終幕第5幕 修羅場
数百人規模の大移動がジグラルタルからセビリアへと向かっているその頃――。
華麗な花形闘牛士たちのパレードが終わり、一目その勇姿を見ようと集まった見物客たちで、闘牛場周辺は足の踏み場もないほどのおしくらまんじゅうとなっていた。
やがて、大歓声の中でエスカミーリョが笑顔を振りまきながら闘牛場の裏手へと歩き去った後、その場にはカルメンの姿が残されていた。
間もなくして、闘牛場の正門からセビーリャ市長が関係者を引き連れて姿を現す。
「皆様、道を開けてください! 市長が通られます!」
「皆さん、ありがとう!」
「今日は素晴らしい闘牛になるでしょう! 皆さん、良い一日を!」
市長は歩きながら沿道の観客たちに優雅に手を振って挨拶し、そのまま堂々と闘牛場の中へと吸い込まれていった。
その様子を遠巻きに眺めながら、闘牛場周辺を誰かを探すようにうろついているカルメンの姿に、ふと気づいた女性がいた。
その女性は、かつて密輸団の一員としてカルメンやドン・ホセと共に仕事をしていた顔見知りであり、ホセの異様な精神状態や最近の事情をよく知る人物だった。
カルメンは周囲の喧騒に目を光らせ、誰かを警戒するように視線を泳がせていた。
そんな彼女の背後から、密輸団の女性がそっと歩み寄り、声をかける。
「カルメン……」
「……?」
不意に名を呼ばれ、カルメンはハッとして振り返った。
「カルメン、あなた……早くここから離れた方がいいわ」
「どうして……?」
カルメンはわずかに不安そうな声音で聞き返す。
「ドン・ホセが……人込みの中に身を隠しながら、ずっとこちらを伺っているのを見たの。だから、本当に用心して……」
「……あんな男、怖くないわよ」
カルメンは強がるように顎を引いた。
「今度こそ、面と向かってハッキリとケリをつけてやるわ」
そう口にするカルメンの瞳は微かに揺れており、視線は決して落ち着くことがなかった。
「そう……分かったわ。でも、本当に気をつけてちょうだいね」
そう言い残すと、密輸団の女性は足早に闘牛場の入口へと消えていった。
まだ試合の開始には時間がある。むしろ現在は、いよいよ一般客の入場ゲートが開放される直前の最も慌ただしい時間帯であり、露店を冷かす客たちも次第にまばらになり、今か今かと開場を待ちわびていた。
その時だった。
カルメンの歩く視線の先、わずか3メートルほど離れた人通りの真ん中に、見知った影が立ち尽くしていた。
周囲を何人もの見物客が慌ただしく通り過ぎていくというのに、その男は身を隠す素振りすら見せず、ただじっと冷たい目でカルメンを睨みつけていた。
――ドン・ホセ。
男は静かに、しかし一歩一歩確実にカルメンとの距離を詰めていく。
「……あんたね」
「そうだ」
カルメンは立ち止まり、震える声を絞り出した。
「近くにいるって噂には聞いていたけれど……今度は何? あたしの命でも奪うつもり?」
カルメンは目を泳がせながらも、精一杯の気概を見せるように叫んだ。
「でもね……あ、あんたなんかもう怖くないわ! 逃げはしないわよ!」
ホセはカルメンの怯え混じりの言葉を無言で飲み込むと、掠れた声で呟いた。
「傷つけるつもりも、殺すつもりもない……。俺はただ、カルメン、お前にお願いに来たんだ」
二人の会話は、行き交う群衆の足音と喧騒の真ん中で、まるでそこだけ時間が止まったかのように目と鼻の先で交わされた。周囲の歓声や雑音など、もはや二人の耳には一切届いていなかった。
「過去は……そう、過去はすべて水に流そう。二人で、全く新しい人生をやり直すんだ」
「どこか遠くの街へ行って、二人でやり直そう……!」
「何処ってどこよ? そんなの無理に決まってるでしょ。あたしは嘘をついて生きるなんてごめんだわ」
「あたしの意思は固いのよ! あんたとの仲なんて、とうに終わってるわ……そもそも、最初から始まってすらいなかったけど!」
