ジプシー
少し遅くなりました。
引っ越しをして愛知に来ました。
最後まで読んでください。
その鋭いラッパの音と共に、先ほどまで広場に屯していた兵士たちもどこかへ足早に去っていく。
代わって青い服に帽子を被った修道士と思わしき少年と年配の修道士が、本を開いたまま静かに歩いてくる。しかし、やがて行進してくる新たな兵士たちの気配に気づくと、慌てて道の端へと身を寄せた。広場にいた女性たちや、その様子を静観していたアマデウスも同様に、道の脇へと避けていく。
人びとが道を開けたその中央を、新たな兵士たちが堂々と行進してくる。胸を張り、背筋を伸ばし、力強い掛け声とともにピタリと足を揃えて右を向く。その姿は実に勇ましく、規律正しい衛兵の交代時間が訪れたことを告げていた。
そんな中、先ほどの伍長と、新たに交代で現れた伍長――ドン・ホセが、引き継ぎのために言葉を交わそうと近づいていく。
「ん? どうした、モラレス……」
「いや、さっきな……美しい娘が『ドン・ホセはいないか?』って、お前を探しに訪ねてきたんだよ」
「美しい娘……? 一体、誰のことだ?」
「青いスカートに、おさげ髪の愛らしい女性だったが……」
その描写を聞いた瞬間、ドン・ホセの脳裏にハッと一人の女性の顔が浮かんだ。彼には、その特徴に心当たりがありすぎる。
「それはミカエラだ……! 本当か、モラレス!?」
「あぁ、見間違いはない。お前を探してここへ来ていたぜ」
モラレスから得た情報を噛みしめるホセ。
彼女がわざわざ自分に会うために、こんな場所まで何をしに来たのか。だが、肝心のミカエラは、すでにその場からどこかへと姿を消してしまっていた。その行先を知る者は、広場の人間には誰もいない――あの、彼女を追って走り去ったテンゴたち5人を除いては。
◆◆◆
時を同じくして、すぐ傍らにそびえるタバコ工場から、パァァーッと明るい休憩の合図の鐘が鳴り響いた。
その音を合図に、工場の中にいた何百人もの女工たちが、一斉に広場へと溢れ出てくる。
彼女たちは思い思いに息をつくと、それぞれが手慣れた手つきでタバコに火を付け、紫煙をくゆらせ始めた。全員が吸っているわけではないが、多くの者が青白い煙を目で追いかけ、空へと昇っていくのを見つめている。
軍人と並んで親しげに煙草を吹かす者、疲れた足取りでその場に腰を下ろす者、仲の良い同僚たちと肩を寄せ合う者、あるいは一人静かに物思いにふける者――その吸い方は実にさまざまだった。だが、誰もがその香り高い煙のなかに、日々の疲れを忘れるひとときを見出している。
甘いタバコの煙は、まるで恋人たちの愛の語らいのようだった。
激しい情熱も、将来の誓いも、すべてはこの儚い煙に託され、そして空の彼方へと昇っていく。消えていく煙は、まるで泡沫の夢のようだ。
女工たちは、天へと消えていく煙から目を離さない。
夢を追い求めるのと同じように、形のない煙はやがて空に溶け込み、消え去ってしまうと知っていながらも。
それでも彼女たちは、タバコ工場での過酷な労働に身を置く。生きるための報酬を得るために、今日も懸命に働かなければならない。
だからこそ、この束の間の至福の時だけは譲れなかった。この小さな休息がなければ、日々の苦しい仕事を続けていくことなどできないからだ。
仲間たちと煙草をくゆらせ、他愛のない言葉を交わし合う――その時間こそが、彼女たちにとって明日を生き抜くための、何よりも大切な糧となっていた。
*煙草をくゆらせる:煙草を吸うの意味
その時間も、アマデウスはまだ広場の一角に佇み、何やら深い思索にふけっていた。
周囲の女工たちが発する熱気や喧騒に気を取られることもなく、彼は愛用のぶ厚い本を開き、静かにページをめくっていたが――やがて、彼女たちがくゆらせるタバコの煙にふと目を奪われ、パタリと本を閉じた。
