペラン』の面々にとっても同じことだった。人間の醜悪な執着の成れの果てに、誰もが冷めた視線を向けている。


その時――。


空間の空気が、ピタリと凍りついた。


場内の喧騒がスッと遠ざかり、ふわりと一筋の冷風が吹き抜ける。

高潔な白い貴族風の衣服を纏い、純白の髪を揺らしながら、特徴的なメガネのブリッジをスッと指で押し上げる――この場にいる全員がその顔を知る人物が、突如として空の彼方から重力を無視するかのように、地上へとゆっくりと舞い降りてきた。


――絵描きのアマデウス。


その優雅で不気味な来訪者は、混乱の渦中にあるドン・ホセのすぐ傍らへと音もなく歩み寄ると、その後頭部から落ちた「漆黒の黒い球」へと躊躇なく手を伸ばし、まるで宝物でも拾い上げるかのように優しく掴み取った。


その口元は、歓喜に歪むように異様な曲線を描いてねじ曲がっていた。


「そうそう……これこれ……これこそが、我々がずっと求めていた『素材』だ……」


アマデウスはうっとりと呟く。


テンゴたちは、そのあまりにも異常でシュールな光景を、ただ目の当たりにして言葉を失っていた。

知っているはずの人物が、予告なしに空からゆっくりと舞い降りてきたというだけでも常軌を逸しているというのに、彼が回収した「その黒い球体」の正体を知るが故に、彼らの驚愕は底知れぬ恐怖へと変わりつつあったのだった――。


「あ、アマデウスさん! それ、すっごく危ない物なんです……ッ!」


チヒロが思わず叫んだ。


「チヒロ……待て」


テンゴは低く静かな声をかけると、右手をすっと前へ差し出して彼女の言葉を制した。その瞳は、眼前に立つ白い服の画家の「化けの皮」を見破るかのように冷たく冴え渡っている。


「――今回のシナリオは、実に完璧な出来栄えですよ……」


メガネの奥の瞳を妖しく光らせながら、アマデウスは優雅に呟いた。


「ア……アマデウス……っ」


エスカミーリョの目の前で泣きじゃくるドン・ホセがすがるようにその名を呼ぶ。


「何でしょうか?」

「お、お前の言う通りに……俺はカルメンにありったけの情熱と愛情をぶつけたんだ……!! なのに、どうして……どうして俺の想いは実らなかったんだ!? これじゃあ……失敗じゃないかよぉっ……!」