「いいか、カルメン……まだ、間に合う……!」
ホセは切実に、すがるような目でカルメンの肩に手を伸ばそうとする。
「俺はお前を救いたい。愛するお前を救って、そして……俺自身をも救ってくれ……!」
「あんたはいったい何なのよ……あたしに何を言わせたいわけ?」
カルメンは冷ややかな目を向けた。
「俺はお前のことを本気で愛している……それは今だって変わらない!」
「けど……お前は、俺のことを一度だって愛してくれなかったんだな……?」
「ええ……そうよ。あたしが愛しているのは、エスカミーリョよ!」
「いいか、よく聞け……! お前のためなら、俺は何にだってなってみせる。お前の望むものなら、この命にかけてすべて与えてやる……だから、あんな男のところに行くな!」
ドン・ホセの声には、狂おしいまでの執着と、破滅前夜の悲痛な絶望が滲んでいた。
「頼む……思い出してくれ! 俺たちが共に過ごし、愛し合った日々を……!」
「一体いつからそんな時期があったのかしらね……思い出そうとしても、そんな日なんて一日もなかったわ!」
「……カルメン、俺は……!」
「ホセ、いい加減にして! あたしはジプシーの女よ。誰の言いなりにもならない、自分の心のままに、自由に生きるのよ!」
その瞬間――!
闘牛場の正面ゲート付近から、一斉に群衆の割れんばかりの歓声とざわめきが沸き起こった。
ついに、本日の闘牛に向けた「一般客の入場開場」が始まったのだ。
待ちわびた人々が、堰を切った水のように一斉になだれ込んでいく。
その凄まじい人の波と渦の中で、二人はなおも引き裂かれるようにその場に立ち尽くし、決定的な会話を続けようとした。
「あたしは……今からエスカミーリョに会いに行くのよ!」
「エスカミーリョが言ってくれたわ、『君を一目見た時から惚れた』って……! 私の本当の恋は、今、ここから始まったのよ!」
カルメンは冷たく言い放つと、背を向けて闘牛場の入口へと歩き出そうとした。
しかし――ドン・ホセはそのカルメンの手首を力任せにガシリと掴み、引き留めた。
「カルメン! いったいどこへ行こうと言うんだ……っ!?」
「お前が行くべき場所はそっちじゃない! こっちだ……俺と一緒に来るんだ!!」
「ホセ、離して! 痛い……その手を離してよ!」
ドン・ホセはカルメンの腕をただの力任せではなく、たとえこの腕が千切れて吹き飛ぼうとも二度と離さないという狂気的なまでの決意を込めて、強く、痛いほどに握り締めた。
「お前は……本気でアイツを愛していると言うのか……!?」
「そうよ! 愛しているわ、何よりもね!」
カルメンは半ば涙ぐみながら、しかし怯むことなく振り向きざまに叫んだ。
「すべてを投げ打って苦しむ俺をその場に置き去りにして、お前はあいつの腕の中で……愛を、愛を叫ぶと言うのか……っ!?」
「もう……あんたが何を言っているのか分からないわ……!!」
「許さん……絶対に許さんぞ……! お前は、俺と一緒に来るんだ!!」
「嫌よ! 絶対に嫌! あんたの顔なんて、もう見たくもないわよ……っ!!」
―――その時だった。
カルメンとドン・ホセの背後からとある人物が声を掛けて来た
「おい、ホセ!」
緊迫した小競り合いを切り裂くように、力強い声が響き渡った。
「っ……!?」
カルメンとドン・ホセのふたりがハッとして同時に声のする方へ振り向く。
そこに立っていたのは、昨夜の海岸沿いでカルメンの危機を救い、凶暴な黒い牛たちを退けた命の恩人――テンゴだった。
「取り込み中、悪いな……」
テンゴは二人を見据え、まずカルメンに向かって静かに投げかけた。
「カルメン……あんたも『自由』ってものには、相応の責任がつきまとうってことは分かってるよな……?」
カルメンは一瞬だけ言葉に詰まり、視線を気まずそうに泳がせた。
「……………」
「そうだ! 責任だ! お前は俺との関係に責任を取れ、カルメン!!」
