ドン・ホセの思い
久しぶりに投稿します。
最後までお読みいただけると嬉しいです。
椅子に腰掛け、机に突っ伏したまま動かないカルメンに対し、ドン・ホセはどこか憑かれたような静けさで語り掛け始めた。
それを、テンゴたちパーティーの面々も息を呑んで大人しく見守っている。
「君が広場で俺に投げつけたあの花を……俺は今まで、ずっと大切に持っていたんだ」
ホセは制服の胸ポケットから、すっかり干からびて形の崩れた一輪の花を取り出し、そっと手のひらに乗せた。
「たとえ乾き果てようとも、この花からはずっと甘い香りが残り続けていた……。俺は、ここへたどり着くまでの間も、ずっと瞼を閉じながら手でこの花を包み込み、その香りに酔いしれながらカルメン、君のことばかりを想っていたんだよ」
うつむいたままのカルメンは、熱弁を振るうホセの方を一瞥すらしない。それでもホセは構うことなく、自らの内に渦巻く歪な恋慕を包み隠さず吐き出し続ける。
「これからもずっとそうだ。寝るときはこの花を枕の隣に置き、その香りを嗅いで酔いしれてから眠りに落ちる。朝、目を覚ますときも最初にこの花を手に取り、再びその余韻に浸るのだ……!」
そのあまりに重く、少し方向性のズレた執念深い愛の告白を聞き、チヒロは耐えかねたように忍び足でテンゴの隣へとそっと歩み寄った。その顔は、嫌悪感からクシャリと歪んでいる。
「ねぇ……テンゴ、私、あの人とは絶対に関わりたくない……」
「あんなに気持ちの悪い人だなんて、思わなかったわ……」
ぼそっと小声で呟いたチヒロは、本気で気分が悪そうに身震いする。テンゴもまた、目の前で繰り広げられる異様な光景を、唖然とした目で見つめていた。
「あぁ……その気持ちは、分からなくもないさ……」
眉間を深く寄せながら、テンゴもまたチヒロと同様に激しい困惑を隠せずにいる。
世間の人々は「カルメンは人の心を惑わす魔女だ」と囁いていた。そしてアマデウスさえも、彼女をそう評していた。
だが――今この瞬間、ホセの精神を完全に狂わせ、理性を奪い去っているのは本当にカルメンの魔法なのだろうか。それとも、この男自身の底知れない執念なのだろうか。
「あの時、思い返したんだ……。何故、俺は君のような女と出会わなくてはならなかったのかと。そして分かった。俺の望みはただ一つ、もう一度君に会うことだけだ……! カルメン、君がただ姿を現してくれるだけで、チラッと俺を見てくれるだけで、それだけで俺は最高に幸せな気分になれるんだ……!」
「俺のすべてを、カルメン、君に差し上げよう……!」
「俺はカルメンのものだ――っ!!」
「だから……カルメン、俺を愛してくれ……っ!」
もはや自制心を完全に失ったドン・ホセは、叫ぶように愛の言葉を吐き捨てると、机に突っ伏していたカルメンの背後から両腕を回し、力任せに激しく抱き着いた。
だが――その突然の強烈な抱擁を受けても、カルメンは身じろぎ一つしない。
彼女はただじっと前を見据えたまま、虚空の一点を見つめている。そこに喜びの色はなく、かといって激昂するわけでもない。ただ心を無にし、冷徹なまでの静けさで、その重すぎる腕の中に絡め取られていた。
ほんの数秒間、酒場の店内からあらゆる音が消え去ったかのような、重苦しい沈黙が支配した。誰もが息を呑み、困惑した顔でドン・ホセの背中を見つめている。
しかし、その不気味な静寂を破るように、カルメンはふっと冷ややかな笑みを浮かべて静かに語り出した。
「いいえ……あんたは、私を本当の意味で愛してなんかいないわ」
「なんだって……?」
「私を愛していないと言ったのよ。聞こえなかった?」
カルメンは、背後からしがみつくように抱き着いてくるホセの腕を嫌悪感なく、しかし冷ややかに振りほどきながら、挑発的な微笑みを向ける。
