第3幕、海岸編開始
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その夜、テンゴたちは近くの宿屋に部屋をとり、それぞれが個室で今後の行動計画を練るために静かな夜を明かした。
居酒屋で繰り広げられたドン・ホセの泥沼の騒動――そして彼がカルメンと共にどこかへ去ろうとしている件について、まずは本来の許嫁であるミカエラにしっかりと報告しに行かなければならない。
とはいえ、広大な街の中から彼女を探し出すのは一筋縄ではいかない。そこでテンゴたちは、似顔絵さえあれば捜索が格段に早くなるという算段のもと、街に精通しているアマデウスの協力を仰ぐことに決めていた。
そして翌日――。
テンゴたちがミカエラの行方を追って街中を歩いていた、まさにその時だった。
「おや、みなさん。奇遇ですね」
「――って、アマデウスさん!?」
偶然にも、通りでアマデウスとバッタリ出会ったのだ。まさに渡りに船とはこのことである。
テンゴたちは喜びの声を上げると、昨夜の居酒屋での驚愕の経緯を早口で説明し、さっそくミカエラの似顔絵を描いてほしいと頼み込んだ。
「なるほど……。まぁ、こんな感じでしょうか」
アマデウスは苦笑いを浮かべながらも、懐から取り出した紙とペンを走らせ、さらさらと見事な似顔絵を仕上げてテンゴに手渡す。
「ありがとう、アマデウス! 本当に助かるよ、今度しっかりお礼をするからさ」
「いえいえ、お礼には及びませんよ……しかし、あなた方は連日人探しで本当に忙しいですね」
「まぁね……でも、どうにも胸騒ぎがするというか、嫌な予感がしてならないんだよなぁ~」
チヒロが腕を組みながら、不安そうにぶるっと身震いする。
「昨日あんなに『もうあの人たちとは関わりたくない』って言ってたのはどこの誰だっけ?」
テンゴが呆れたようにツッコミを入れる。
「そりゃそうだけどさぁ! だって、このままじゃミカエラさんの気持ちを考えたらあまりにも不憫だし、納得いかないでしょ……!?」
もしホセが本当にカルメンの魔術や甘い言葉に狂わされているだけなのだとしたら、彼を正気に戻すためにも誰かがブレーキをかけなければならない。
「このままじゃ、本当にあの魔女に連れ去られておしまいよ!」
「いや、魔女のほうから『浮気者に愛想を尽かした』みたいに言ってた気もするけど……」
「あぁもう、どっちでも一緒よ! とにかく、私たちも『ジグラルタル』に行かなきゃ、あいつらを止められないでしょ……!?」
チヒロはあくまでミカエラの味方だが、もしホセが魔法にかけられている被害者なのだとしたら救う手も考えたい。だが、もし彼がただの身勝手な浮気者なのだとしたら、心の底から許せないという複雑な感情が入り交じっていた。
「まぁ、細かい話はミカエラさんを見つけ出してからにしようぜ」
――その時だった。
議論に熱中するテンゴたちの背後から、聞き覚えのある派手やかな声が割り込んできた。
「その話、このエスカミーリョがしかと聞かせてもらったッ!」
「「え……エスカミーリョさん……!?一体、いつからそこに!?」」
振り返ったテンゴとチヒロは、あまりの驚きに腰を抜かしそうになった。アマデウスとの会話に全神経を集中させていたせいで、周囲への警戒がすっかり抜けていたのだ。そもそもこの大通りは日中から人通りが多く、誰がいてもおかしくはないのだが。
「決まっているだろう、さっきからずっとそこに立って君たちの熱い議論に聞き耳を立てていたさ!」
当の闘牛士は、鮮やかなマントをひるがえしながら豪快に笑う。彼がやってくると、なぜか嫌でも面倒な騒動に巻き込まれる予感がしてならない。その圧倒的な正義感と目立ちたがり屋な性格が、ロクな結果を生まないとテンゴたちは本能で察していた。
「さぁ、こうしちゃいられない! 直ちにカルメンの元へ会いに行こうじゃないか!」
相変わらずテンションだけは天井知らずのエスカミーリョだが、彼は自分たちがこれからどこに向かおうとしているのか本当に分かっているのだろうか。とはいえ、ここまで堂々と付いてこられてしまえば、もう追い返す術はなかった。