ホセがすかさず激昂して叫び立てる。
「…………」
なおも沈黙を守るカルメンの横から、テンゴは毅然とした眼差しでホセを指さした。
「――あんたが一番責任を取るんだよ、ホセ!」
「なんだと……!?」
ホセが怒りを露わにしてテンゴへと向き直る。
だが、そこにいたのはテンゴ一人ではなかった。彼らの背後には、チヒロ、ネルソン、ピロー、モモ――『スペラン』の仲間たちがズラリと立ち並び、静かな威圧感を放っていたのだ。
「あんたに……会わせたい人物がいる」
テンゴの言葉を受け、チヒロが一歩前へと進み出た。昨日怒りの平手打ちを喰らわせた彼女が、静かだが凛とした声で語りかける。
「ホセ……ちゃんと話を聞いてくれるわよね……?」
ホセは依然としてカルメンの腕を強く握りしめたまま、テンゴたちの後ろから静かに歩み出てくる「その人物」を呆然と見つめた。
「ミ……ミカエラ……っ!?」
現れたのは、ミカエラだった。
実はジグラルタルから大疾走で駆け込んできたテンゴたちは、闘牛場の門前でホセを探し求めていたミカエラとバッタリ再会していたのだ。
昨夜、ホセもカルメンもミカエラもそれぞれ別の宿を取っていたため離ればなれになっていたが、ミカエラは「彼なら必ず闘牛場周辺にいるはずだ」と信じて探していたという。その勘は見事に的中し、テンゴたちと協力して二回目の人探しならぬホセ探しは無事にたどり着くことができたのだった。
ミカエラの美しい瞳には大粒の涙が浮かんでいた。彼女は自分の許嫁であり、生涯の愛を捧げたドン・ホセを真っ直ぐに見つめつづける。
「……もう……やめませんか、ホセ……」
「……何を、だ……?」
ホセの声が微かに震える。幼馴染であり許嫁である彼女は、誰よりもホセという男の優しさと弱さを知っているのだ。
「こんなこと……私はもう耐えられません。カルメンという女性に罪はないのです……」
「ミカエラ……?」
「私が……私が一番しっかりしなくてはならなかったのです。だからホセ、そしてカルメン……ホセの暴走を止めることができず、本当にごめんなさい……!」
ミカエラは深々と頭を下げた。その不意の独白に、テンゴたちは驚愕の声を上げた。
「ええっ!?」
「ミカエラさんが謝る必要なんて、どこにもないでしょ!?」
「そうよ! ミカエラさんに責任なんてひとつもないわ!」
「いえ、いいのです……。私のこの一言でこの虚しい争いが終わるのだとしたら、私はいくらでも謝罪します……!」
ミカエラの決意は固かった。その一言に込められたあまりにも深く切ない愛情に、テンゴたち5人は胸を打たれ、固唾をのんで見守るしかなかった。
「……ほら、ホセ。あんたには……やっぱり帰るべき場所があるのよ……」
腕を掴まれたままのカルメンが、ホセに向かって穏やかに語りかけた。
テンゴたちとミカエラが現れてくれたことで、カルメンの心にも大きな安堵が広がっていた。ホセと二人きりのままであれば、狂気に呑まれた彼に何をされるか分からなかったからだ。大勢の仲間と彼の許嫁がそろった今なら、この惨劇も収束に向かうはずだと信じたのだ。
「……ミカエラ……俺は……」
ホセが呆然と呟く。
ミカエラは静かに首を振ると、大切そうに抱えていた自身の鞄から小さな包みを取り出した。
「そう言えば……先日は色々と騒動がありましたので、渡すのをすっかり忘れていました。お母様からのお手紙もそうですが……私が本当にあなたへ手渡すべきだったのは、これです」
ミカエラは小さな袋から、ある一つの品を取り出した。
「……指輪です」
それは、セビリアの強い日差しを受けて黄金色に神々しく輝く、見事なリングだった。
職人の繊細な意匠が施された、素人目にも非常に高価だと分かる逸品。それをミカエラは、大事に大事に鞄の奥底に忍ばせて運んできていたのだ。
「ホセ……この結婚指輪を、私はあなたのお母様から託されて持ってきました」
「母さんから……?」