「ふふ……何か勘違いしてらっしゃる様ですが、大成功ですよ……それに、この物語のシナリオは、まだ終わっていません」


アマデウスはホセから抽出した黒い球体を指先で愛おしそうに捏ねながら、冷酷にそう言い捨てた。


そして、ゆっくりとテンゴたち『スペラン』の面々へと向き直る。


「ところで……皆さん。せっかくの機会ですから、私からも一つ『お誘い』をさせていただいてもよろしいでしょうか?」


テンゴたちは息を呑み、静かにアマデウスの一挙一動を注視した。


「我々――『UNIVERSAL(ユニバーサル)・ORDER(オーダー)』の傘下に加わる気はありませんか?」


セビリアの空気を凍りつかせるような言葉。

テンゴたちはその組織名をハッキリと耳に刻み込むと同時に、一斉に腰の武器へと手を伸ばし、完璧な臨戦態勢を取った。


パーティの代表として、テンゴが前に一歩踏み出す。


「――断る」


静かだが、一切の不純物を交えない重厚な拒絶。


「そうですか……それは非常に残念です。仕方ありませんね……」


アマデウスはため息をつく素振りをみせると、手に持った黒い球体を掲げ、質問を投げかけてきた。


「こちらは皆さんすでにご存じの通り、『ダークマター』です。当然、君たちもお持ちですよね?……そちらを私に大人しく渡していただけませんか?」


トントン、と知的な手つきでメガネのブリッジを押し上げるアマデウス。


「持っていない!」


テンゴが即答した。背後のチヒロ、ネルソン、ピロー、モモの4人も異論はないとばかりに力強く頷く。


アマデウスは口元だけに不敵で粘着質な笑みを浮かべ、言葉を紡いだ。


「できれば…暴力などという野蛮な真似はしたくありません。……君たちだって、そうでしょう?」

「……そうだ。暴力なんて無駄な真似は嫌いだ。……だがな」


アマデウスの笑みがピクリと歪む。テンゴは間髪入れずに事実を突きつけた。


「俺たちの手元にあった『ダークマター』は――すでに消滅した」


その一言を聞いた瞬間、アマデウスの余裕ぶった表情が嘘のようにフリーズした。


「………っは? ……え? ……消滅……した……??」


信じられないものを見るような目で、テンゴたちを凝視するアマデウス。


「?? …何故です?? 一体なぜ??」


テンゴたちの記憶は確かだった。かつてルスランがいた星で回収した『ダークマター』は、手に入れた直後に謎の聖なる光を放ち、跡形もなく消滅してしまっていたのだ。


「……そんな子供騙しのハッタリが、私に通じると思いますか?」


アマデウスは一瞬乱れた呼吸を整え、再び思考を巡らせ始めた。あ然としていた顔から、一転して不気味な自信に満ちた表情へと戻っていく。


「ハッタリなんかじゃないわ!」


チヒロが毅然と声を張り上げた。


「あの黒い球……『ダークマター』は、まぶしい光を放ちながら私たちの目の前で消えたのよ……っ!」


「……………」


アマデウスはメガネを外し、胸元のハンカチで拭きながら再び深く考え込む。


「あり得ない……。現実的に考えられる手段としては、破壊は不可能ですが、何らかの手段で『叩き壊した』か、あるいは特殊な空間に『保管している』か……もしくは君たちが下手くその『嘘』をついているか、それくらいしかありません。そう簡単に『ダークマター』が消滅するなどという現象は、この世の理としてあり得ないのですよ」


アマデウスは手の中の黒い球体を愛おしそうに見つめながら、断言した。


「この『ダークマター』は、どのような物理攻撃や魔法を加えようとも決して壊れることはありません。何せ、人間から剥き出した『憎悪』や『絶望』そのものから構成されているのですから……」

「…………」

「その『ダークマター』が消えて無くなったなど……私にとっては冗談としても破綻している話なんですよ。……君たち。一体『何の力』を使ってそれを消したのですか……?」


「……俺たちにも、どうしてそれが光となって消滅したのかは分からない」


テンゴは偽りのない事実をそのまま答えた。


「……分からない、ですか。フフ……お互い、分からないことがまだまだ沢山あるようですね……」


アマデウスは淡々とテンゴとの会話を続けながら、その薄い唇を不気味に歪めた。


「まあ、良いでしょう。今まであなた方の行動を少し拝見させていただきましたが、君たちには『ダークマター』の生成そのものを防ぐことはできないようですし……」


アマデウスは指先で黒い球体を優しく転がしながら、不敵に付け加える。


「生成された『ダークマター』を、君たちに邪魔される前に回収すればいい……ただそれだけの話ですから」


そう言うと、アマデウスの視線はテンゴたちからふっと外れ、背後の別の場所へとチラリと向けられた。

その余裕に満ちた態度や表情には、まだ何か致命的な切り札を隠し持っているかのような、不穏で底知れない気配が漂っていた。


その時だった――。


エスカミーリョの目の前で無様に泣きじゃくるドン・ホセのすぐ真後ろから、音もなく忍び寄る「影」があった。

気配を殺し、足音を忍ばせてゆっくりと近づいてくるその影。エスカミーリョもドン・ホセも大柄な体格であったため、正面に立つテンゴたちの位置からその影の正体を察知するのは非常に困難だった。


まるで闇に紛れる忍者のように、その影は着実に距離を詰めていく。

目の前に立つエスカミーリョだけが、その人物の接近にいち早く気づき、視線を向けた。


――それは、エスカミーリョにとってもよく知る人物の姿だった。


しかし、その人物は手にした自身の鞄から「ある物」を素早く取り出し、迷いなく構えたのだ。


それを見た瞬間、エスカミーリョの顔が恐愕に引きつった。


「っ……!?!?」


身体が考えるよりも早く動き出していた。

エスカミーリョは泣きじゃくるドン・ホセを強引に脇へ突き飛ばすと、そのまま自らの身体を投げ出すようにしてその人物の前に割り込んだ!


