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消滅の宇宙  作者: 万世 千秋
フラストレーション
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28/64

天覧キャンプ!!

是非最後までお読みください。


ご感想お待ちしております


――――発表から数日後


天富家の一家は、車に乗って移動するための準備に追われていた。

時刻は正午を少し回った頃。お昼ご飯はすでに済ませている。

先ほど連絡があり、これから東矢家も移動を開始するという。待ち合わせ場所は、石川県輪島市の袖ヶ浜だ。

加賀市の自宅から現地へ向かうため、一家は少し慌ただしく動き回っていた。


父親は忙しそうに準備に勤しんでいる。もちろんキャンプ用品一式と、そしてなぜか、現地で演奏しようとするヴァイオリンまでトランクに積み込もうとしていた。

一方の母親は、連れていく奏護と奏音の衣類や必需品の仕分けに大忙しだ。


今からキャンプに行くというのに、その出で立ちはどこか冒険の旅に出発するかのように大げさだった。

もっとも、父親はこれまでに何度も能登地方へツーリングに出かけており、キャンプの経験も豊富で土地勘は抜群だ。

それに、父親は日本最大級のサイクリングイベント『ツールド・石川・500』にも出場したほどのスポーツマンである。車を走らせることも、キャンプも、そして自転車に乗ることも大好きなのだ。

――もっとも、今回のメインはあくまでキャンプイベントのため、愛車の自転車はお休みだが。


「奏護ーー、あんた、自分の準備はちゃんとできてるの〜!?」


家中をドタバタと駆け回りながら、母親が声を張り上げる。

奏護の細かい面倒まで見ている余裕などない。もう小学4年生なのだ。少しずつ自分で準備をしてもらわなければ困る。


「あぁっ! 今やってるよ!」


自室に戻った奏護は、慌ててバッグに荷物を詰め込んでいた。

パンツにシャツ、タオルを放り込み、さらに最近流行りのカードゲームを手に取る。


「これは……いいや、対戦する相手がいない……と思う」


カードゲームで一緒に遊ぶ友達はここにはいない。千宙もいるにはいるが、あんなカードゲームをするようなタイプの子どもには到底見えない。泣く泣く棚に戻すしかなかった。

カバンには他に、なぜか虫かごを入れようとする。もちろん、そんな小さな鞄に虫かごが入るわけがない。だが、キャンプ場の周りにはたくさんの虫がいそうだという期待から、どうしても持っていくつもりらしい。