(……タバコ、か)
もうもうと空へ昇っていく青白い煙を見つめながら、アマデウスの脳裏に冷徹な思考が巡る。
(タバコとは、まるで人間が抱く「夢」と同じだ。吸えば徐々に消えていき、煙を掴もうと手を伸ばしても決して掴むことなどできない。ただ呆然と、遠ざかっていくのを眺めるしかない。……それは、人々が人生において抱く儚い夢と、いったい何が違うというのだろう)
(いつか必ず霧散してしまう夢などに、いったい何の価値があるのか……)
だが、と彼は眼鏡の奥の瞳を細める。
(一つだけ、タバコと夢とで異なる点があるとするならば――。前者は、人間が自らの手で作り出す、肉体への麻薬。そして後者は、人間の心が勝手に生み出し続ける、精神の麻薬だ)
(――夢を見てはならない)
(ましてや、そんな実体のないものを追いかけるなど、愚の骨頂だ)
「……私はね、夢を抱く人間が心底嫌いなのですよ」
誰に聞かせるでもなくそう呟くと、アマデウスは再び冷ややかな視線を広場へと向けた。
* * *
広場の周辺には、いつの間にか大勢の男たちが集まっていた。
山高帽を被った伊達男、黒いスーツに身を包んだ者、隙のない姿勢を崩さない軍人たち、怪しげな商売人、そしてタバコ工場から出てきた女工たち――。誰もが何かを待ちわびるかのように落ち着かない様子で周囲を見回しており、まるでこれから街全体を巻き込む大掛かりなイベントでも始まるかのような、独特の熱気が漂っていた。
「おい、カルメンシータはまだか……!」
一人の男が、待ちきれないといった様子でその女性の名を呼ぶ。
どうやら彼女がこの広場に姿を現すこと自体が、この街の男たちにとっての一大トピックらしい。
「あそこだっ!」
「こっちに来るぞ……!」
「おい、あそこにいる!」
「「カルメンシーターーッ!」」
誰かの叫び声を合図にしたかのように、広場にいた男たちが一斉に同じ方向へと言葉を吸い寄せられるように群がっていく。軍人たちも規律を忘れたかのように、我先にとその中心へ視線を集中させた。
恋心をこじらせた男たちの熱い視線が一点に注がれる中、人だかりの隙間から、その女性は悠然と姿を現した。
鮮やかな赤い衣服に、落ち着いたグレーのスカート。首もとでは大振りのネックレスがきらりと妖しく光っている。
その退廃的で蠱惑的な佇まいは、一言で表現するならば――まさに「魔女」そのものだった。
カルメンは片手を自信満々に腰へと当て、自分を囲む男たちの熱狂的な視線を品定めするようにゆっくりと見回す。その表情には、男たちを翻弄することを楽しむような、不敵で小悪魔的な笑みが浮かんでいた。
「いつになったら、俺たちに振り向いてくれるんだよ!」
「そうさ、カルメン! 今日こそ俺の答えを聞かせてくれ!」
「カルメン、俺についてきてくれ!」
寄席からあふれ出た野次馬のように、男たち口々に愛の言葉を叫び、彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。しかし、カルメンはまったく動じる様子もなく、むしろ面白がるように肩をすくめた。
「いつになったって……? さあね、そんなの分からないわ」
「一生ないかもしれないし、明日かもしれないわね。――だけどね、少なくとも、今日じゃないことだけは確かだわ」
そのあまりに気まぐれで、それでいてどこか冷めた返答に、取り囲んでいた男たちは一斉にずっこけ、苦笑いを浮かべるしかなかった。
だが、男たちは諦めるどころか、ますますその瞳に熱い炎を燃え上がらせる。カルメンがそう言うのであれば、今日この場で誰かが彼女の心を奪うことはない――とりあえずの安心感と、次への期待が男たちをさらに狂わせるのだった。
