チヒロ誕生日会
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奏護と千宙の練習が始まった。
さっきまでの可愛らしい(ヒヤヒヤする)追及劇が嘘のように、二人はそれぞれの楽器を構える。千宙がピアノの前にスッと座り、呼吸を合わせて音を合わせにかかった。
練習曲は、ヴィヴァルディの『RV316a』、ハンス・ミリエスの『モーツァルトの様式によるヴァイオリン協奏曲』、そして最後にヨハン・スヴェンセンの『ロマンス 作品26』。
千宙はこれまで本格的にピアノを弾いていなかったはずなのに、蓋を開けてみれば驚くほどスラスラと弾けている。この調子であれば心配いらずで、予定している曲目をすべて問題なくこなせそうだった。
30分超に及ぶ通し演奏をひと区切り終え、二人は息をつくように休憩に入る。
「――なんだよ千宙、ちゃんと弾けるじゃないか」
「うんっ、自分でもびっくりしちゃった! やっぱりピアノって楽しいね!」
千宙は満足そうに、パッと華やかな笑顔を咲かせた。
「それじゃ、あと少しだけ本番を想定して合わせておくか」
「じゃあ、ラストに弾くスヴェンセンのロマンスのところ、もう一回行っとく?」
「そうだな。本番の締めに相応しい曲だし、そうしよう」
そうして、二人の真剣かつ充実した練習は小一時間ほど続いた。
やがて、いよいよ今日のメインイベント――誕生日会の準備に取り掛からなければならない時間帯に差し掛かる。
「そろそろいいだろう。そろそろネルソンやピロー、モモたちも来る頃だしな」
「うん、そうだね」
時の流れは早いもので、そうこうしているうちに、さっそく玄関のほうから賑やかな声が聞こえてきた。
「おーい、チヒロ! テンゴ! いるんだろー? 来たぞーっ!」
聞こえてきたのは、お馴染みピローの声だった。少し早い気もするが、せっかくだから中に入ってもらおう。
「いらっしゃ〜い! まだこっちは準備ができてないぞ〜」
玄関まで出迎えたテンゴ(奏護)がそう声をかけると、ピローはフッと鼻を鳴らす。
「いいよいいよ、本人の誕生日会なんだから、本人がバタバタ準備する必要なんかないだろ……」
「それもそうだな……」
「我も、しっかりと手伝わせてもらうぞ……!」
そう言って、ピローとテンゴは誕生日会の会場となるスペースへと歩いていく。
「で? テンゴ、今日のヴァイオリンの仕上がりはどうなんだ?」
「う〜ん、まぁまぁってところかな。問題なくいけるさ」
会場に到着した二人を見つけ、ピローもさっそく持参していた荷物を降ろす。
このコロニー内では、こうしたイベントやパーティーを開くことが最初から想定されているのか、あらかじめ指定の雑貨屋に行けば必要な装飾品が買えるように設定されていた。そのため、あらかじめ奏護がいくつか買い込んで持ってきていたのだ。
さらに、ピローも必要になりそうな小物を自分のアイテムボックスから次々と取り出していく。
「おっ、チヒロ! 我が準備する〜」
「ありがとう、ピロー!」
「チヒロは主役なんだから、今のうちに休んでいていいんだぞ」
「うん、そうさせてもらうわ」
ピローたちのテキパキとした手際に助けられながら、みんなで協力して誕生日会の飾り付けに取り掛かる。
しかし、その作業の最中――再び、玄関のインターホンが軽快な音を響かせるのだった。
テンゴがチヒロの自宅の玄関へと足を向けると、ちょうど扉の外から軽やかな声が聞こえてきた。
「こんにちわーっ!」
その声の主がモモであることを確認し、テンゴはスッとドアを開け放つ。
「いらっしゃ〜い!」
モモの姿を確認した直後、そのすぐ後ろにもう一人の人影があることに気づいた。
「参ったぞ、テンゴ」
そう、ネルソンも一緒に到着していたのだ。
「おっ、ネルソンもか! みんな揃ったな。ピローはもう中で準備を進めてくれてるよ。さあ、上がって上がって!」
テンゴは二人を温かく招き入れた。
玄関から廊下を歩きながら、テンゴは仲間に声をかける。
「チヒロは、準備がすっかり整うまで部屋で休んでもらってるからさ」
そう言って全員がパーティー用の部屋に到着する。
「とは言っても、もうこっちはほとんど準備終わりそうなんだけどね……」
「済まんな〜、なんだか少し遅れてしまったようで〜」
「いやいや、全然そんなことないよ! ちょうどいいタイミングさ」
「じゃあ、そろそろ各自の持ち寄った料理を出しちゃおうか?」
モモがテキパキと提案する。
「そうだな……それじゃあ、アイテムボックスから料理を取り出すか!」