「もし本当に私を愛しているなら、こんな軍隊の規則やしがらみになんて縛られずに、私に付いて来るはずよ」
「カルメン……?」
「山の中、森の奥深く、川辺の向こう――! 勇者のように馬を駆って、私を誰もいない場所へ連れ去ってくれるはずだわ」
「上官の怒声も、帰営のラッパの音もない、ただの自然の中で、私と二人きりで人生を過ごすのよ……そうでしょう?」
もはやカルメンが何を企み、どんな罠を仕掛けようとしているのかは誰にも分からなかった。だが、その甘い言葉の裏に隠された「軍からの脱走」を匂わせる誘いに、テンゴは背筋が凍るような危機感を覚える。
「ホセさん、惑わされちゃダメだ……っ!」
もし彼女が本当に噂通りの「魔女」であり、何かしらの邪悪な魔法でこの男の心を狂わせているのだとしたら、ここで絶対に止めなければならない。
「そうだ! 魔女の術で、ホセさんは完全に狂わされているんだよ!」
チヒロはもはや確信に近い怒気を込め、カルメンを指さしてそう言い放つ。まだ決定的な魔法の証拠こそないが、彼女の纏う危険な空気がそう確信させるに十分すぎた。
「その、さっきから持っている枯れた花の香りに……頭をやられているんだ!」
ピローもまた、ホセが握りしめる広場の花を鋭く睨みつけながら叫ぶ。
周囲からの必死の叫びがようやく耳に届いたのか、ドン・ホセはハッと正気に返ったようにカルメンから大きく身を引いた。
「……っ! もうたくさんだ……!」
ホセは顔を青ざめさせ、ガタガタと震えながら首を横に振る。
「そうだ……俺には、絶対にやり遂げなければならないことがあるんだ! 俺はちゃんとまともに金を稼いで、故郷に帰らなきゃならないんだ……!」
軍の規律と、故郷にいる許嫁や母親の顔が脳裏によみがえったのだろう。隊を勝手に離れることの重大さ、それがどれほど不名誉な「脱走」という大罪であるかに気づき、ホセの中で何かが劇的に吹っ切れた。
「よし……!」
「おおお……!」
「さすがホセさん、ようやく正気に戻ったのね……!」
安堵の息を漏らすテンゴたちの前で、ホセはその場で立ち止まり、再びカルメンへと相対した。
「……俺は、これでも本当にカルメンを愛しているのに……っ!」
未練タラタラにそう叫ぶホセの姿を見て、テンゴたちは思わず頭を抱える。
「「「え……!? なんでまだそんなこと言ってんだよ! うちらは一体、何を期待して見守ってたんだ……っ!?」」」
愛の告白から一転してこの有様である。だが、このままカルメンの甘い誘いに乗せられて彼女と一緒にどこかへ消えてしまっていなくて、本当に良かったのかもしれない。これ以上彼女のペースに巻き込まれたら、本当にこの男の人生は破滅する一方だった。
「もういいわ! さようなら、永遠にね!」
ついに愛想を尽かしたのか、カルメンは右手を大きく振り払い、怒鳴りつけるように言い放った。
「あんたになんてもう一ミリも興味ないわ! さっさと自分の兵舎にでも何処へでもお行きなさいよ!」
「そうか……では、さらばだ!」
「早く行きなさいよ!」
「ああ、さらばだ……カルメン、永遠にさらばだ……っ!」
ホセは、かつて彼女から投げつけられたあの枯れた花を、まるで宝物のように自分の制服の胸元へブスリと挿し込んだ。いつの日か再びその香りを嗅ぐためか、あるいは永遠に彼女の記憶を忘れないための呪いかのように。
――ホセには、まだ帰るべき場所がある。
だが、あてのないカルメンには、果たして本当に帰る場所などあるのだろうか。いや、おそらく彼女の心には、最初からそんなもの存在していなかったのだ。
切なさと泥沼の空気が入り交じる中、ふと――酒場の出口へと通じる地下の階段の上から、また新たな足音が静かに降りてくる気配がするのであった。