「恋なんて、空を飛ぶ鳥のように気まぐれなものだわ」
「どんなに良い餌をまいたって、決して傍へなんて寄り付かないものよ」
「いくら熱心に口説かれたって、私はそんなの御免だわ」
「――そうね、私のことを見向きもしない人こそが、大好きなのよ」
カルメンは妖しく微笑みながら男たちの間を優雅に歩き、まるで歌うように言葉を紡いでいく。
彼女にとって、恋とは決して手懐けられない「扱いづらい鳥」そのものだった。鳥を呼ぼうとどんなに餌を撒こうとも、大した収穫など得られない。鳥はどこまでも自由でなければならないのだ。空のどこを飛び、何を見ようと鳥の勝手であるように――つまり、カルメンは自分に媚びず、傍に寄らない人間ほど強く惹かれてしまうのだった。
その様子を、少し離れた場所からアマデウスは冷ややかな瞳で見つめていた。
広場の男たちを翻弄するカルメンの姿と、彼女が語る「恋」という名の不条理。その光景は、アマデウスのなかに別の思考を呼び覚ましていた。
(――恋と夢は、よく似たものだな)
(どちらも、人間を狂わせる一種の麻薬に過ぎない)
(だが……これは実に面白い)
何かに閃いたように、アマデウスは膝の上に置いていた愛用のぶ厚い本をパッと開き、金色の装飾が施されたペンを走らせて何かを書き留め始める。
その傍らで、カルメンはさらに言葉を重ねていた。
「私はね、脅されても頼まれても、何もしないわ」
「ある人はよく喋り、またある人は黙りこくるけれど――」
カルメンはふと足を止め、黒いスーツに黒いシルクハットを被った一人の男性の目の前へと歩み寄った。その首もとにそっと触れるような仕草を見せ、何かを言い聞かせるように顔を近づける。そして、男性の体をくるりと回すと、両手で軽く押しやった。
「それなら、私が好むのは『黙っている方』だわ」
「言葉を何も語らなくても、私はそれだけで気に入ってしまうもの」
満足したように笑うと、カルメンは再び次の標的を探すように、蠱惑的な足取りで歩き出す。
「愛は、ジプシーの子。規則なんて知りはしないわ」
――ジプシー。それは定住を持たず、様々な土地や世界を渡り歩く移動型民族の異名。転じて、ひとつの場所に留まらず、気ままに生きる者たちを指す比喩でもある。
愛とは、まさにそのジプシーのようだ、とカルメンは嘲笑う。愛は時に人の心に住み着き、そしてある日突然、何の予兆もなく離れていき、跡形もなく散っていく――。
「もしもあなたが私を愛していないなら、私はあなたを愛するわ」
「だけど……もし私に愛されてしまったら、せいぜい気をつけなさい!」
振り向いてくれない人を追いかけ、自分に惚れた人間には容赦なく牙を剥く。カルメンのそんな危険な色香に、男たちの熱狂は最高潮へと達していく。
その時だった。
周囲の熱気と喧騒を切り裂くように、一人の白い軍服を着た男性が、群衆の中から飛び出してきた。
彼はカルメンの目の前へ駆け寄ると、躊躇うことなくその場に片膝をつき、両手を広げて彼女を誘うような仕草を見せる。
その大胆で情熱的な素振りを見た瞬間、カルメンの足がピタリと止まった。
彼女は挑発的な笑みを浮かべたまま、その青い服装の男――モラレスへとゆっくりと近づいていく。
そして、彼の目の前に立つと、スッと細い指を伸ばし、その艶やかな人差し指をモラレスの唇の真ん中へとそっと当てようとするのだった。
「静かだと思った鳥も、ある日突然不意に翼をはばたき、どこかへ飛び立っていく……」
「愛はいつだって遠くにあるわ。あなたがただじっと待っているだけならね」
恋はまるで、近くに在ったかのように錯覚させておきながら、本当は遠く離れていて、もはや手の届かないものなのかもしれない。
「もしあなたが待てないなら……すぐそこにあるわ」