「お母様は、あなたのことをずっとずっと想ってくださっています……。ご自身の病気や生活のことよりも、これから長く生きるであろうホセの幸せを願い、全財産を投げ打ってこの指輪を作ってくださったのです。お金が無くなったら、この指輪を売ってお金に換えて頂戴ね、と笑っていらっしゃいました……」
ミカエラは涙を拭うと、愛らしくも力強い笑顔を浮かべた。
その笑顔は、かつてエスカミーリョが称賛した通りの『世界で一番笑顔の似合う美しい女性』そのものであった。
「だから……私にとって、そんな『高価な指輪』よりも……あなたの『愛』こそが、何よりも一番大切なのです……!」
ミカエラは黄金の指輪を両手で優しく包み込み、ホセに向かって差し出した。
「この指輪をお渡しします! 私と……永遠の愛を、今この場で誓ってください……!!」
ホセは差し出された黄金の指輪を受け取ると、吸い寄せられるようにじっとその輝きを見つめた。
テンゴたち5人もその様子を見守り、緊迫した空気が和らいだことに安堵の笑みを浮かべていた。黄金に輝く指輪は今のホセには似つかわしくないようにも見えたが、紛れもなく母とミカエラからの確固たる『愛』の証明だった。
「ありがとう……ミカエラ……。俺はこれで……永遠の愛を……」
「はい……!」
ミカエラは涙を拭い、満面の笑顔で再び答えた。
「……カルメン」
「……何よ?」
「俺は……今まで、お前に渡せるものが何もなかったから……『愛』を受け取ってもらえなかったんだな」
「……そうでもあるし、そうじゃないわよ……」
その時――ホセはカルメンの手首を掴んでいた手先を滑らせ、彼女の薬指を強引に自分の方へと引き寄せた。
「え……!? ちょっと、何するの……!?」
カルメンが嫌がってもがくが、狂気的な力で握られた手はビクとも離れない。
カルメンはホセが何をしようとしているのかを察し、顔を蒼白にした。
カチリ、と硬質な音が響く。
絶句する一同の目の前で、カルメンの薬指に――先ほどミカエラから渡されたはずの『母の遺品である黄金の指輪』が強引にはめ込まれてしまったのだ。
「これが俺の『答え』だ……! 受け取ってくれ、カルメン!! 俺の『永遠の愛』もろとも、お前にすべてを捧げよう!!」
ホセは瞳に狂気を宿らせ、叫ぶように言い放った。
「もう一度言わせてくれ――『愛』している!!!」
「――っ!?」
あまりの衝撃に、ミカエラはその場で膝から崩れ落ちた。
「――貴様ぁぁぁっ!!!!」
「あんた……っ! ミカエラさんの気持ちを何だと思ってるんだっ!!!」
「このクソ野郎が!!!」
「このアホンダラが!! どこまで腐っとるんや!!」
「てめぇの母親の命懸けの想いまで踏みにじりやがって!!」
「この最低のゲス野郎が!! くたばれ!!!」
テンゴ、チヒロ、ネルソン、ピロー、モモの5人から、怒号と暴言が激流のようにホセへと浴びせられた。仲間を、人を想う心をここまで完璧に踏みにじった男に対し、彼らの怒りは頂点に達していた。
「こんな……こんな指輪なんていらないわよ!! 返すわ!!」
カルメンもまた悲鳴を上げて叫んだ。
「あたしの指にはめてどうするのよ!? ふざけないで!!」
「何だと……!? 欲しいと言ったのはお前だろう、カルメン!!」
ホセの顔が激怒で歪む。
「俺の命懸けの愛情を踏みにじって、何を言いたいんだ! この悪魔め!!」
ホセは空いた手で素早く懐へと手を突っ込んだ。
――彼にとっての「最終手段」を取り出すために。
「…ホセッ!……」
ミカエラは驚愕の為、静かに彼の名前を呼んだ。
掴んだカルメンの腕を絶対に離そうとせず、ホセは懐から引き抜いた『獲物』を強く握り直した。
ギラリとセビリアの陽光を反射して不吉に光る刃――ナイフである。
ホセは狂気の叫びを上げながら、掴んだカルメンの腕を強引に自分の方へと引き寄せ、その勢いのままナイフの刃先を彼女の胸元へと突き立てようとした!
