逃亡
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ドン・ホセがカルメンの両手を後ろ手に回し、手際よく縄を掛け終えると、彼女を上官の元へと連行していく。しかし、罪人として縛り上げられているというのに、カルメンの表情に怯えや気鬱の色は微塵もなかった。それどころか、まるでこれからのデートを楽しむかのように、足取りはどこまでも軽やかだった。
「――セビリアの城壁近く、パスティアの店でセギディーリャを踊り、マンサニージャを飲むのよ……! お友達の店へね!」
カルメンは不意に歌い出し、両肩を前後にリズミカルに揺すりながら声を張り上げる。そのあまりに陽気すぎる振る舞いは、事情を知らない人間が見れば、まるで強力な薬物でもキメて頭がおかしくなってしまったのではないかと疑うほどだった。彼女は妖艶に顔を左右に振って周囲を見渡し、さらに歌声を重ねる。
「でも、一人じゃつまらないわ……だから、新しい恋人を連れて行くの!」
「……恋人だと? 確かさっき、別の男を追い出したばかりだろお前は……」
ドン・ホセは近くに立っていた一般の男性からタバコを一本もらい受け、ふかしながら呆れ果てた顔でその歌う姿を見つめる。
「週末だと言うのに、このあたしを本当に愛してくれる男はいないのかしら?」
「…………」
まるで目の前にいるホセを誘っているかのような歌詞と流し目。カルメンは一歩一歩、わざと歩調を緩めながらホセに近づいていく。
「待ちくたびれるのは嫌よ! だって、あたしは新しい恋人と一緒にセビリアの城壁近く、パスティアの店でセギディーリャを踊って、極上のマンサニージャを飲むんだから……!」
(※マンサニージャ=スペインの伝統的な白ワイン(お酒))
そしてカルメンは急に足を止めると、その場でくるりと一回転し、軽快な足音を鳴らして踊り出した。
「さあ、パスティアの店へ行きましょう!」
「おい……いい加減にしろ! 話しかけるなと言ったはずだッ!」
堪忍袋の緒が切れたように、ドン・ホセが怒声を飛ばして彼女の前に割って入る。しかしカルメンは怯むどころか楽しげにふふっと笑い、すぐ傍らにあった木製のタルに腰掛けた。その少し後方では、野次馬の男たちが5人ほど集まって面白そうにその様子を眺めながら雑談している。
「ふふ、話しかけになんてないわよ。ただ一人で勝手に歌っていただけだもの。ねえ、貴方も一緒に歌わない?」
「誰が、お前なんかと一緒に歌うか!」
「あら、そう? じゃあ、歌うのはやめるわ」
そう言って歌をピタリと止めたカルメンは、ニコニコと悪戯っぽい笑顔を浮かべながらホセをチラリと見上げ、そしてスッと視線を下に落とす。その表情の切り替えはあまりにも豊かで、何か底知れぬ企みに満ちているようでもあり、あるいは単なる気まぐれな少女のようでもあった。しかし、その危うい二面性が、かえって得体の知れない気味の悪さと強烈な色気を醸し出している。
「……いったい、何を考えているんだ、お前は」
不気味さに気圧されながらも、ホセは絞り出すように鋭い詰問を投げかけた。
「ある士官のことを考えているのよ。あたしのことを好きだと言ってくれる、あの素敵な士官のね……。もしかしたら、あたしも彼のことを好きになってしまうかもしれないわ」
「……ふん、考えるだけなら勝手だな。考えるだけなら、な……」
カルメンは咄嗟に思いついたのか、それとも悪ふざけの一環か、挑発的な笑みを浮かべながら「あなたのことを考えているのよ」とでも言うかのように言い放つ。まったく、どこまでいっても底の知れない、恐ろしいほど頭の回る女だった。
「……カルメン」
その瞬間、ドン・ホセの表情がわずかに強張った。
先ほどまで厳格な軍人として彼女を叱責していたはずのその声に、どこか抗えない熱と、彼女を求める甘い響きが混ざり込んでいた。
「あたしが好きなのは、大尉でも中尉でもないわ。ただの、しがない一介の伍長さんよ」
「……っ!」
「でもね、ジプシーの娘の相手としてはそれで十分だわ。文句を言いながらも、我慢してあげる!」
「カルメン……! ああ、くそっ……! もし君の言う通りにしたら……約束してくれるかい? 僕を愛してくれるかい、カルメン……!」