さらにトランプを詰め込み、小型のゲーム機までバッグにねじ込む。


こうして、奏護の慌ただしい準備もようやく整いつつあった。

小学生という生き物は、こう見えてやけに忙しいものらしい。これから始まる遊びの数々に、心躍らせていた。


その頃、母親は妹の奏音の着替えからおもちゃの選別までこなしていた。


「奏音、何を持っていくの?」

「これと、これと……あ、これ!」


お母さんの問いかけに、奏音のバッグから顔を出したのはいくつかのお人形さんだった。


「お人形さんね……」


それを見た母親は、女の子だから仕方ないと心の中で納得せざるを得ない。おままごとセットまで追加されそうになるのを、何とかうまく宥めかす。


「お人形さん……えへへ」


可愛らしく微笑む奏音は、家族の揺るぎない宝物だ。もちろん、これから未来を担う長男の奏護も大切な宝物に違いなかった。


「お母さん、こっちの準備はどうだ?」「水着もOKよ!」


夏ということもあり、輪島市に着いたら海水浴を楽しむ計画だ。

父親の準備もいよいよ大詰めを迎え、自分の着替えや日用品をバッグに詰め込んでいく。キャンプ用品はすでに車へ積み込み済みで、あとは家族を乗せるだけとなっていた。


「よし、そろそろ行くか。奏護、準備できたかーー?」「もうすぐ——!」

「戸締りはしっかりするぞ。お母さん、奏音の準備は大丈夫か?」


1泊2日の旅になる。家を空ける間に空き巣に入られないよう、戸締りは徹底しなければならない。

出発時にはブレーカーを落とし、すべての窓や扉の鍵を念入りに確認する必要があった。


「こっちはもう大丈夫よ!」

「じゃあ奏護、さっさと降りてこいよーー!」


戸締りの確認を終えた父親が玄関先で待機する。

周囲の景色を眺めながら、これからのキャンプに胸を高鳴らせ、どんな非日常が待っているのかと期待を膨らませていた。


「よし、これで完璧だな」


荷物を詰めた鞄を背負い、奏護は自室のドアを開けて階段を駆け下りてきた。

100キロ以上離れた輪島市まで、車でおよそ2時間はかかる。移動の道中、途中のコンビニで何を買おうかと考え、奏護の頭の中はすでに別のことでいっぱいだった。

(コンビニで何を買おうかな……。カフェオレに、大福もいいよな……)


「行くぞ、奏護! 東矢さんのところは、もう家を出発したってよ」


東矢家がすでに自宅を発ったという連絡が、先ほど父親のスマホに入っていた。

さすがはしっかりとしたお姉さんのいる家庭は違う。準備も万端でさっさと家を出たらしい。このままのんびりしていては、現地で相手を待たせてしまうかもしれない。家族は全員分の水着も用意している。今回の楽しみはキャンプだけに留まらず、海水浴に輪島大祭と盛りだくさんなのだ。出発が遅れれば、それだけ海水浴の時間が削られてしまう。一刻も早く追いかけなければならなかった。


「はっや……! まぁ、すぐに追いつくさ!」

「運転するのはお父さんなんだからな。安全運転で行くぞ〜」


玄関で靴を履き、元気いっぱいに外へと飛び出す。

キャンプ用品に1泊分の荷物はしっかりと積み込まれていた。

スピードを出しすぎて事故でも起こしてしまっては元も子もない。家族の安全を守るのが父親の最大の務めだ。飛ばしすぎるような真似はしない。


「よし! 出発だ!!」


車の助手席の後ろ、後部座席の中央に奏護が勢いよく飛び乗る。

続いて父親が運転席に滑り込み、シートベルトを締めながら、改めて自宅の様子を確認した。

どこにも異常はない。戸締りも鍵も完璧だ。


「さて、行きますか」

「奏護は元気ねぇ。そんなに千宙ちゃんに会いたいものかね……」


キャンプが楽しみなのか、それとも千宙に会えるのが楽しみなのか。

この頃の男の子の心理として、本当はキャンプそのものが楽しみなのだろうが、年頃の母親としては茶化さずにはいられない。

「いや、別に……! 早くキャンプがしたいだけだし!」

「あら、そう……?」


エンジンを唸らせ、車がゆっくりと発進する。


「忘れ物はないな」


家族の忘れ物がないかを最後に心配する父親。足りないものがあれば、現地やキャンプ地の近くで調達すればいい。食材なども現地調達の手はずだ。

期待を胸に、天富家を乗せた車は輪島へ向けて走り出した。


――高速道路を走行中。


車窓の外には、日本海の穏やかな海岸線が広がっていた。


「それでね、千宙ちゃんに『奏護の伴奏、ありがとうね』って言ったら、『お仕事ですので』って言うのよ〜。すっかり大人びちゃって、あの子はもう……」


母親は助手席から振り返り、父親に向けて先ほどのコンクール裏話を嬉しそうに語っていた。

千宙の家庭とは普段から親しいわけではないため、母親にとっても新鮮な驚きだったようだ。これから始まるキャンプを通じて、子ども同士だけでなく親同士の仲も深まっていくことに、両親ともに密かな期待を寄せている。


「まぁ、あの子もあぁ見えて、しっかりとした大人な一面があるんだろうな」

「賞が取れないなんて、ばっさり言われちゃったけどね〜」


その横で、妹の奏音はすでに眠気に負けてぐっすりと眠りこけていた。車の心地よい揺れにウトウトし、いつの間にか夢の中だ。幼い子どもとは、こうして見ているだけでも愛らしいものである。


一方の奏護はといえば、母親たちの会話に加わるでもなく、車の窓からぽけーっと空を見上げていた。


(車に揺られながら空を見ていると、なんだか自分が空を飛んでいるみたいな気分になるな……。いつか、あんな空の向こうへ行ってみたいな……)