「この悪魔め―――っ!!」
死の運命がカルメンを貫く――まさにその絶体絶命の瞬間だった。
ガアッ!!
カルメンの目の前に、風を切って飛び込んできた影があった。
――テンゴだ!
「――ふざけるな!!テメェェッ!!!」
テンゴの懐から自身の防具である扇子を取り出し開いてドン・ホセの持っているナイフを弾き飛ばした。
そして、突進の勢いそのままに、テンゴの怒りの拳がドン・ホセの顔面へ豪快に叩きつけられた!!
ドゴォォォンッ!!
「ぐはぁっ!?」
鼻骨を砕くような強烈な衝撃に、ホセの巨体が横へと吹っ飛ぶ。掴まれていたカルメンの腕が力なく解放された。
すかさずネルソンとピローが間に入り、跳び蹴りと抑え込みで倒れ込んだホセの四肢をガッチリと組み伏せる。
そう――ドン・ホセはついに一線を越えたのだ。
もはや愛ゆえの狂言などではない、紛れもない「殺人行為」であった。
目の前で繰り広げられた一瞬の死闘とテンゴの救出に、カルメンはその場にへたり込み、脱力して激しく肩を揺らすのだった――。
闘牛場の方向から、陽気で威風堂々としたお馴染みの旋律『闘牛士の歌』が盛大なトランペットの大音声と共に、観客たちの熱狂的な歓声・拍手が盛大に鳴り響いてきた。
その華やかな音色とは裏腹に、路上には冷たく打ち捨てられた一本のナイフが転がっている。
「あああああああああああああああああっ……!!」
ミカエラは耐えきれず、その場に崩れ落ちるようにへたり込んだ。
ドン・ホセの余りにも狂気に満ちた奇行の数々に、もはや言葉を失い、精神の限界を超えていたのだ。
「ミカエラさんっ!」
チヒロはすぐさまミカエラの隣に駆け寄り、その肩を優しく抱きしめて必死になだめようとする。
「お前は正気か……!? 指輪だけならまだしも、人を刺し殺そうとするなんて真似、絶対に許されないぞ……ッ!」
テンゴは息を荒げながら、地面に転がるドン・ホセを厳しく睨みつけた。
「マジで救いようのない最悪な男やわな……」
「もう、お前に生きる資格なんて一ミリもねぇよ」
ネルソンとピローは、なおも地面に組み伏せられたドン・ホセの横で冷ややかな視線を浴びせた。
「あたしは……あたしは、もう……っ!」
ミカエラは両手で顔を覆い、大粒の涙を堰を切ったように溢れさせながら叫ぶ。
「お手紙をいただいたんです……!」
「……アマデウスさんから……手紙を……つい先ほど、お返事の手紙を頂いたばかりで……っ!」
ミカエラは震える手で自身の鞄をまさぐり、一枚の便箋を取り出した。そこには確かに文字が綴られていた。
この惑星(世界)の文字をテンゴたちは読めないが、ミカエラの震える声の通りにそれが書かれているのは疑いようがなかった。
アマデウスと言えば、今回「牛追い祭り」や「闘牛」の宣伝のポスターといった裏方仕事に勤しんでいる男だ。しかし、その手紙の裏には、なぜか今回の事件の元凶である宣伝用の「黒い牛」の不気味なイラストが描き添えられていた。