――脳裏に、故郷で待つミカエラの優しい笑顔がよぎる。婚約者を差し置いて、この魔性の女に心を奪われてはならない。そんなことをすれば、二度と引き返せなくなることは分かっているのに、ホセの理性は音を立てて崩れ去ろうとしていた。
「ふふ、どうかしらね……?」
◆◆◆
その頃、ほんの少し離れた場所では――。
テンゴたち6人のパーティーが、穏やかな木陰に腰を下ろしてのんびりと雑談に興じていた。
「いやぁ、さっきの『魔女』の正体がまさかあんな自由奔放な女だったとはな……しかもただのあだ名みたいなもんだったし」
「ミカエラさんも急にいなくなっちゃったし、いったいどこへ行ったんだか……」
とモモがアザラシクッションをぎゅっと抱きかかえ言った。
「そういや、アマデウスのやつ、あんな見事な絵ぇ描けるとは思わなんだ。意外と多才なもんやがいね」
旅の緊張感から解放され、それぞれの話題で盛り上がる一同。ふと、テンゴが何気なく視線を広場の中央へと向けたときだった。
「ん……?」
そこでは、先ほど連行されたはずのカルメンと、ドン・ホセが何やら至近距離で見つめ合っていた。しかもホセは、後ろ手に縛られているはずのカルメンに向かって、まるで愛の告白でもしているかのような熱を帯びた身振り手振りをしている。
「おい……あいつら、いったい何やってんだ……?」
呆気にとられたテンゴの呟きに、チヒロやネルソンたちも首をかしげながら視線を向けるのだった。
「さあ、踊りましょう……お酒を飲みながらね」
「カルメン、約束だぞ……」
ドン・ホセはカルメンの背後に回り込み、周囲の目を盗むようにして後ろ手に縛られた縄にそっと手を触れる。もしかすると、先ほどの彼女の挑発にほだされて、こっそりと縛めを緩めてやろうとでもしているのだろうか。
「――セビリアの城壁近く、パスティアの店で踊りましょう、お酒を飲みながら……!」
カルメンが再び陽気に歌い出そうとしたその瞬間、すぐ傍らの石段から、ホセの上官がひょっこりと姿を現した。
その存在に気づくやいなや、カルメンはピタリと歌を止め、ストンとその場に座り込んでしまう。まるでこれまでの陽気さが嘘だったかのように、すっかり肩を落として悄然としている風を装うのだ。その演技力は完璧で、上官はその裏に隠された企みに微塵も気づいていない様子だった。
「おい、ホセ。命令書だ。さあ、さっそく連行していけ。目を離すんじゃないぞ」
「はっ!」
ホセは命令書を受け取ると同時に、ビシッと足を揃えて鮮やかに敬礼する。
上官は満足げに頷くと、そのまま何処かへと去っていった。その背中が見え去るのを確認してから、ホセはカルメンの腕を掴んで無理やり立たせる。
「……おい、行くぞ。どこかへ連行するわけだからな」
「ホセ殿は今お仕事の最中やろに、どうするがや……。町外れの酒場に行くのは、まだ少し時間かかりそうやけどなぁ」
少し離れた場所では、ネルソンがテンゴと同じようにカルメンとホセの様子をじっと観察しながら呟いていた。カルメンを連れ出して歩き出す姿はどう見ても「罪人の連行」にしか見えないが、当の二人の空気感はどこか奇妙にねじれていた。
その横で、モモもアザラシクッションを抱えながら心配そうに首をかしげる。
「連行業務ねぇ……なんだか怪しい雰囲気だけど……」
やがて、カルメンを先頭にし、その後をホセが従える形で歩き出す。遠目から見れば、完全に厳重な護送のワンシーンだった。
しかし――その平穏は、ほんの数歩歩いたところで一瞬にして砕け散る。
歩きながら、カルメンはホセに向けてコソリと耳打ちした。
「ねえ……途中であんたを突き飛ばすから、派手に倒れてみなさいよ。あとは全部、あたしに任せて!」
そう囁くやいなや、彼女はちょうどテンゴたち6人がいる近くへと差し掛かった。
「あの、ホセさん! お仕事はいつ終わりますか? 実はいくつか聞きたいことがあって……」
「ん? ああ、君たちか……。用事ならまた後日頼む。今は忙しいんだ、こいつを厳重に連行しなきゃならんのでね……」
ドン・ホセが苦い顔をしてそう返した瞬間、カルメンの瞳にふっと狂おしい光が宿った。
――スイッチが入ったのだ。
彼女は後ろ手に縛られていたはずの縄を、いつの間にかまるでマジックのようにスルリと解き放ち、すぐ傍らにあった市場のテントの骨組みへと突進すると、それを力任せに思い切り投げ倒した!