「みんなは、何を持ってきたんだ?」
テンゴの問いかけに、作業の手を一度止めたピローが答える。
「我は、『チーズケーキ』を持ってきたぞ」
続いてネルソンも、ずっしりとした容器を取り出す。
「拙者は、『おでん』に『焼きそば』、それから『たこ焼き』なんやが……どうや!」
「うちは、『チキン』に『唐揚げ』をなみんなの人数分と、ちょっと多めに買っておいたから安心して食べてね…」
モモが自慢げに胸を張る。
「おおっ、みんなありがとう! ちなみに俺は『チョコケーキ』と『生ハム』かな。ピローのチーズケーキとちょっと被っちゃったけど、まぁ甘いものは別腹だしみんな食えるだろ!」
「よし、これで料理の準備は万端だな。あとは、準備ができたことを知らせて、主役の本人を呼びに行きますか」
仲間たちが手際よくセッティングを整えるのを見届けて、テンゴは主役のチヒロを呼びに部屋を飛び出した。
やがて準備が完了したテーブルの上には、みんなが持ち寄った自慢の品々が所狭しと並べられていた。
『チーズケーキ』に『チキン』、『唐揚げ』、濃厚な『チョコケーキ』にワインによく合う『生ハム』、さらにはアツアツの『おでん』『焼きそば』『たこ焼き』まで――これでもかと言わばかりの豪華なご馳走がずらりと並んでいる。
ちなみに、これら『L K O』の料理や、コーラ、ウーロン茶、牛乳といった多彩なドリンク類は、すべてコロニー内のショップで手軽に購入できる優れものだ。この世界ではこうした生活インフラがしっかり整っているおかげで、日々の暮らしが非常に快適に送れるようになっていた。もちろん、これら以外の食べ物や飲み物であっても、いざとなれば自由に買い揃えることができる便利な仕様である。
テンゴは千宙の部屋へと足を向け、そのドアを軽くノックした。
コンコン、と響いた音の直後、中から弾んだ返事が返ってくる。
やがて室内からパタパタと足音が近づいてきて、ガチャリと音を立ててドアが開いた。
「今行く!」
顔を覗かせた千宙と共に、テンゴは仲間たちが待つテーブルへと戻ってきた。
「みんな、ありがとー! 私の為にわざわざ……っ!」
「いやいや、折角の記念日だしな」
「チヒロ、誕生日おめでとう」
「こういう大変な時やからこそ、しっかり祝うべきやわ……」
主役である千宙の登場に、仲間たちがそれぞれ温かい言葉をかけていく。
「じゃあ、まずは俺と千宙の演奏の前に……盛大におっぱじめますか!」
テンゴが明るく切り出すと、皆はあらかじめテーブルに用意されていたクラッカーを手に取り、一斉に立ち上がった。
「「「「チヒロ! 誕生日おめでとう!!」」」」
パコーンッ!! と、景気の良い音が一斉に部屋中に響き渡る。
それから、みんなはそれぞれの席に腰を下ろし、ずらりと並んだ美味しそうな料理を取り分けて各テーブルへと回していった。
ログアウトができないという緊迫した状況の中だったが、この千宙の誕生日会は、思いがけない緊急事態における最高の休息となっていた。
久しぶりにログインした拍子にこのトラブルへ巻き込まれたテンゴも、最初は焦るばかりだったが、今はすっかり心が落ち着いている。
それはきっと、仲間たちも同じはずだ。こんな状況下であっても、こうしてみんなでお誕生日会を開き、同じ時間を分かち合えること自体が、何よりもかけがえのない幸せな時間に思えた。
「ありがとおおおおっ!! みんな、本当にありがとうっ!」
「テンゴもありがとう! 私の誕生日、ちゃんと覚えててくれて……!」
「何度もいいよ。俺も……こうしてお誕生日会が開けたことが本当に嬉しいんだからさ」
千宙の弾けんばかりの笑顔に、ピローやモモ、ネルソンたちもグラスを掲げて声を上げる。
ネルソンにだけはワインが注がれており、テンゴ、チヒロ、はオレンジジュースモモとピローはウーロン茶が注がれていた。
「さぁさぁ、乾杯だぁ!」
「みんな、飲むぞー!」
「おでんもいい具合に味が染み込んでるわいや!」
ログアウトができないという緊迫した状況のなかで始まったはずの滞在だったが、この温かい仲間たちと過ごすひとときは、そんな不安を忘れさせてくれるほどかけがえのないものになっていた。
美味しい料理に舌鼓を打ち、他愛のない冗談で笑い合い、コロニー内のチヒロの部屋には賑やかな話し声が満ちていく。
緊急事態のなかに訪れた束の間の休息――しかし、この穏やかで温かい絆こそが、彼らがこれからの冒険を乗り越えていくための何よりの力になる。
(さぁ、みんなのお腹が落ち着いた頃合いで……そろそろ、俺と千宙の演奏を始めるとするか!)