恋とは、まるで幻覚のようだ。遠くにあるように見えたり、すぐ近くにあったりして、いつの時代も人々を不思議な陶酔と惑乱に誘い込む。そして人々は、その魔力にいつの時代も頭を悩ませ、深くのめり込み、そして破綻していく――。だが、それでも恋の営みは、いつの時代も変わることなく繰り返されるのだ。
カルメンは今度は周囲の女性たちの肩を組み、優雅に広場の中央へと歩みを進める。その背後には、先ほどの白い軍服の男や、黒いスーツにシルクハットを被った男たちが、まるで引き寄せられるように従っていた。
やがて彼女は、一人の男性の目の前へとピタリと立ち止まる。
「あなたの周り中をすばやく、すばやく――来たら、すぐに逃げていき、そしてまた戻ってくる」
「あなたが捕まえたと思えば、するりとあなたから逃れ……あなたが逃れようとすれば、逆にあなたを捕まえるの」
そう言うと、彼女はその男性の帽子をひょいと取り上げ、自分の頭にすっぽりとかぶせてみせた。おかしそうに睨めっこをするように見つめ合ったかと思うと、今度は自分の被っていた帽子を元の男性の頭に返し、片手で軽く押し返す。
「何度も言うけれど、私という人間も、そして恋というものも――すべてはジプシーなのよ」
「あたしに惚れられたら、せいぜいご用心しなさい。ちゃんと守らないと、痛い目を見るわよ?」
「「「ハハハハッ……!」」」
カルメンは楽しげに、勝ち誇ったような笑い声をあげる。
その笑顔には深い計算があるようにも、あるいは何も考えていない無邪気さがあるようにも見える。しかし、その奔放さこそが、彼女が恋を完全に手玉に取っている証拠なのだろう。
「カルメン!」
「カルメン、待ってくれ!」
「頼むから、せめて俺に答えを……!」
男たちは切なげに声を荒げ、何人もの者たちが我先にと彼女へ駆け寄る。しかし、カルメンはふと足を止めると、群衆を無視して、とある一人の男の方へとまっすぐに歩き出した。
近づいていくその先には――先ほどから黙々と作業を続けている、ドン・ホセの姿があった。
男たちが息を呑んで見守る中、カルメンはホセの傍らに歩み寄り、その隣へとごく自然に腰を下ろす。
それこそが、彼女が口にしていた「何も語らない、自由な人」へのアプローチなのだろうか。
「ねえ、見慣れない顔ね。あなたの名前は?」
「……ドン・ホセだ」
「ここで、いったい何をしているの?」
カルメンは、ホセが両手で行っている手作業に興味を抱いたように、小首をかしげながら尋ねた。
「……鎖を作っているのさ」
「鎖……?」
「あぁ、心をつなぐための鎖をね……」
その言葉を聞いた瞬間、カルメンの表情がふと変わった。
彼女は手元に持っていた一輪の赤いバラをひったくるように掴むと、容赦なくドン・ホセの胸元へと投げつけたのだ。
「っ……!」
突然のことに驚き、ドン・ホセはその場で思わず立ち上がる。
気まぐれで冷酷、それでいて人を狂わせる魔性の女――それがカルメンだった。もしかすると、二人の間の決定的な「恋」の炎は、まさにこの一瞬の予期せぬ行動から燃え上がり始めるのかもしれない。
たった一つの過ぎた行動によって、世界のすべてがガラリと変わってしまうのだとしたら、それはあまりにも恐ろしく、そして甘美なことだった。
「……あたしは、ジプシーよ……」
それだけと言い残すと、カルメンはクルリと背を向け、その場から立ち去ろうとする。
周囲を取り巻いていた男たちも女工たちも、彼女の圧倒的な気迫に気圧されるように、蜘蛛の子を散らすように広場から離れていく。
去り際、カルメンはふと足を止め、どこか鋭い視線で冷ややかに誰かを睨みつけていた。
――その視線の先にいるのは、先ほど自分から赤いバラを投げつけられた男、ドン・ホセにほかならなかった。