(……って、昼間なのに、よく見るとお月様も浮かんでるんだな)

(いつか、月に行ってみたいな……。月まで何万キロあるんだろ……)


奏護は手元のサイドポケットから、途中のコンビニで買ったカフェオレを取り出して一口クッと飲む。

地球から月までの距離は約38万キロメートル。実際に人類が足を踏み入れたのは、アポロ計画の宇宙飛行士たちだけだ。今の自分に月へ行く方法など見当もつかないが、夢を見るくらいはタダだし、子どもなら夢は大きく持ったほうがいいに決まっている。


はたして、奏護の将来の夢は宇宙飛行士になることなのだろうか?

いや、子どもの夢なんてものは、いつどんな風景を見ても、何に心を奪われても自由気ままに移り変わるものだ。


これからの旅路で、少年・奏護の心にはどんな夢が刻まれていくのだろうか。


待ち合わせ場所は、石川県輪島市の袖ヶ浜(そでがはま)


駐車場に車を滑り込ませようと、天富家の車が坂道を下りてきた。すると、すぐ近くに停まっていた車のドアが開き、見知らぬ男性が降りてきてこちらに手を振っている。


その車のすぐ隣に駐車し、エンジンを止めると、運転席から東矢家の父親が降りてきた。


「こんにちは、天富さん」

「こんにちは、東矢さん。初めまして、ですね……!」

「ええ、そうですね」


二人の父親たちが和やかに挨拶を交わす傍らで、母親たちも車から降りてくる。

どちらの母親もやはりお喋りが好きなのだろう。井戸端会議というものは、出会った瞬間に始まってしまうものらしい。


「今日は一段と暑いですね……」

「いや〜、本当にそうですね! 早く海に飛び込んで泳ぎたいですよ〜」

「うちの千宙も、さっきあそこで着替えてきましたから……」


そう言って、東矢の父親が更衣室の方を手で指し示す。もちろん、ちゃんとした更衣室があるので着替えには困らない。もっとも、男の子である奏護たちは車の中でパパッと済ませてしまうのだが。


「いや〜、そうですか……うちの奏護なんて、ここに来る前に車の中で着替えてましたよ。ははは……。いや、あいつ、出発する前から海水パンツを履いていたもんでね……」

「そりゃ私も子どもの頃は、海水浴といえばそんな感じでしたよ。子どもはどこでも器用に着替えられますからな、ははは……!」

「うちの千宙も早いもんで……もうあそこで泳いでますよ。ははは……あそこです」


再び指し示された先を見ると、海のほうで千宙がシュノーケルを装着し、一人でプカプカと海を覗き込んでいた。魚でも見つけて楽しんでいるのだろうか。

子どもというのは一人であっても夢中になれるものであり、周囲にもたくさんの海水浴客がいるため危険はない。東矢の母親は、砂浜にゴザを敷いてゆったりと座り、その様子を見守っていた。


その光景を見るやいなや、奏護は車のドアを開けるなり砂浜へと飛び出し、一直線に海へ駆け出していく。


「海だああああああ!!!!!!」

「ちょっと奏護、待ちなさい!」

「んだよ……急に」


母親の声に振り返り、不満げな顔をする奏護。


「急にはこっちのセリフよ! ちゃんと準備運動しなさい!」


母親に叱られ、奏護は「確かに……」と思い直す。

いきなり冷たい海に入ったら足がつってしまうかもしれないし、何より小学校のプールの授業でも、準備運動はしっかりするようにと習ったはずだ。逸る気持ちを抑え、奏護はバッと足を止めた。