「行く気100%じゃねーか……」
「さて、どうします?」
アマデウスが困惑した笑みを浮かべながらテンゴに視線を投げる。もっとも、協力者が何人増えようと、今の彼らにとっては心強いことに変わりはないのかもしれないが。
「大体の場所なら把握しているよ。昨夜、あの帽子の男たちが言っていた通りなら……彼らが向かう先は『ジグラルタル』のはずだ」
「本当ですか!? ジグラルタルに行き着くまでは分かっていましたが……」
問題は、そこまでの移動手段だった。遠路を駆けるための荷馬車や馬を確保しなければならず、どうしても時間がかかってしまう。
「ただ、俺たちはその前に『とある人物』を探し出してから現地に向かうつもりだから、多少は足止めを食らうことになるけど……それでもいいのか?」
もっとも、ジグラルタルの居場所を正確に知っているエスカミーリョが同行してくれるのなら、あとは時間との戦いだ。しかも、異世界の土地勘がない彼らにとって、これほど知名度と行動力のある派手な有名人が味方にいるのは、何物にも代えがたい心強さだった。
「で、その探している『とある人物』とはいったい誰なんだい?」
「あ、この人です」
テンゴはアマデウスから受け取った似顔絵を、エスカミーリョの目の前にパッと広げた。
そこに描かれていたのは、一目でそれと分かる、息を呑むほど美しいミカエラの姿だった。
「おぉ……これはまた、なんとも気品に満ち溢れた美しいご令嬢じゃないか……!」
似顔絵を一目見た瞬間、エスカミーリョは目を丸くし、そして次の瞬間にはその端正な顔を怒りで真っ赤に染め上げた。
「で、なんだって? この美しすぎる婚約者がいながら、あの愚かなホセという竜騎兵は……カルメンとかいう女に心移りして浮気だと……!?」
細かな経緯をわざわざ説明するまでもなく、ほんの数分の会話だけで全体像を完璧に把握してしまったらしい。
「――許せん、断じて許せんッ! そんな不実な男のせいでこの麗人が涙を流していると思うと、私の闘牛士としての血が騒ぐ……! 私が直接、その愚か者の頬を叩いて問いただしてやる……ッ!」
「熱くなっている最中、誠に申し訳ありませんが……私はそろそろこれで失礼します。まだ途中の仕事がありますので」
アマデウスは柔らかい笑みを浮かべつつ、そう切り出した。どうやら、まだ片付けなければならない仕事が残っているらしい。急ぎのところを呼び止めて似顔絵まで描かせてしまったと気づき、テンゴたちは少し気まずそうに恐縮した。
「あ、あぁ……悪かったな、仕事の邪魔をして……本当に助かったよ」
「仕事中やっちゅうに、わざわざ手伝うてもろて、ほんまにかたじけないげん……」
「いえいえ、これくらいの協力は造作もありませんよ。それに、今この街でこれほど大変な騒ぎが起きているのですから、見過ごすわけにはいきません。労を惜しむつもりはありませんよ」
爽やかに微笑むアマデウスに、エスカミーリョが興味深そうに尋ねる。
「ところで、君は普段どんな仕事を任されているんだい?」
「ええ、今は後日開催される『牛追い祭り』の宣伝用ポスター(絵)を描いているところです。ふふふ……」
アマデウスはどこか不敵に、それでいて楽しげに微笑んだ。
「ほう……! 牛追い祭りとは、あのジグラルタルで行われる熱狂の祭典だな! そのお祭り騒ぎのあとには、この私が主役を務める大闘牛が控えている……! 君は、その一大イベントの宣伝に携わっているというわけか」
「はい、左様でございますよ、エスカミーリョさん」
「なるほど、素晴らしい! アートの力もまた、男の闘志を燃え上がらせるスパイスというわけだ!」
エスカミーリョが豪快に笑うと、アマデウスは軽く一礼して言った。
「では、これで失敬。……おっと、ミカエラさんを見つけ出したら、どうぞよろしくお伝えください。また何か困ったことがあれば、いつでも力になりましょう」
アマデウスはひらりと手を振り、軽やかな足取りで去っていった。
その後姿を見送りながら、テンゴたちは気持ちを切り替え、さっそくミカエラの捜索へと動き出す。
「よし、それじゃあ手分けしてミカエラさんを探そう。幸い、俺たちはいつでもメッセージのやり取りで連絡が取れるとはいえ……」