テンゴは心の中でそう意気込みながら、そっと視線を横にいる千宙へと向けた。
特別な一日は、まだ始まったばかりだ。
「よし、それじゃ、そろそろ演奏会を始めます」
テンゴの一声に、会場が温かい拍手で沸き起こる。
テンゴは別のテーブルに置いてあったヴァイオリンを手に取り、そっと準備を始めた。
「えー、改めまして今回、私の為にお誕生日会を開いていただき有難うございます」
千宙も一度席を立ち、そう言って一礼すると、ピアノの前に向かって楽譜を広げた。
「今回演奏するのは、ヴィヴァルディ作曲『RV316a』、ハンス・ミリエス作曲『モーツァルトの様式によるヴァイオリン協奏曲』、そして最後にヨハン・スヴェンセン作曲『ロマンス 作品26』です。どうぞお楽しみください」
再び拍手が沸き起こり、二人は呼吸を整えて演奏の体制に入る。
テンゴは弓を構え、最初の曲を弾き始めた。
誕生日会のための演奏だ。ここには自分たちを含めてたったの5人しかいない。
しかし、だからこそ華やかに、軽やかに、完璧に決める。
それくらい当然のつもりで弓を置いたのに、ヴィヴァルディの第一楽章は思ったよりずっと容赦がない。右手は流れるように動く。音も前へ出る。なのに、左手だけがわずかに暴れた。
指先が跳ねる。ほんの一瞬、次の音が遠のく。
こんな場でつまずくつもりはない。
笑顔は崩さないまま、弦の上へ指を沈める。――高く上げるな。探しにいくな。
そこにある音を、そのまま奪え。
そう切り替えた瞬間、散りかけた旋律がふたたびひとつにつながった。大丈夫だ。今日いちばんきれいな拍手は、ちゃんと俺がもらう。
そして、全149小節をすべて弾き終えた。
余韻の中に美しい一礼を捧げ、小さく告げる。
「ありがとうございます」
「次に弾くのは、ハンス・ミリエス作曲『モーツァルトの様式によるヴァイオリン協奏曲』です」
再びの拍手の中、ヴァイオリンをしっかりと肩に掲げ直す。
祝いの席にふさわしい、明るく整った音で始める。
けれど、油断はしない。この曲は笑っているくせに、わずかな粗さも見逃してくれない。指使い自体は難しくないからこそ、ごまかしがきかないのだ。
音の品格まで含めて見られているような気がして、逆に胸の奥が熱く燃え上がる。いいだろう。だったら最初から最後まで、余裕のある顔で弾き切ってやる。
この曲は好きだ。明るくて、軽やかで、変に気負わなくていい。
弓を置いた瞬間、音はもう半分できあがっている。あとは少しだけ息を整えて、きれいに前へ流してやればいい。
難しい顔をする必要なんてない。むしろ笑うくらいでちょうどいいのだ。
モーツァルトの様式をなぞったこの旋律は、背伸びした必死さより、余裕のある一音のほうがよく似合う。だから俺は焦らない。
急がない。丁寧に、でも軽く。誕生日会の空気までやわらかくほどくみたいに弾いてみせる。
――大丈夫。こういう明るさは、俺のいちばん得意なところだ。
軽やかな調べが終わり、再び心地よい拍手が部屋を満たした。
「次は最後の曲になります。演奏する曲は、ヨハン・スヴェンセン作曲『ロマンス 作品26』です」
「どうぞ、最後までお楽しみください」
テンゴはヴァイオリンの弦にそっと弓を置いた。
すると、どこまでも優しく、そしてどこか哀愁を帯びたヴァイオリンの旋律が静かに流れ出す。
ヨハン・スヴェンセンの『ロマンス 作品26』。