「お母さんと一緒に準備運動するわよ。奏音もいらっしゃい」

「うん……!」

「……おう、準備運動すっか……」


母親、奏音、そして奏護の3人は、砂浜に並んでしっかりと準備運動を始めた。


「それじゃ、僕たちも着替えてきますか……」

「そうですね……それじゃ、行きましょうか」


車のドアをしっかりとロックし、二人の父親たちは更衣室へと向かって歩き出したのだった。


「奏護、奏音とお母さんは今から着替えてくるから、あんたは千宙ちゃんと仲良く遊びなさいよ……」


海に入っていた千宙は、シュノーケルを装着したまま水面に顔を出し、陸地にやってきた奏護に気づいた。泳ぐのをぴたりとやめ、じっとこちらを見つめてくる。そのシュノーケルからは、なんだか「フシュー、フシュー」と聞こえてきそうな気合が漂っていた。


「任せろ! この間の借りは、ここで返させてもらうぜ!」

「奏護ッ!!」


母親から強めに名前を呼ばれ、勢い込んでいた奏護の動きがピタッと止まる。


「はい!」

「あんた、なんでいつもそんなに挑戦的なのよ!」

「わかったよ、仲良くするって!」

「……ちゃんと仲良くしなさいよ」


呆れたようにため息をついた母親は、そのまま東矢の母親のほうへと歩み寄り、軽く頭を下げた。


「東矢さん、うちの奏護をよろしくお願いしますね」

「ええ、こちらこそ。わかりましたわ」


母親同士の挨拶が済むと、奏護は待ってましたとばかりに再び海へと駆け出していった。

その後の千宙と奏護は、一緒に並んでシュノーケリングを楽しむことになった。少し深い場所までなら行けるが、それ以上は危険だ。遊泳区域の境界を示すロープの引いてある場所より先へは、もちろん進めない。


父親たちも無事に水着への着替えを済ませ、両家の大人たち全員が砂浜に集まると、今度はみんなで大きなビーチボールを使ったキャッチボールに興じ始めた。


時はすでに、午後の三時半をまわっていた。


午後8時。夜の帳が下りた輪島市内では、いよいよ勇壮な「輪島大祭」が始まろうとしていた。

着替えを終えた一行は、提灯の明かりに彩られた市内へと繰り出す。夜の街を練り歩く複数のキリコが威勢のいい掛け声を響かせ、通り沿いに並ぶ屋台からはたこ焼きや焼きそばの香ばしい匂いが漂ってくる。綿あめからチョコバナナまで揃う光景は、いかにもお祭りらしい活気に満ちあふれていた。


ふと、妹の奏音がお面を売る屋台に目を留め、欲しそうにじっと見つめる。それに気づいた千宙は、親にねだって買ってもらったお面を、そっと奏音の頭につけてあげた。


「お姉ちゃん、ありがとう……!」

「ううん、どういたしまして」

「あはは、可愛いね、奏音ちゃん!」


千宙は奏音を見てにっこりと微笑む。女の子同士、すっかり仲良くなったようだ。


「そこのイキリ男爵も、奏音ちゃんみたいに可愛ければな〜」

「おい! どこの誰がイキリ男爵だっ!?!」

「ん? 反応するってことは、自分がイキリ男爵だって自覚があるわけね?」

「ぐわあああ! おのれ、覚えてろよ……!」

「お面、買ってあげようか〜〜?」

「いらね〜よ、そんなのっ!」


軽口を叩き合う奏護と千宙をよそに、奏護、千宙、奏音はお祭りで買ってもらったお面を頭に装着している。チョコバナナやりんご飴をかじりながら、威勢よく走り回るキリコの姿を夢中で見上げる子どもたちの瞳はキラキラと輝いていた。いつかあんな大きなキリコを自分たちの手で担いで走ってみたい――誰もがそんな憧れを抱いたに違いない。