――グサッ……!!!


冷たく、肉を穿つ鈍い音が響き渡る。


「がはっ……っ……!?」


先ほどモモの『全休符』によって完璧に完治したはずのエスカミーリョの腹部から、再び真っ赤な鮮血がどっと溢れ出した。


「「「「!!!!????」」」」


目の前で起きた悪夢のような二度目の惨劇に、テンゴたちは叫び声すら失って絶句した。


そして――その凄惨な光景を見届けたアマデウスは、声も立てずにただ満足気にあざ笑うかのように、再び口元をどこまでも酷薄に歪ませるのだった――。


「!!!」


エスカミーリョがドン・ホセを強引に突き飛ばしてまで庇った人影。

鮮血を吹き出しながら体制を維持するマタドールを見て、その人影は悲鳴に似た混乱の声を漏らした。


「!?!? エ、エスカミーリョさん??……っ、どうして……っ!?」


誤って大切なヒーローを刺してしまったかのような、震える女性の声。

エスカミーリョは血を吐き出しながらも、その華奢な肩をそっと自らの胸の中へと抱き寄せた。


「そうだ……っぐは……私だ……っぐ……君は……」


「「「「!!!」」」」


目の前で起きた衝撃の展開に、テンゴたち『スペラン』の5人も息を呑んで絶句した。

エスカミーリョの胸に抱かれているその影の主――テンゴたちもよく知る人物だった。


――そう、ミカエラだった。


「ミカエラさん……っ!?」


彼女は、静かにドン・ホセの背後へと忍び寄り、足音を殺して近づいてきていた。エスカミーリョはその異様な殺気に気づいていたが、彼女が鞄からあの落ちていた『ナイフ』を取り出して構えた瞬間、とっさに身体が動いてホセを庇ってしまったのだ。


「何故……何故なんですか……!? 何故、こんな男を庇ったりしたんですか……!?」


ミカエラはボロボロと大粒の涙を流しながら叫んだ。

突き飛ばされて地面に転がっていたドン・ホセが、信じられないものを見るような目でミカエラを見上げる。


「……っぐっ……ッぐへ……」


腹部を深く抉られたエスカミーリョは言葉を発せず、ただ優しく彼女の言葉を受け止めるように静かに耳を傾けた。


「その男は……最低な男です! 私の命がけの想いも、お母様の愛すらも土足で踏みにじって、カルメンなんて女性に求婚して……断られたからって刺し殺そうとした……本物の『悪魔』です!!」

