ヴォカリーズ
オリンピックに夢中になっており投稿遅れました。
続きを書きました。どうぞ読んでください
家の中で『ヴォカリーズ』を熱心に練習している奏護の元へ、父親がやってきた。初コンクールのお知らせを手にした父親の気配に気づき、奏護は一旦ヴァイオリンの演奏を止める。
「奏護、このコンクールだ。出るぞ」
「そして……これが終わったら、初コンクールのお祝いで……キャンプに行くぞ!!」
「ひゃっほーーー!」
父親は一人ではしゃぎ、右手を上に突き上げて楽しそうな表情を浮かべている。それもそのはず、父親の趣味といえばキャンプであり、それと自転車ツーリングなのだ。
「やったー、キャンプだ!」
奏護も嬉しそうに飛び上がり、父親に近づいて満面の笑みを見せる。アウトドアは心躍るイベントだが、雨さえ降らなければいいのだがと、当日の天候が気になるところだ。
「どこどこ? 場所はどこ?」
「そうだな、輪島だ。当日は輪島大祭があるから、それにも参加するぞ」
「お祭りだ、お祭り! すごい祭りだぞ」
「どんな祭りなんだよ〜。も〜、楽しみなんだけど!」
「それじゃ、会場でしっかり拍手をもらうために、練習するぞ」
「うん!」
一体、会場にはどんな人たちが集まり、どんな演奏を聴かせてくれるのだろうか。そして、一個人の奏でる音楽を聴くのもまた一つの楽しみである。
父親は、このコンクールを単なる勝負の場ではなく、奏護にとってかけがえのない経験値として積ませたいと願っていた。将来の思い出としていつまでも心に残るような、そんな温かいコンクールにしたいものだ。
そのために、しっかりと練習をしなくてはならない。
奏護が心に抱いた情景やイメージを、そのまま音に乗せて伝えるために――。
・・・
・・
・
コンクール当日。会場には、引き締まった面持ちの10人の子どもヴァイオリニストたちが集まっていた。
奏護もその一人として会場にいる。本日のために新しく買ったスーツに青いネクタイ、そして短パンという姿は、いかにも小学生の男の子らしく可愛らしい。
一人ひとりの顔には緊張の色が色濃く浮かんでいる。初陣となる子どもも少なくないのだろう。みな、どのような練習を重ねてきたのか気になるところだ。
会場の周囲には、同伴が許可された家族や友人たちの姿で溢れかえっている。10人全員の発表を見届ける者もいれば、我が子の演奏が終わるとそそくさと帰路につく者もいるなど、客席の空気はさまざまだった。
そんな中、奏護の出番はなんと「一番」に決まっていた。1週間前に告げられたその順番を知ったとき、さぞ驚いたことだろう。
しかし、どれほど緊張しようとも、弾かないわけにはいかない。
(やばい、緊張する……。松脂をしっかり塗っておこう)
控室にいる奏護は、ヴァイオリンケースから楽器を取り出し、肩当てを装着して再びしまう。そして弓を1本取り出して毛を張り、小箱に入った黒猫のラベルの松脂を丁寧に塗りつけていった。
その手はわずかに震えている。もちろん、過度な緊張によるものだ。
(俺、どんな風に弾くんだろ……)
(ピアニストって誰なんだろう……まあ、いいか)
(まずは、弾く前に頷くんだったよな……?)
(あれ? 準備ができたらすぐにピアノが弾き始めるんだっけ?)