テンゴはふと、隣で腕を組む派手な男に視線を向けた。
この街の勝手が分からない上に、圧倒的に目立つエスカミーリョを一人で単独行動させるわけにはいかない。万が一にも彼がはぐれて迷子になってしまっては、ジグラルタルまでの貴重な案内人が消えてしまうようなものだった。
「この派手な案内人がいなくなったら元も子もないからな……。エスカミーリョさんに関しては、誰か一人が必ず一緒に行動した方が賢明だな」
その後、アマデウスに書いてもらったイラストを手に、私たちは手分けして町中を探し回った。
エスカミーリョはテンゴについてくる形となり、一同は五手に分かれて捜索を開始したのだ。もっとも、エスカミーリョに関しては「ただ単にカルメンに会いたいだけ」という下心が見え隠れしており、会う気満々でついてきている可能性が高かった。
角を曲がり、大きな広場へと躍り出る。
そこは先日、あのカルメン騒動が巻き起こった因縁の広場だった。
広場には一般の町人だけでなく、軍人たちの姿も何人も見受けられる。いつも通りの活気ある風景が広がっていた。
煙草工場の煙突からはモクモクと煙が立ち上り、絶え間なく稼働している。今は休憩時間ではないらしく、工場の周りは静かだ。これが休憩時間になれば、大勢の女工たちが一斉になだれ込んでくるのだろう。
そんな広場の一角に、見覚えのある格好をした人物がぽつんと一人、腰掛けていた。
フードを深々と被り、下を向いている。その背中からは、どこか悲しげで切ない雰囲気が漂っていた。
その姿を目にしたテンゴは「もしや」と思い、そっとその人物へと近づいて行った。
「ミカエラさん……ですか? こんにちは」
テンゴが努めて優しく声をかける。
「はい……そうです……」
「あなたがミカエラさんですね! 私は闘牛士のエスカミーリョです」
「え……?」
本来であれば、ここでテンゴが状況を説明すべきところなのだが――エスカミーリョが即座に割り込んできた。
「あなたの殿方が、とある方を連れて遠くへ行こうとしているようなのですが」
エスカミーリョは、ドン・ホセを巡る一連の騒動を一言で説明してみせた。
「はい……先ほど、そちらの伍長さんからすべてのお話を聞きました……」
ミカエラが視線を向けた先には、ドン・ホセの同僚である伍長が立っていた。
エスカミーリョがチラリとその同僚を一瞥する。どうやらホセの駆け落ちの一件はすでに軍内部でも噂になっているらしく、彼が上官であるスニガに軍をクビにされたことまでしっかりと把握されているようだった。
エスカミーリョとミカエラが言葉を交わしている間、テンゴは会話の後ろで素早く操作し、離れ離れになっている仲間たちへ合流のメッセージを飛ばしていた。
「そうだったのですね……なるほど……」
「ここに来てから話を聞き、これからどうすれば良いのか迷っていたところです。そこに、あなた方が来られて……」
「うんうん、お気持ちは察します。私は……いいえ、私たちは、これからあなたの婚約者を説得しにジグラルタルへ参りますが、一緒にお越しになりますか?」
エスカミーリョはミカエラへそう提案した。
テンゴたちの元々の計画では、まずはミカエラと話をしてから今後の動きを決めるはずだったのだが……この流れでは、ミカエラもそのまま連れて行くことになってしまう。
「はい、行きます!……ですが、説得役は勿論、私がやらせていただきます」
ドン・ホセの目を覚まさせ、駆け落ちを思いとどまらせるため、ミカエラは共にジグラルタルへ向かうことを力強く宣言した。そして、エスカミーリョに向かって少しだけ柔らかく微笑んでみせた。
彼女が笑顔を見せたのは、これが初めてのことかもしれない。
「おお、それは心強い! 万が一のことがあっても、あなたのその素晴らしい笑顔と一緒に私がお護りして差し上げます。さあ、参りましょう!」
「はい!」
エスカミーリョはキザな決め台詞と共にそう言い放った。
すっかり会話から蚊帳外に置かれていたテンゴは、ようやく割り込む隙を見つけて口を開く。
「よし、話はまとまったな。今、俺の仲間たちがここに向かってるから、ちょっと待っててくれ」
