その頃セビリアでは
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その頃、セビリアでは――。
青く澄み渡る快晴の空の下、間もなく花形闘牛士たちの華麗な行進が執り行われる闘技場の前は、溢れんばかりの人々で埋め尽くされていた。
お洒落な帽子を被った着飾った貴婦人、黒いスーツに身を包んで帽子を手にたたずむ紳士、日傘を優雅にさして世間話に花を咲かせる奥様方、礼装の帽子を脱いで知人へと優雅に挨拶を交わす旦那さんたち。多種多様な人々が、闘技場前を彩り賑わせている。
そして、この闘牛場前にも数多くの露店が立ち並び、色鮮やかな扇子や摘みたてのオレンジ、日傘、そして試合を細部まで観賞するための双眼鏡などが飛ぶように売れていた。
闘牛場の正面玄関付近には、かつて勇敢に猛牛と渡り合ったであろう名闘牛士の雄姿を象った銅像が佇み、その足元には美しい花束がいくつも供えられている。過去に勇敢に戦い、惜しくも牛に敗れて命を落とした英雄を称えているのかもしれない。
人々は露店で必要な品を買い求め、これから始まる世紀の闘牛に向けて興奮を隠せない様子だった。
「扇子はいかがー---!?」
「甘いオレンジ売ってるよーーーー!!」
「焼きたてのパンはおいしいよー----!!」
「双眼鏡はいかがー--!? 闘牛士の勇姿が良く見えるよ―――!!」
職人による丹念な手作り品から、工場で製造されて出荷されてきた食品まで、ありとあらゆる品々が威勢の良い声と共に売り出されている。
「よし! 双眼鏡買ったぞ!」
「この焼き立てのパンをふたつください!」
もちろん、親に連れられてやってきた子供たちも、この闘技場に来れば大はしゃぎだ。群れて遊び回りながら本物の闘牛を目に焼き付け、将来へ生きていくための大いなる糧とするのだろう。「大人になったらエスカミーリョのようなカッコいい闘牛士になりたい」と闘志を燃やす少年が一人でもいれば、エスカミーリョ自身もさぞかし誇らしく思うに違いない。
そして先日、エスカミーリョから直々に招待を受けた密輸団の面々――リーダーのダンカイロとその相棒レメンダードもまた、この喧騒の中にいた。
招待された手前、手にした扇子をパタパタと仰ぎながら、のんびりと大通りを歩いている。二人はこの熱狂的なイベントを心から満喫する気満々のようだった。
「いや〜、今回はついに来ましたねぇ~~! さすがの熱気ですよ~」
「あぁ、そうだな……。今日の試合は一体どんな死闘になるんだろうな。楽しみだよ」
ダンカイロは香ばしい匂いを漂わせるパン屋の露店の前で足を止めた。小腹が空いたのか、並べられたパンを吟味し始める。
「ん~~……」
「いらっしゃい! どれもこれも焼き立てで美味しいよ!」
露店の店主が気さくに声をかける。籠に盛られたフカフカのパンは、どれもこれも食欲をそそる焼き色を付けていた。ダンカイロは一番柔らかそうなパンを指差して注文した。
「じゃあ、このパンをふたつください」
「はいよ!」
パンをふたつ買い求めるダンカイロ。ひとつは当然、隣に立つ相棒のレメンダードの分だ。ダンカイロは荒事ばかりの密輸団を束ねる男だが、根は仲間思いで優しい人物なのだと、レメンダードは胸の中で改めて感謝した。
手渡された熱々のパンを、ダンカイロがレメンダードへと差し出す。
「あ、あぁ……ありがとう、ダンカイロ」
「良いってことさ。これからも頼りにしているからな……」
「っはっはっは、勿論さ!」
――そして、セビリアの街で「魔女」と恐れられていたカルメンもまた、この場を訪れていた。
彼女がここへ来た目的は、ただひとつ。エスカミーリョの勇姿を見届けるためだ。
どんな過酷な運命にも屈せず、己の腕一本で猛牛と対峙する彼の自由な戦い方は、カルメンにとっても自身の生き方を肯定してくれる大きな勇気となるのだろう。
(……自由な生き方の、何が悪いのよ……)
カルメンは遠くの空を見つめ、心の中で静かに呟いた。
(私はこれからも、ジプシーとして気ままに自由に生きるの。誰を愛するのも私の自由、どんな夢を見るのも自由、どんな生き方をしようが私の自由……!)