「悪魔だから……ここで死ぬ必要があるんです! この男に、生きる価値なんて最初から一ミリもありません……ッ!!」


ミカエラの慟哭(どうこく)混じりの独白。テンゴたちも、カルメンも、その場の全員が彼女の抱えた計り知れない絶望と憎しみを痛いほどに理解していた。

そして――アマデウスさえも。しかしアマデウスの口元だけは、すべてが己の筋書き通りだとでも言いたげに、不気味に歪んでいた。


「私は……アマデウスさんからお手紙を頂きました……」


ミカエラの鞄から、先ほど抱え込んでいた便箋がスッと滑り落ち、砂の上へと落ちる。


「『愛情を受け入れてもらえるまで、愛情を注ぎなさい。星のように輝く最愛の人をもう一度信じる勇気をもって愛しなさい』と……私は、そのお言葉を信じました……」

「けど……もう嫌なんです……! もう、すべてがどうでもよくなってしまったんです……っ!」

「憎い……もう……何もかもが憎い……ッ!!」


ミカエラのむき出しになった絶望と純粋な憎悪に応えるように、彼女の華奢な全身からドス黒い瘴気《オーラ》が噴き出した。

あまりにも深く破滅的な感情。


「私も……もう、生きる意味を失いました……」


その黒い瘴気はミカエラの後頭部の一点へと一気に集中し、新たな漆黒の球体――『ダークマター』を生成すると、ぽろりと地べたへ落ちた。

その漆黒の球は、皮肉にもアマデウスの書いた便箋の真上へと転がり落ちる。


「いやあああああああああああああっ……!!!」


ミカエラが頭を抱えて叫ぶ。

その足元に転がった二つ目の『ダークマター』へ、テンゴの視線が鋭く走った。

アマデウスもまた、その球体へと怪しい目を向ける。テンゴが動こうとした気配を察知し、アマデウスの口元にニヤリと粘着質な笑みが浮かんだ。


(――これ以上、あいつの思い通りにさせてたまるかッ!!)


次の瞬間、テンゴの身体は弾丸のように弾け飛び、地べたの『ダークマター』を回収すべく一直線に手を伸ばした!


しかし――テンゴの指先が球体に触れる、まさに直前。


便箋の上に落ちていたダークマターが、まるで生き物のように紙面へと吸い込まれ、包み込まれていく。


「!!?」


間一髪で手元を掠めた瞬間、手紙に包まれたダークマターは空間を滑るようにして、一瞬で遠く離れたアマデウスの手元へと不自然に転移した。


「何だ……!? 今のは……ッ!?」


テンゴは空を切った手を見つめ、驚愕の声を上げるのだった――。


「っ……!」


力を振り絞り、エスカミーリョは血を流す身を起こしながら、その震える手を伸ばしてミカエラの頬にそっと触れた。


「それでも……君には、やっぱり……笑顔が似合う……」


最後の最後まで彼女の心を案じるその優しい言葉。

その瞬間、ミカエラの脳裏に電撃が走った。自分が今、誰に、何をしてしまったのか――その取り返しのつかない現実の重みが、ようやく彼女の心にズシリと突き刺さる。


「ああああああああああああああああああああ――――っ!!!!!」


エスカミーリョの胸の中で、ミカエラは我が身を切り裂かれるような絶叫を上げ、その場に崩れ落ちるように蹲った。


「私は……私はなんてことを……っ! 取り返しのつかないことを……してしまったの……っ!!」


ピタリとミカエラの傍らに歩み寄ったのはモモだった。

彼女はエスカミーリョの腹部に深く突き刺さったままのナイフを、躊躇うことなく一気に引っこ抜く。


「!!っぐっはァ……!」

「――『全休符《ヒール》』」


モモが抱きしめるアザラシクッションの双眸が、眩いエメラルドグリーンの光を放つ。

あふれ出していた血がピタリと止まり、エスカミーリョの砕けた組織や抉られた腹部は、まるで最初から何事もなかったかのように奇跡的な治癒の光に包まれていく。


「っふぅ~~……。助かったよ、お嬢さん」

「……はい。仕事なので……」


モモは淡々と返事をすると、エスカミーリョの傷を完全に塞ぎきった。


その隙に、テンゴは血走った瞳のままアマデウスへと向き直り、殺気立った鋭い睨みを利かせながら一歩、また一歩と歩み寄る。

すべての元凶であり、この悲劇のシナリオを裏で糸引いてきた男を、今度こそ逃さず問いただすために――。


しかし、アマデウスは相変わらず不敵に笑みをたたえたまま、指先でスマートにメガネのブリッジをクイッと押し上げた。


そして、まるで観客のいない劇場の片隅で呟くように、独り言をこぼす。


「……そろそろ、時間のようですね」


その不気味な呟きを聞き逃さなかったテンゴは、全身の警戒レベルを跳ね上げ、周囲へと鋭い視線を巡らせた。

敵はどこから来る? 地面か? 背後か?――だが、人の心理として、警戒はどうしても「水平の視界」へと向きがちになる。


――否。


(……上だッ……!!)