メッセージの送信を終えたテンゴは、ふうと息をつきながら顎に手を当てた。
「さてと……あとは馬車か牛車か……何か交通手段の用意だな……」
テンゴはジグラルタルへ向かう道中のことを頭の中で計算する。
テンゴたちプレイヤー5人だけならまだしも、ここに現地人であるミカエラとエスカミーリョの二人が加わり、合計七人の大所帯となってしまったのだから――。
「集まるまで少し時間がありますから、私はあそこにいる軍人さんにちょっとご挨拶をしてきますね……ふっはっはっはっ!」
高らかな笑い声を残し、エスカミーリョは少し先に見える軍人たちの集団目掛けて悠々と歩いて行った。
一体何の話をしに行ったのかはさっぱり分からないが、相変わらずどこまでもマイペースに振る舞っている。
広場には、ミカエラとテンゴの二人だけが取り残された。
気まずさを紛らわせるように少しだけ言葉を交わしていると、ほどなくして四人の仲間たちが広場へと続々と集まってきた。
「ちょっとテンゴ……ミカエラさんを見つけたのはいいんだけどさ……」
真っ先に駆け寄ってきたチヒロが、テンゴに向かってヒソヒソ声で苦言を呈した。
「ミカエラさんまで連れて行くってことは……これから向こうで大修羅場になるってことでしょ~!?」
チヒロは、婚約者であるミカエラを現場に連れて行った場合に巻き起こるであろう大惨事を想像し、頭を抱えている。
「でもさ、うちらだけで話しても何の役にも立たなかったわけだし、これから婚約者のミカエラさんに直接説得してもらった方がいいんじゃない?」
話に加わろうとピローがフォローを入れる。つまり、当事者であるミカエラ自身にドン・ホセの目を覚まさせようという算段だ。
二人のやり取りを静かに聞いていたミカエラは、ふと五人を見つめると、優しく微笑みかけた。
「あなたたちを見ていると……私とホセの昔のことを思い出すわ。……ありがとう」
その穏やかで温かい笑顔に絆されたように、五人も自然と微笑み返した。
そこへタイミングよく、軍人たちとの話を終えたエスカミーリョが歩いて戻ってきた。
その堂々とした悠然たる立ち振る舞いには、どこか頼もしさすら感じてしまう。
「お待たせ! そろそろ準備が整いそうだよ……」
エスカミーリョの不意の報告に、テンゴとチヒロはお互いの顔を見合わせた。
ミカエラとエスカミーリョの二人も同行すると決まったのはついさっきのことであり、テンゴたちは馬車の手配も何も、まだ一切の準備をしていないはずなのだ。
「「え……?」」
思いもよらない一言に、二人の声が見事なハモりを見せたのだった――。
◆◆◆
次の日の夜、空に浮かぶ月明かりが不気味な影を落としていた。
そこは、とある海岸。周囲には身を隠すのに丁度いい巨大な岩場がいくつも聳えている。海風が心地よく吹き抜け、耳を澄ませば寄せては返すさざ波が良い音を奏でていた。
やがて、みすぼらしい衣服に身を包み、深々と帽子を被った一団が海岸へと静かに歩を進めてきた。まるで誰にも顔を見られてはならないかのような装いである。
荷物持ちである黒い駄載獣――牛を五頭ほど連れており、その背の両側に大きな荷物をぶら下げてゆっくりと歩いていた。
この国において牛という動物は、肉や乳を得るための存在というよりも、貴重な動力源としての価値が重要視されている。もっとも、後日行われるような闘牛という競技においては、その肉や乳への感謝を捧げるという意味合いも込められているのだが。
一団の少し後方から馬に乗って現れたのは、あの居酒屋にいた帽子の男だった。どうやら彼がこの密輸団のリーダー格らしい。
「この仕事は確かに旨いが、生半可な勇気じゃ務まらない……」
男は馬上で呟き、仲間たちを見渡した。
「危険に満ちた道を進んだ、その先にあるものは……金だ! 金なんだよ!」
「聞け、仲間たちよ! 富は目と鼻の先だぞ!」
大声で叫ぶわけでもなく、かといって聞き取れないほどの小声でもない。仲間たちだけにしっかりと届く絶妙な声量で、男は一行の士気を鼓舞した。
道中は常に細心の注意を払ってきた。川を越え、嵐に見舞われようとも耐え抜く覚悟で進んできたのだ。もし待ち伏せしている兵士がいるならば、なぎ倒してでも前進するつもりだったが、幸いにも嵐も兵士もやってはこなかった。そう、今日は実に運が良い。