「なっ……何やってんだ、あいつ!」
「おい、大人しくしろ……!」
同行していた二人の部下が慌てて止めに入ろうとするが、ホセはなぜかそれを手で制止する。
「いや、いい……俺がいく……っ!」
背後から詰め寄ってきたホセを、カルメンは振り返りざまに両手で強烈に押し飛ばした。
――ドンッ!
「うわっ……!?」
ホセはまるで映画のスタントマンのように大の字になって吹き飛び、後ろに控えていた二人の部下にそのまま激突する。
「「わっ、危ないっ!?」」
「ってぇぇーーっ!!」
さらに、その勢いのまま駆け寄ってきたピローとテンゴも巻き添えを食らい、見事にまとめて押し倒されてしまった。ホセの転び方はどこか過剰に大げさだったが、そんなことを気にする余裕はすでになかった。
「いててて……っ! くそっ、あの魔女め……!」
テンゴが這い上がろうともがくが、背後のテントが芋づる式にガタガタと崩れ落ちていく。
それはまるでドミノ倒しのように周囲の仮設店舗を巻き込み、まるでどこかの劇場のコメディ――新喜劇のような見事な連鎖崩壊を引き起こした。空中を舞う長い布きれ、あちこちに飛び散る野菜や果物。そして、頭上から降り注ぐ大混乱の中、人々の絶叫が広場にこだまする。
「――ギャーーーッ!?」
「いったい何なのよ、この騒ぎはぁ〜っ!」
「なんじゃこりゃあぁぁ――っ!!」
「うわあああぁぁぁんっ!」
地面に叩きつけられて起き上がれないテンゴとピローの横で、モモ、ネルソン、チヒロの3人が慌てて団子状態から引き離そうと駆け寄る。
「ちょっと、何やってるのよ二人とも!」
「しっかりするげん、大丈夫かいや!」
「まったく、隙だらけなんだから……!」
そんなドタバタ劇の只中、広場の少し高い場所から、アマデウスは微動だにせずその光景を眺めていた。彼の表情には焦りなど微塵もなく、むしろ手元のペンをくるくると回しながら、どこか楽しげに不敵な笑みを浮かべている。
「……いやはや、本当に面白い方ですねぇ。あの女性は……」
喧騒の煙が少しずつ晴れていく中、広場の出入り口付近――そこには、見事に逃げ切ったカルメンの姿があった。
彼女は振り返ると、ギャラリーに向けてニコッと満面の笑みを浮かべ、まるでこれから楽しい旅に出発するかのようにヒラヒラと手を振ってみせる。驚くべきことに、逃げ去ろうとする彼女に向かって、野次馬の男性陣の一部は名残惜しそうに手を振り返し、中には怒鳴り散らしている者も混じっている。最後までお祭り騒ぎの中心は、あのジプシーの女だった。
しかし、いざ追いかけようにも、出入り口は崩れたテントの布や木材、散乱した荷物で完全に塞がれてしまっている。これでは追跡など不可能だった。
泥まみれの制服を払いながらようやく立ち上がったドン・ホセは、逃げていく背中をただ呆然と見送るだけで、上官にいたっては腰を抜かしたまま開いた口が塞がっていなかった。
「……やれやれ、だな」
ため息をつく気力すら失ったテンゴたちは、ただ遠ざかるカルメンの足音を見つめるしかなかったのだった。
ここまでお読み頂き有難うございます。
これにてカルメン編1幕終了です。