直感に突き動かされて真上を見上げた瞬間、視界の天井から、サッカーボールほどの大きさを誇る禍々しい「緑色の球体」が凄まじいスピードで急降下してくるのが捉えられた。


「っ――!」


テンゴは瞬時に懐から防具の扇子を引き抜き、正面へと大きく振りかざす。


「――『天空・完(パーフェクト・)全五度(フィフス)』ッ!!」


激突の瞬間、扇子は巨大な黄金の光の盾へと変貌し、真上から直撃した緑色の球体を盛大に弾き飛ばした。

ズシャアアアッと凄まじい砂埃が巻き起こり、周囲の視界が一瞬で視界不良のホワイトアウト状態に陥る。


「あと少しで、この物語も完結を迎えます……。そう、唯一『ダークマター』だけが回収しきれなかったことだけは、私の計算外のシナリオでしたが、まあいいでしょう、貴方がたが持っていないのなら仕方ありません」


煙の向こうから、アマデウスの優雅な声が響く。

視界が晴れた時には、すでに彼は地に伏せていたドン・ホセのすぐ傍らへと、いつの間にか音もなく移動していた。


「――逃がすか、アマデウスッ!!」


テンゴが叫び声を上げ、一気に間合いを詰めようと地を蹴る。

やはりアマデウスは、最初からこの場からトンずらする手はずを整えていたのだ。


だが、その目論見を妨害するかのように――今度はテンゴたちの真上、上空のあらゆる死角から、色彩豊かな「7色の玉」がまるで雨あられのように一斉に急降下してきた。


「「「「っ!?――来るぞッ!!」」」」


テンゴだけではない、ネルソンやチヒロたち仲間全員が瞬時に臨戦態勢へと移行する。


「『天空・完(パーフェクト・)全五度(フィフス)』!!」


テンゴは再び扇子を真上へと掲げ、絶対防御の光の盾を展開して、無数の七色の大きな玉を凄まじい爆音とともに片っ端から弾き落とした。


ガキィィィンッ! と視界を貫く衝撃波のなか、弾き飛ばされた玉たちが地面に激突したのと同時に、さらなる濃密な砂煙が辺りを完全に支配する。


その砂嵐の猛威のなか――不自然な黒い人影が、地面に倒れ伏している者の襟首を片手でガシリと掴み取り、凄まじい跳躍力で一気に宙へと飛び乗って移動していくのが、かすかに視界の端に捉えられたのだった。


サッカーボールほどの大きさを誇る七色の大きな球たちは宙にふわりと静止すると、テンゴたちめがけて一斉に苛烈な追尾攻撃を開始した。


ズドドドドドッ――!!!


爆音と共に発生した凄まじい砂埃が、セビリア闘牛場『ルエド』の円形リング全体を真っ白に覆い尽くし、中央で何が起きているのか視界が完全に遮断される。鈍く重い衝撃音が、闘牛場の隅々にまで不気味に響き渡った。


その隙に、アマデウスは優雅に宙を滑るように移動し、いつの間にか闘牛場の最上段にある観客席の真上へと辿り着いていた。

彼の手には、先ほど回収したばかりの『ダークマター』が握られている。その傍らには、ドン・ホセの襟首を片手で無造作に掴んだ不気味な人影が佇んでいた。

アマデウスはその人物の襟首を離し、立たせた。


アマデウスは高みから見下ろすように、煙るルエドの舞台に視線を注ぐ。


しばらくして、風が吹き抜けて砂埃がスーッと晴れていく。

そこに現れたのは――ドーム状に大きく展開された5つの巨大な「扇子の大盾」だった。


その絶対的な防壁の内側に守られていたのは、テンゴたち『スペラン』の5人だけではない。

瀕死の状態からモモに癒やされたエスカミーリョ、カルメン、先ほどまで絶望に泣き崩れていたミカエラ、そしてピカドールとバンデリジェロの2人を合わせた、合計10人の命――テンゴは見事に全員をその大盾で護り抜いてみせたのだ。