「アマデウスさんからは……『ホセに私の愛情を注げば、きっと分かってくれる。究極の『愛』はいつか戻ってくるから、どうか頑張って』って、そう書いてくださっていたのに……!」
ミカエラは便箋を握りしめ、顔を真っ赤に腫らしながら号泣した。
「こんな……こんな結末になるなんて……私にはもう……もう耐えられません……っ!」
「いやああああぁぁぁぁぁっ……!!ふぇ、ぐすっ……!」
再びミカエラは声を上げて泣き崩れた。
「ほら……これ、返すわ」
静まり返った空気の中、カルメンは自分の薬指から例の黄金の指輪を乱暴に引っこ抜くと、テンゴへと差し出した。
テンゴは静かに手を伸ばし、その指輪を受け取る。そして、泣きじゃくるミカエラの元へ歩み寄り、そっと差し出した。
「……ミカエラさん」
ミカエラは顔を上げることもできず、ただ震える手でその指輪をそっと受け取った。
「カルメンッ! カルメン!……!! 俺は……っ!」
ネルソンたちに押さえつけられていたドン・ホセが、なおも這いつくばるようにして叫ぶ。
「俺はお前を許さない……! お前が俺に責任を取るんだ、カルメン……ッ!」
「嫌よっ!! 絶対に嫌……! そんな責任なんて、最初から一ミリもないわ!!」
カルメンは拒絶するように声を荒げた。
「ふざけんじゃないわよっ……!!」
「もういいでしょ!? 目の前でこんなに可愛い女の子がボロボロに泣いてるのすら見えないの!? もう終わりよ、すべておしまい! この日、この瞬間をもって、あんたとの腐った縁なんて完全に終わったのよ……っ!!」
カルメンは吐き捨てるように叫び、ドン・ホセを真っ直ぐに突き放した。
「だから……いい加減にして!諦めなさい……っ!」
その冷徹で揺るぎないカルメンの最後の一言が、ドン・ホセの最後の精神の糸を完全に断ち切った。
「…………あ……」
ホセは全身の力が抜け落ちたように、その場でガクッと崩れ伏した。
まるで魂の抜けた抜け殻のようになり、もはや起き上がる気力すら残されていない。
ネルソンとピローは、男のなれの果てから完全に闘志や抵抗の意思が消え去ったのを感じ取り、そっと彼から手を離した。
周囲にはただ、ミカエラが流し続けるとめどない涙の音が響いていた。
あふれ出た涙は地べたを濡らし、まるでコップ一杯の水を誤って盛大にこぼしてしまったかのような、痛ましい水溜まりを作り上げていたのだった――。
「あたしをエスカミーリョが、あの闘牛場で待っているのよ……!! だから、あたしは今すぐ彼の元へ行かなくちゃならないの……っ!」
激しく叫ぶカルメンを、テンゴたちは複雑な視線で静かに睨み据えた。
「エスカミーリョが誇り高く牛を倒すところを、あたしはこの目で見届けなくちゃならないのよ……!」
「これであたしの心も、あの人の情熱と一緒に完全に撃ち抜かれるわ……っ!」
カルメンはエスカミーリョへの狂おしいほどの愛を必死に訴えた。
しかし、その刹那――!