午後22時。大祭の熱気もひと段落し、一行は楽しかった祭りの感想や屋台で食べた美味しいものについて語り合いながら、キャンプの拠点を張っている袖ヶ浜へと戻ってきた。


「今夜の大祭も、相変わらず派手で凄かったですね」

「そうですね! いつも通りの熱気で……それに、今年も大きな怪我人が出なくて本当によかったですよ」

「ははは、下手したら本当に死人が出かねない勢いですからね……」


父親同士がそんな世間話を交わしながら、手際よくキャンプの設営に取り掛かる。みんなで協力して作業を進めると、およそ40分ほどで2つのテントが完成した。

荷物をテントの中に置き、一息つく間もなく、東矢の父親はなにやら楽しげな別の準備を始め出すのだった。


「天富さん」

「はい?」


「私はね、天体観測が趣味なんですよ……」

「はは〜ん、なるほど。これはまた、お洒落な趣味ですね」


東矢の父親はそう言って、持参していたキャンプ用の機材バッグから望遠鏡のパーツを取り出した。この天体観測用の望遠鏡は、袖ヶ浜にやってくる途中の商業施設に預かってもらっていたものだという。当然ながらまだ組み立てられていないため、今から現地でセッティングを始めるようだ。


「一緒に天体観測をしましょうよ。ほら、子どもたちもきっと喜びますし、それに今日は運良く雲一つない最高の夜空ですからね〜!」

「ははは、確かにそうですね! 何か手伝いましょうか?」


どうやら東矢の父親だけでなく、天富家の父親にとっても星空を見上げるのは嫌いではないらしい。


「いえいえ、いいですよ。10分くらいでサクッと終わりますから」


東矢の父親手際よく三脚を立て、そこに専用の本体をしっかりと固定していく。1メートルを優しく超える本格的な望遠鏡が、夜のキャンプサイトにその姿を現した。

子どもたちにとっても、これで宇宙の神秘をほんの少しでも覗き見ることができる。自分たちのような存在は広大な宇宙から見ればちっぽけなものかもしれないが、こうして望遠鏡で宇宙を覗き込むことは、人間もまた宇宙の一部であると感じさせてくれるし、無限のロマンや希望を発見するきっかけにもなる。人それぞれの解釈で、宇宙はいつでもロマンに満ちあふれていた。


「さて、では私は持ってきたラジオでもつけておきますか」


父親がラジオのスイッチを入れると、心地よい音楽番組のメロディが夜風に乗って流れてきた。


「おぉ〜〜……! すげぇ、本物の望遠鏡だ……!」


奏護は目をキラキラと輝かせ、目の前にある機材に釘付けになっている。


「奏護君、宇宙の神秘を覗いてみたいかね?」

「うんっ! 覗いてみたい!!」

「よし、それじゃあ順番に覗いてみようか……」


こうして、少年・奏護はいよいよ宇宙の神秘へと誘われることになった。初めて自分の目で見る望遠鏡の向こうの宇宙と、そこに輝く星々――はたして、奏護の瞳にはどんな世界が映るのだろうか。

宇宙とは一体如何なるものなのか。人類は何百年、何千年もの間、この偉大な謎に挑み続けてきた。そして今度は、少年である奏護がその巨大な問いに向き合う番なのだ。


「千宙は、もう見飽きたもんな……まぁ、待ってろ」


東矢の父親に促されるまま、奏護はワクワクしながら望遠鏡をのぞき込んだ。

いつか月に行ってみたいという自分の願いが、いつか本当に叶う日が来るのだろうか。

そんな様子を見ながら、東矢の父親は「ちょっと図鑑を取ってくるから、そのまま奏音ちゃんと一緒に見ていてくれ」と車の方へと歩いていった。


奏護は、横で順番を待ちわびていた妹の奏音と代わる代わる望遠鏡をのぞき込み、夜空に浮かぶ美しい月を捉えた。


「おおおおほほほ……! 見える、見えるぞ……!」


「うわぁ……すごーい!」


少しして戻ってきた父親は、奏護と隣にいた奏音の手に、星図が載った分厚い図鑑を手渡した。


「二人とも、いいかい? せっかくだから、今夜の夏の星座たちも一緒に探してみようか」

「うんっ!」

「うん!」


その傍らで、千宙は望遠鏡の輪に加わることもなく、ただ静かに一人で夜空を見上げていた。父親がこれほど熱心な天体観測の趣味を持っている以上、娘である千宙も普段から星を見慣れているに違いない。父親が持っているような図鑑の内容など、とっくに熟知して見飽きているのだろう。だからこそ父親も千宙にあえて声をかけず、好きなようにさせているのだった。