「はっはっは! お前ら、へまだけはするなよ……」
目的地である海岸へと、一団は無事に到着した。
ここは、あの居酒屋で男たちが話していた「ジグラルタル」の街のはずれに位置する海岸である。
約三十人ほどからなる一団は、ここで暫しの休憩を取ることにした。焚き火を起こして温かい飲み物を準備し、各自喉を潤していく。周囲には休息を取るための簡単なテントがいくつか張られていた。
その中に、私服に身を包んで帽子を深々と被り、髪型を変えたドン・ホセの姿があった。
軍服を脱ぎ捨てた今の彼は、一見するとただの男にしか見えない。彼がかつて軍人であったホセだと判別できるのは、すぐ近くで毛布に包まっているカルメンくらいのものだろう。
そしてホセの胸元には、あの日カルメンから投げつけられた、すっかり枯れ果てた花が今もなお残されていた。
「ずっと考えていたんだ……。俺は、本当はとても正直な人間なのだと。……母さんのことが頭から離れないんだ。残念ながらあの事件が起きて、こんなところへ来てしまったが……」
遠く離れたジグラルタルの地に流れてきて、ホセは後悔に苛まれているのだろうか。ミカエラが届けてくれた手紙を読み、故郷の母を愛おしく思っていた頃の自分を思い出していた。今頃、母はどうしているのだろう――ホセの胸には不安が渦巻いていた。
そんなホセの独白を聞き、カルメンは面倒そうに振り返って言葉を返した。
「じゃあ、今すぐにでも会いに行けばいいじゃない? もう軍をクビになったんだから、簡単でしょ?」
「あんたには向いてないのよ、こんな仕事……」
振り返った彼女が何を話すのかと期待していたホセだったが、返ってきたのは母親の件に対する身も蓋もない言葉だった。カルメンは徹底してそっけない素振りでホセをあしらう。そして、彼から離れるように少し前へと歩き出した。
その瞬間、ホセはいきなりカルメンの両肩を強く掴み、無理やり面と向かい合わせにした。
その顔は、まさに鬼の形相というにふさわしいものだった。周囲の暗がりも相まって、禍々しいほどの恐怖を醸し出している。
「お前……まさか俺と別れようと言っているのか……!?」
早とちりにも程があるホセの反応。
しかしカルメンは、この時初めてホセに対して本能的な恐怖を抱いた。
心から震え上がるような感覚。今すぐにでもこの男の顔から目を逸らしたい。
二人の間に、重苦しい沈黙が流れた。
ホセは肩に置いていた両手のうち、片手を少しずつ滑らせ、カルメンの背中を這いずり回らせた。
ホセにとっては「慰め」であり「溢れ出す恋心」の表現のつもりなのだろう。しかし、カルメンにしてみれば恐怖以外の何物でもなかった。背筋に冷たいものが走り、彼女は再びホセという男への恐怖を強く自覚する。
「……そう、そういうことね……」
「……俺たちが別れるだと……? 俺は本気でお前を愛しているんだ! そんなふざけたことをもう一度言ったら……カルメン、俺は……」
その瞬間、カルメンはホセの両手を強引に振り払うと、すばやく距離を取った。
「あたしを殺す……?」
再び、冷たい沈黙が二人を包み込む。
カルメンは一瞬だけホセの顔を確認した。その顔は、未だに鬼のような恐ろしい表情を保ったままである。カルメンは目を合わせるのをやめ、うつむくように視線を落とした。
「怖い顔ね……まるで悪魔みたい……」
「どうなの……? 本当に私を……」
カルメンはそっとホセに背を向けた。
もう二度と、その目を見たくもないという気持ちの現れだった。
ホセは依然としてカルメンの背中を見つめている。いや……見つめていると言うよりは、明らかに「睨みつけている」のだった。
「まあいいわ……なすがままよ」
ホセが不快そうに別の場所へと歩み去っていくと、カルメンはぽつりと独り言のように呟いた。
「ジプシーは、運命に身を任せて自由に生きるの……」
「そう……私は、どこまでも自由に生きるのよ……」
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