闘牛場の方向から、ぞっとするような女性の悲鳴と、観衆の絶望に満ちた悲痛な声が重なり合って響き渡ってきた。
開場を包んでいたはずの熱気が一瞬で凍りつき、そのただならぬ異常さが、この門前にいる8人全員の皮膚を粟立たせた。
つい先ほどまで高らかに鳴り響いていた『闘牛士の歌』の陽気なトランペットの音楽も、嘘のようにピタリと止んでいる。
「「「「!?!?」」」」
ハッと息を呑むテンゴたち。
彼らはセビリアに来た本来の目的――エスカミーリョの動向や不穏な予感をどこかへ追いやり、人探しやドン・ホセの狂気の制圧に気を取られすぎていた。
「しまった……ッ!」
テンゴが歯噛みしながら呟く。
「誰か一人でも、最初から闘牛場の様子を見張るべきだった……!」
エスカミーリョへの『愛』を叫んでいたカルメンも、血の気が引いた顔で闘牛場の方へと一斉に目を向けた。その只ならぬ異常事態に、彼女の背筋にも恐怖の戦慄が走ったようだった。
そう――カルメンとテンゴたちがずっと抱いていた「嫌な予感」は、最悪の形で現実のものとなろうとしていた。
「エ……エスカミーリョ……っ!!」
カルメンは叫ぶと、ドン・ホセやミカエラとの修羅場のことなどすべて投げ捨てるようにして、闘牛場のエントランスへ向かって走り出した。
「嫌よ……嫌よ、そんなの絶対嫌……っ!!」
遠ざかっていくカルメンの背中を数秒間凝視し、テンゴたちも即座に戦闘態勢へと移行する。
「俺は行く! みんなはどうする……!?」
「行くしかないでしょ!」
「拙者も参る!」
他の4人もカルメンの後を追うように駆け出そうとしたその時、テンゴは膝をついているミカエラへと名残惜しそうに視線を向け、叫んだ。
「ごめん、ミカエラさん……っ!」
「必ずまた戻ってきます……!」
「おいホセ! もしミカエラさんに妙な真似でもしてみろ。戻ってきたら、まじでただじゃ置かんげんぞ……っ!」
「生きて帰ってきたら、我もその顔面を一発ぶん殴ってやるからな! そこでおとなしくしてろ、ホセ……っ!!」
テンゴたちの怒声と警告を残し、5人の影は瞬く間にカルメンを追って疾走していった。
その言葉を聞いても、ミカエラは顔を上げることすらしなかった。ただ地面にうつむいたまま、とめどなく涙を零し続ける。
「………ホセ………」
ミカエラが掠れた声で小さく呟く。
だが、その呼びかけにドン・ホセが答えることはなかった。しばらくその場で抜け殻のように突っ立ち尽くしていたホセは、やがてフラフラと足元をよろつかせながら立ち上がり、闘牛場の方角へと力なく歩き出し始めた。
「……待って……さい……ホセ……っ」
まだ泣きじゃくりながら、ミカエラはすがるようにその背中に呼びかける。
その声に反応したのか、ドン・ホセはわずかに足を止め、振り返ってミカエラへと冷たい視線を移した。
「………済まない……」
ドン・ホセはそれだけを呟いた。静かだが、間違いなくミカエラの耳に届く声だった。
そして再び前を向くと、ホセは歩くのをやめ、急にスピードを上げて走り出したのだ。
「……ホセ―――っ!!!」
ミカエラが背後から声を限りに叫ぶ。その悲痛な叫びは、確かに男の背中に届いていた。
「……あとのことは、もう知らん……っ!!」
「うあああああああああああああ!!!カルメーーン!!!」
その非情な言葉と叫びを残し、ホセの姿は群衆の向こうへと消えていった。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああっ……!!!」
愛する男に完全に見捨てられた絶望の中、ミカエラは再びこの世の終わりかのような絶叫を上げた。
その慟哭は闘牛場の狂騒にかき消され、誰の耳に届くこともなく、ただ乾いた路上に虚しくこだまするばかりだった。
まるで自分の人生そのものが音を立てて崩れ去ったかのように泣き叫びながら、ミカエラは震える手で、先ほどテンゴから受け取って鞄にしまい直した「あの指輪」を取り出し、じっと見つめた。
それは、ホセと、彼の母親の切なる想いが詰まった大切な絆の証のはずだった。
しかし、今のミカエラにとって、それは美しくも余りあまりに忌まわしい、呪われた遺物のようにも感じられた。
(それでも……この大切なものを、ここで失うわけにはいかない……お母さまの為にも……)
彼女にとって唯一のよすがであるそれを、ミカエラは震える指で大切に、再び鞄の奥底へとしっかりとしまい込んだ。
そして、涙で濡れた視線を上げて周囲を見渡そうとした――その時。
彼女の足元から数メートルほど離れた冷たい石畳の上に、先ほどまでドン・ホセが狂気の殺意を込めて握り締めていた――あの白銀に輝く『ナイフ』が、ポツリと孤独に落ちているのが目に入ったのだった。