父親は後ろを振り返り、テントの前に置かれたキャンプ用の椅子へと戻っていった。

マグカップに入った温かいコーヒーを一口すすり、一息つく。その横では、子どもたちの様子を見守りながら、両親同士の落ち着いた会話が弾んでいた。


「いや、なんだか……東矢さんが千宙ちゃんに込めた名前の意味が、少し分かった気がしますよ」

「いやあ……鋭いですね。まぁ、だいたいそんな感じなんですがね……」


「まぁ、うちの一家は代々音楽系の家系なもんでね。奏護には、やっぱり音楽家になってほしいなって密かに思っているんですよ。ちなみに、奏護っていう名前は、大切な人ができたときに、その傍らでしっかりと守ってあげられる男になってほしい、そんな願いを込めて付けたんです」


「あぁ、なんだかそんな気がしてましたよ……。カッコいいじゃないですか、奏護君は。なるほど、だから『奏』(かなでる)に『護』(まもる)なんですね。親御さんの夢や愛情がたっぷり詰まってる名前だ」


「いやいや、そんな……照れますね」


「はははは!」


親同士のそんな大人の語らいが続く傍らで、子どもたち3人は代わる代わる望遠鏡をのぞき込み、歓声を上げていた。

お互いの名前に込められた親の願いや誇り。子どもたちがその意味を深く知るのはまだ先のことかもしれないが、我が子に託す親の夢はいつだって真剣そのものだった。


そのとき、テントの脇に置かれたラジオから、どこか聴き覚えのある美しい旋律が流れ出してきた。

――チャイコフスキー作曲『ヴァイオリン協奏曲』。


それは偶然の巡り合わせなのだろうか。

かつて天富の父親が、学生時代に憧れ、どうしても弾きこなせなかった思い出の曲だった。

しかし、あの頃は悔しい思いをしたその難曲も、今ではすっかり自分のものとなり、いつでも自由に弾けるようになっている。


夜の静寂に響く名曲の調べが、キャンプの夜をより一層深いものへと変えていくのだった。


子どもたちはまだ、夢中になって望遠鏡で夜空を見上げていた。自分たちの思うがままに機材を動かし、それぞれの視点で宇宙を覗き込んでいる。


奏護が最初に覗いた先には――あれは、赤く輝く火星だろうか。

次に位置を合わせると、今度は神秘的な土星の輪がはっきりと見えた。

「すげぇ、輪っかが見えるぞ……!」


続いて奏音に順番が変わる。

アルビレオ、アルタイル、デネブ、ベガ――いわゆる『夏の大三角形』のきらめく星々を次々と捉えていく。

その横で、千宙も続いて望遠鏡をのぞき込んだ。普段から見慣れている夜空の星々だが、自分で機材を動かしながら見つめる星は、いつもと少し違って新鮮に感じられるらしかった。


そのとき、テントの脇に置かれたラジオから流れていたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が、美しいソロパートを終え、いよいよ壮大なオーケストラによる演奏へと突入していく。


「この曲は……」

「どうしました、天富さん?」


音楽の盛り上がりに合わせるように、父親は静かに語り出した。


「私はね、高校生のころ、管弦楽部にいたんです。でも、高校三年生の最後のコンクールで落ちてしまって……この曲を、当時の自分の手で弾くことができなかったんですよ。チャイコフスキーがこの曲に込めた意味を自分なりに解き明かすまでに、何年もかかりました」


父親は夜空を見上げ、どこか遠くを見るような目をしながら続ける。

「この曲を聴いていると、なんだか星と星が音楽で繋がっているような、そんな不思議な感じがするんです。……いつか、奏護にも全日本コンクールに出て、この曲を弾く時が来るのが私の夢なんですよ。私が弾けなかった分、いつか奏護に弾いてほしいですから……」


――全日本コンクール。

それは、各地方の予選からわずか3人だけを選出し、その者たちが全国大会で最優秀賞を競い合う、いわば音楽界の甲子園とも呼べる舞台だ。そこへ行くために、奏護たちも予選ではクライスラーの『前奏曲とアレグロ』を必死になって練習した。しかし、当時の父親自身は惜しくもその切符を手にすることができなかった。