北欧の清澄な夜空を思わせる、美しくも切ないト長調のメロディだ。テンゴはそっと目を閉じ、弓を弦の上で滑らせる。力を込めてねじ伏せるのではない。まるで愛しい人の髪を優しく撫でるように、丁寧に移弦を重ね、豊かなビブラートで音を震わせていく。
――脳裏に響くのは、穏やかな三拍子の伴奏。
情感が高まるにつれて、旋律はだんだんと熱を帯び、切なさが溢れ出すようにクレッシェンドしていく。
胸の奥がキュッと締め付けられるような、言葉にできない感情が、ヴァイオリンの木箱を通じてダイレクトに音の波形へと変換されていく。
指先が弦を押さえるたびに、北欧の深い森に星屑が降り注ぐような、圧倒的な「情熱」が誕生日会の空気を満たしていった。
弓を大きく引き切り、最後の音が静かにフェードアウトしていく。
楽器を肩から下ろした奏護は、小さく息を吐き、じっと自分の少し赤らんだ指先を見つめた。
派手な超絶技巧だけが音楽じゃない。
この『ロマンス』に込められた、魂の底から溢れるような美しい想いこそが、聴く者の心を震わせる本物の旋律なんだ――。
こうして、誕生日会のための特別な演奏は盛大な拍手とともに終わりを告げた。
「ご清聴いただき、ありがとうございました!」
テンゴと千宙はヴァイオリンと楽譜を丁寧に片付けると、ホッとしたような笑みを浮かべて再びテーブルへと戻ってくる。
「ふう、お疲れ様!」
「上出来だったわよ、二人とも!」
モモやピローたちが温かく迎えてくれる中、一人の男がスッと立ち上がった。
「えー、それでは……次は、拙者が一肌脱がせていただきまする」
そう言って、このギルド『宇宙の走破者たち』の現ギルド長・ネルソンが、テンゴたちがいた演奏スペースへと堂々と歩を進める。
一礼して場に向き直ると、待ちかねたように再び盛大な拍手が巻き起こった。
――思えば、このギルドも色々な歴史があった。
最初にこのギルドを立ち上げた初代ギルド長は、あろうことかチート行為によってアカウント停止処分を受けてしまった。しかし懲りずに別のアカウントを作って入り直し、再びこのギルドにちゃっかり加入してきたりもした。
その初代が去った後、別の人物にギルド長が引き継がれ、組織の指揮を執ることになったが――その二代目もまた、やがてこのギルドから姿を消してしまった。
初代と二代目は何やらリアルでの因縁の知り合い同士だったとか、今頃はどこかの星を越えて地球を目指していると良いんだが……。
そんな紆余曲折の末、現在のギルド長であるネルソンにそのバトンが渡り、今日までこうしてギルドの絆が続いてきたのである。
様々な歴史(黒歴史ともいう)を背負いつつ、趣味の歌舞伎で鍛え上げた喉を鳴らすべく、ネルソンは大きく息を吸い込んだ。
「――拙者、親方と申すは……!」
朗々とした声が部屋中に響き渡る。ネルソンの趣味である歌舞伎の真骨頂、名調子『外郎売り(ういろううり)』の幕開けだ。
「お立合の内に御存知のお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里、上方、相州小田原、一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへおいでなさるれば、欄干橋、虎屋藤右衛門、只今は剃髪致して、円斎と名乗りまする――っ!」
噛むことなく、よどみなく淀みなくスラスラと紡ぎ出されるリズミカルな口上。
ログアウト不能という宇宙の危機的状況にいることすら忘れさせるような、あまりにも本格的すぎるネルソンの熱演に、部屋の空気は一気に笑いと感嘆の渦へと包まれていくのだった。