「ほう……?」


アマデウスは目を見張り、わずかに感嘆の声を漏らした。


「これが、報告に上がっていた『守護者』たちの実力ですか……見事なものですね」


その頭上からの視線に気づいたテンゴは、展開した大盾の隙間からすっと顔を上げ、眩しい太陽を背負うアマデウスをキッと見据えた。


「さぁ、どうする!? アマデウスッ!!」


テンゴの叫びが闘牛場にこだまする。


「いいでしょう……!君たちの実力を、存分に拝見させてもらいましょう!」


アマデウスは不敵に笑うと、懐に『ダークマター』をしまい込んだ。


それに呼応するように、テンゴは視界を確保するために展開していた大盾のスキルを解除する。


「五 音 の(ペンタトニック・) 防 星(シールド)」の展開中は、外側の状況や敵の動きが極めて確認しづらくなるため、反撃に転じるためにはどうしても一時的にスキルを解除する必要があったのだ。


――その瞬間。


ミカエラの足元に落ちていた、あの「アマデウスの手紙」が、周囲に風など一筋も吹いていないにもかかわらず、ふわりと勝手に宙へと舞い上がった。

便箋は禍々しい漆黒のオーラを纏いながら、まるで生き物のように急速にそのサイズを膨れ上がらせていく。


そして、その黒いオーラの奔流のなかから――誰もがよく知る、あの「悪夢の影」が再び這い出てきた。


そう、かつて海岸や牛追い祭りを血に染め、今まさにここで討ち果たしたはずの――『赤く目を光らせる黒い牛』である。

よく考えれば、黒い牛などこの世界ではどこにだだいる家畜の一種に過ぎない。このセビリアの闘牛場であれば、なおのこと不自然ではないはずだった。


「「「「っ……!?」」」」

「あれは……あの時の化け物牛だ……ッ!」

「今思えば、一般人も俺たちも、普通の牛と見間違うのは当然だったってわけか……!」

「こいつを裏で全部召喚しとったの、やっぱりアマデウスやったんがか……!」

「……そうらしいわね。すべての元凶よ……!」


仲間たちが息を呑みながら武器を構え直す。


「よし、行くぞみんな! 準備はいいか――っ!?」


テンゴが周囲の仲間たちに声を張り上げて鼓舞する。戦闘から離脱すべき非戦闘員を除いて、メンバーの臨戦態勢は完璧だった。


「今までの道中で召喚してきた『闘牛の魔獣(ハバネラ・ブル)』とは格が違います。こいつは、これまでの個体とは比較にならないほど数段に強化してある――存分にお楽しみいただけるはずですよ!」


アマデウスは愉悦に満ちた笑みを浮かべ、高らかに宣言する。

そう、ミカエラが持っていた手紙の裏に描き添えられていた不気味な黒い牛のイラストは、単なるポスター用の意匠などではなく、この『召喚の触媒』そのものだったのだ。


「待って! エスカミーリョも、カルメンも、ミカエラさんも……後ろの二人も、まだ誰も避難してないわ!」


チヒロが切迫した声で叫ぶ。


「チヒロの言う通りだ! みんな、ここは俺たちに任せて早く逃げろ!」


テンゴは臨戦態勢を崩さぬまま、背後にいる一般人たちへ声を飛ばす。


「カルメン、ミカエラ! 君たちは早くここから離れるんだ。『闘牛士の退避場(ブルラデロ)』まで案内する!」

「お、おい、エスカミーリョさんは……!?」


テンゴが振り返りながら叫ぶと、傷を癒やしたばかりの花形闘牛士は、怯むどころか不敵な笑みを浮かべて愛用の剣を構えていた。


「言ったはずだ! 私は闘牛士エスカミーリョ……ッ!」

「目の前に現れた猛牛と対峙し、戦うことこそが闘牛士の宿命だ!! 私がここで逃げるわけにはいかないっ……!!」












闘牛において

「バンデリジェロ」と言う表記は、小説において、日本人に読みやすい表記である為、そちらに変更します。

「バンデリリェーロ」はスペイン語に近い表現の仕方らしいです。しかし、スペイン語を真似るより

日本人向けに「バンデリジェロ」にした方が読みやすいのでそちらに変更します。


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