「なるほど、この曲にはそんな深い思い入れがあったんですね……」

「いくつも夢があるなんて、素晴らしいお父さんじゃないですか」


東矢の父親の言葉に、天富の父親は照れくさそうに笑って首を振る。


「いえいえ、そんな大層なものじゃないですよ。ただ……この曲が持つ星のような美しい音色を、いつかあいつの演奏で見せてくれれば、それだけで十分なんです」



やがて望遠鏡を覗き飽きたのか、奏護と千宙、そして妹の奏音の3人は、それぞれ地面にゴロンと仰向けに寝転がった。

頭上に広がるのは、遮るもののない満天の星空だ。どこを見渡しても視界いっぱいに無数の星々が広がり、まるで夜空の絨毯を敷き詰めたかのように美しく輝いている。コンクールの会場で見せたあのトゲトゲしい空気はすっかり消え去り、二人はすっかり打ち解けて仲良くなっていた。


「なぁ、千宙ってさ……なんで『千宙』って言うんだ?」


ふと、奏護が夜空を見上げたまま、気になっていた疑問を口にした。

さっき自分の父親が、名前に込めた願いについて誇らしげに語っていたのを耳にしていたからかもしれない。


「それは……お父さんに聞いてよ」

「分かった! 千宙って、『千』を書いて、宇宙の『宙』だろ?」

「うん、そうだけど」

「よし、答えが出たぞ。つまり『千の宇宙』って意味だ!」

「なんなのよそれ……」


奏護の自信満々な推理に、千宙は思わずクスッと笑声を漏らす。


「ほら、見ろよ。空を見上げれば宇宙がたくさん広がっているだろ……その数、ずばり千個分ってわけさ!」

「どんな大雑把な意味よ……。まぁ、違うとは思うけどさ、でも案外『本当の答え』ってこういう単純なことだったりしてね」

「えっ、違うのかよ……」


少し肩を落とした奏護だったが、すぐに表情を引き締め、闘志を燃やすように言い放った。


「そっか……なら余計に知りたくなって来たぜ! だったら俺が、その『千の宇宙』の本当の意味を見つけ出してやるさ……!」


「ふっ、挑戦的ね……」


千宙は少しだけ口元を緩め、楽しそうな笑みを浮かべた。自分の存在や名前に隠された意味を、こうして真正面から面白がってくれる少年が隣にいることが、なんだか心地よかった。


「だったらさ、あんたの言う『千の宇宙』ってやつを、私に証明して見せてよね……。約束よ?」


「あぁ、任せろ! 千宙の『名前の意味』の本当の答えを見つけてやるよ!『約束』だ!!」


それは、いつか大人になったときに振り返るかもしれない、子どもたちの小さな冒険の始まりだった。

この夜空の下で交わした約束が、やがて長い旅路や、まだ見ぬ大きな夢へと繋がっていく――。

そこで発見できるものが一体何なのかは、まだ誰も知らない。ただ、二人で一緒に未来へ駆け出してみなければ、本当の答えにたどり着けないことだけは確かだった。


ラジオから流れていたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲――その第1楽章が、静かに終わりを告げようとしていた。


「そういえば、千宙の名前の意味について、まだちゃんとお話ししていませんでしたよね」


東矢の父親が、ふとマグカップを置きながら微笑む。


「ええ……そうですね。じゃあ、当てるだけ当ててみますか?」


天富の父親がクスリと笑う。


「なんだと思います?」

「やっぱり、さっき奏護が言っていた『千の宇宙』って意味ですか?」


さっきまで目の前で繰り広げられていた子どもたちのやり取りを耳にしていたのだろう。天体観測が趣味で、宇宙を愛する父親がつけた名前なのだから、きっとそれに由来しているはずだ。

だが、東矢の父親は楽しそうに首を横に振った。


「いえいえ、違いますよ」

「えっ、違うんですか!?」

「ええ、そうですとも。ははは」

「では、千の宙(そら)ですか……?」

「それも違いますよ。ははは……」

「いや~、手強いですね……」

「仕方ありませんね…答えはですね――――――」


父親同士のそんな軽妙な会話が一段落する頃、夜空をずっと見上げていた子どもたち――奏護、千宙、奏音の3人は、すっかり眠そうな目をこすりながらテントのほうへと戻ってきた。