どんな事態に直面しても、常に冷静に、そして自分らしく対応してきたつもりだった。人をからかったり馬鹿にしたり、時には熱烈な恋に身を焦がし、時には仲間と笑い転げる。何があろうとも、決して自分の美学を崩さない。それこそが「カルメン」という一人の女性だった。
――だが、そんな賑やかな群衆から少し離れた日陰に、フードを深く被った怪しい人物が潜んでいた。
その人物のフードの隙間からは、浮世離れした真っ白な髪が覗いていた。
全身に白い衣服を纏い、肩からは漆黒のマントを羽織っている。
手には古びた一冊の本を携え、その頁をじっと見つめていた。ペラリと次のページをめくると、メガネの真ん中の縁を指先でクイッと押し上げる。
「……そろそろ、ですか……」
本をパタンと静かに閉じると、その男の口元が歪み、邪悪な笑みがこぼれ落ちた。
時が流れるにつれ、大通りからは「間もなく行進が始まるぞ!」という歓声と興奮の声が一層大きく響き渡り始めた。
『闘牛士の行進』――それは役目ごとに隊列が組まれ、途切れては続き、途切れては長く伸びていく絢爛豪華な大パレードである。
このパレードを一目見ようと、毎回無数の見物客が集まってくるのだ。
闘牛場の入口とは反対側、人々が群がる場所から沸き起こった歓声が重なり合い、まるで地鳴りのようにセビリアの大地を揺らし始める。
先頭に、長い棒を手にした数十人の警備隊が現れた。
ついに――セビリアを揺るがす「闘牛士の行進」が始まったのだ!
歓声を破り、高らかに響き渡るトランペットのファンファーレ。
セビリアの青空を突き破るような快活で威風堂々とした旋律に乗せて、待ちに待った豪華絢爛な『闘牛士の行進』が、地鳴りのような拍手と大歓声に迎えられてついにスタートした。
先頭を行くのは、長い棒を手に観客を鮮やかに誘導する数十人の「アルグアシル(警備隊員)」たち。その凛とした立ち振る舞いに、集まった大衆から大きな拍手が送られる。
続いて姿を現したのは、彩り豊かなド派手な衣装に身を包んだ「クアドリーリャ」の踊り子たちだ!
陽気なステップを踏みながら、華やかに舞い踊る集団の熱気に、観客たちは買い求めたばかりの小旗を振り、色とりどりの花束を惜しみなく路上へと投げ込んでいく。
「見ろよ、あいつら! 最高の踊りだぜ!」
「綺麗ねーっ! こっち向いてー!」
さらにその後ろからは、手刺しのモリを手に鋭い眼光を放つ「バンテリジェーロ(モリ突き手)」、そして重装甲の鎧を纏い、威風堂々たる馬に跨った「ピカドール(槍騎士)」たちがズラリと居並んで足を進めてくる。馬の蹄が石畳を打つ硬質な音が、音楽のリズムと心地よく重なり合っていた。
大通りの熱気は完全に沸点へと達していた。
露店で手に入れた扇子をパタパタと仰ぎながら観賞していたダンカイロとレメンダードも、その圧巻のパレードに思わず身を乗り出し、目を輝かせている。
「いやぁ……! 何度見ても素晴らしい見ものですね、ダンカイロさん!」
「あぁ、まったく格別だな……! これを見るためだけにセビリアへ来る価値があるってんだ!」
カルメンもまた、群衆の隙間からその絢爛たる行列を静かに見つめていた。
彼女の視線が求めているのは、この豪壮なパレードの最後を飾る「真の主役」の登場だった。
そして――音楽の旋律が最も華やかで力強いクライマックスを迎えたその時。
「キャーッ! 来たわ!!」
「エスカミーリョだー---!!」
「エスカミーリョーーーーッ!!」
観客たちの割れんばかりの絶叫と共に、金色と漆黒の刺繍が散りばめられた絢爛豪華な『光の衣装』を纏った男――花形闘牛士エスカミーリョが堂々と姿を現した。
その凛々しい立ち姿、自信に満ち溢れた力強い瞳、そして大衆の歓声に応えて片手を掲げる優雅な身振り。まさにセビリア中の情熱と憧憬を一身に集める誇り高き英雄の姿がそこにあった。
「エスカミーリョ様ーーーっ!! 今日も勝利をーーー!!」
「見せてくれ! 最高の闘牛をーーー!!」
頭上から降り注ぐ花びらと歓声の嵐を全身で受け止めながら、エスカミーリョはゆっくりと歩みを進める。その視線がふと群衆の一角――静かに自分を見つめるカルメンと交差した。
エスカミーリョは不敵で魅力的な笑みを浮かべ、胸に手を当てて彼女へと深く一礼してみせた。
カルメンの唇にも、満足そうな笑みがこぼれる。
――しかし。
その華やか極まりない『闘牛士の行進』と人々の狂喜乱舞を、少し離れた日陰から冷ややかに見下ろす存在があった。
フードを被り、白髪と白い衣服を纏った謎の人物である。
男は手に持った本をそっと閉じると、メガネの奥の細められた瞳を不気味に光らせ、口元を醜く歪めた。
「……フフフ……踊りなさい、謳いなさい……。この輝かしい舞台こそが……最高の『完結』に相応しい……」
男の呟きは、闘牛士の行進を祝う大歓声とファンファーレの音にかき消され、誰の耳に届くこともなかった。
ジグラルタルで今まさに繰り広げられているテンゴたちの「牛追い祭り」、そしてセビリアの闘牛場へと向かって刻一刻と迫る彼らの足音。
運命の歯車は、セビリアの青空の下で激しく狂いながら回り始めていたのだった――!