満天の星空の下で聴いたチャイコンの旋律は、少年・奏護の胸にどう響いただろうか。そして、いつも星を見慣れている千宙にはどう聴こえたのか。言葉には出さなくとも、3人はそれぞれの心で、無限に広がる宇宙のロマンを感じ取っていたに違いない。


戻ってきた奏護が、父親に尋ねる。

「お父さん、さっきから何の曲を聞いてたの……?」

「この曲かい? これはね『星の音色』を聞いているんだよ」

「星の音色……?」

「あぁ……。いつかお前も、この曲を自分の手で弾く時が来るかもしれないな」


その傍らで、千宙が静かに夜空を見上げている。

奏音の小さな手をそっと引きながら、奏護と千宙はキャンプサイトの椅子に腰を下ろした。

奏護は手元のカップからカフェオレを一口飲み、千宙は冷たい水を口に含む。心地よい夜風が、火照った頬をそっと撫でていった。


「奏護……お前の音楽への情熱は、お前の物語と共に始まったばかりだ。いつか、自分だけの広大な宇宙を大きく天翔けていけよ……。大切な仲間たちと、そして千宙と一緒にな……」


我が子の小さな背中を見つめながら、父親はそっと我が子の未来を祝福した。

やがて、父親たちも腰を上げる。


「さて、千宙。もう遅いから、そろそろ寝るぞ」

「うん、寝るわ」

「奏護もだ。お前も早くテントに入れ。……ほら、奏音なんてすっかり眠そうじゃないか」

「さぁ、寝ましょ、奏音」

「うん……おやすみ……」


トロンとした目で小さく頷く奏音の手を優しく引きながら、大人たちが子どもたちをそれぞれのテントへと促していく。


――まるで、夜空を飛んでいるかのようだ。


上下も左右もなく、無数の光り輝く星々に囲まれながら、その中をどこまでも飛んでいく。

この広大な宇宙は、すべてをありのままに見せてくれる。

人間の体も、感情も、心さえも、まるでこの宇宙と一体となったかのように――。


人間たちはいつの時代も宇宙に魅了され、宇宙と共に生きてきた。

偉大な宇宙に挑戦し続けてきた人類のその手を、これからの未来の時代で止めてはならないのだ。

その遥か高く――手を伸ばせば届きそうな、けれど、まだ届かないからこそ、人は宇宙に飛び出そうとする。そこに何があるのかを、自分の目で確かめるために。


いつか本当に、自由に宇宙を飛ぶことができたなら、どんなに夢のようなだろう。

あの星一つひとつに惑星の歴史があり、感情があり、そして愛がある。

この宇宙は、きっと愛で溢れているんだ。それを見つけに行く冒険に、いつか飛び出してみたい。

そして、本当の愛を発見できたら――どんなに幸せだろう。

そこへたどり着くまでにどんな冒険が待っているのか、想像するだけで楽しみで仕方がない。


夢がある。それはもしかしたら、子どもらしい、はかない夢かもしれない。

それでも、夢を見ることは誰にも縛られない自由だ。

宇宙だって、見上げさえすれば、いつでも無限の夢を見せてくれるのだから。


宇宙への憧れや名前の由来、そして父親から受け継がれた音楽への情熱が、この少年らしい真っ直ぐな夢へと綺麗に収束していく。

星空の魔法に包まれた長い一日は、こうして静かに幕を閉じていくのだった。



音楽は国境を超える。だが言葉は越えられなかった。

宇宙の星と星をも超え、宇宙の果てまで音色は届くと。人はこれを『星の音色』と呼ぶ。





今回のまとめ


袖ヶ浜に午後に待ち合わせ。その後、輪島大祭に参加する流れ


天富奏士

趣味:自転車ツーリング。能登フィルハーモニー管弦楽団所属


東矢さんお父さん

趣味:天体観測

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