(いや、登壇したら一礼するんだ……そうだ、そうだ)
家の中で飽きるほど練習した『ヴォカリーズ』は、楽譜の端から端まで暗譜して演奏できる。しかし、暗譜かどうかなどどうでもいい。発表会やコンクールにおいて何より大切なのは、一音一音を外さずに弾ききることなのだから。そのため、楽譜を持参するのは当然のことだった。もちろん、暗譜で弾く者もいるだろう。それはそれで素晴らしいことだが。
(少し弾いておこう)
奏護はヴァイオリンを構え、そっと『ヴォカリーズ』の音を鳴らしてみる。
まだビブラートの技術は教わっていないし、できもしない。もちろん、無理をして背伸びをする必要などないのだ。
しばらくすると、廊下から足音が控え室へと近づいてきた。コンコンと軽いノックの音のあと、スタッフと思われる女性が顔を覗かせる。
「失礼します。天富くん、準備をお願いしますね」
「は……はいっ!」
(呼ばれた……もうすぐか……。やばい、張り裂けそう)
(し……心臓の動く音がやけに早い……何でだ……!)
過度な緊張で心臓が高鳴るのを抑えつつ、ヴァイオリンと弓、そして楽譜を手に控え室を出る。その表情に余裕は微塵もない。
舞台袖の幕の横で、奏護は静かに待機する。ホールからは、来場者を迎える拍手の音が聞こえてきた。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます」
「では、第19回小学生ヴァイオリンコンクール初級の部を始めます――」
まだ硬い表情で突っ立っている奏護の隣にやってきたのは、どこかで見たことのある女の子だった。
赤いドレスをまとったその少女は、奏護の顔を見るなり、ハッとした表情を浮かべる。
「あ……あのときの……。この間、急にピアノを弾き出したわよね、あんた」
「え……? 誰だっけ……?」
「覚えてないの!? こないだのコンサートで、うちの隣に来た瞬間に急にピアノを弾き出したじゃないのよ」
半分怒り気味にまくし立てるこの女の子は、まぎれもなく先日の知り合い――いや、名前を知っているはずの相手だった。
「あ、あのときの……!」
「今日はまさか、あんたが相手とはね……」
「え……相手って、なんだか敵みたいな言い方だな……」
「違うわよ、違う意味で敵だけど……まあ、私は呼ばれて来ただけだし。しっかり演奏してよね」
「はぁ……」
司会の言葉に続いて拍手が起こる。会場は6割ほど埋まっている状況で、満席ではない。奏護はそのアナウンスを、緊張で身を引き締めながら大人しく聞いていた。
「1番奏者は小学4年生の天富奏護君です。ピアノ伴奏は東矢千宙ちゃん、同じく4年生です。拍手でお迎えください」
幕の横で、千宙が奏護に声をかけた。
「入るわよ」
「うん……」
緊張の面持ちを隠せない奏護の隣を歩きながら、千宙は内心で呆れつつも考えていた。
会場の聴衆から温かい拍手が送られる。
この会場のどこかに父親、母親、そして妹の奏音も来ているはずだ。しかし、いまは家族を探している余裕などない。自分の演奏に集中するので精一杯だった。
そして、伴奏の千宙がどんな伴奏をしてくれるのか。先ほどの言い方からすると少し恨まれているかもしれないが、この大事な日にわざわざミスをするような真似はしないだろう。いや、そもそも伴奏は賞に関係ない。だから安心して演奏していいのだ。
演奏をする場所に立ち止まり、持っていた楽譜を譜面台に置く。
そして一礼をする二人に、再び客席から拍手が起こった。
千宙が椅子に座り、ピアノを弾き始める。
弦の上に弓を置いてスタンバイした奏護は、最初の一音を弾き出した瞬間、急な緊張のせいか弓が跳ねだした。ブレているとも言える。
(うぅ、やばい、一旦落ち着こう……)
(ここで弓を返したときに落ち着こう。今すぐに落ち着け、自分……!)
とある席に座っている天富家――母親は、ピアニストの少女の顔をどこかで見たような、ないような、少し難しい表情で見つめていた。
演奏は終盤へと差し掛かる。最後の4拍をしっかりと伸ばし、最後の小節に入る。
弓を少し上に上げ、「終わりました」のアピールをする。
この瞬間、奏護の演奏は終わった。あとは結果を待つのみである。
演奏しきった。途中、少しテンポが走り、弓がぶれまくった。しかし、上手か下手かは問題ではない。弾ききったか、途中で止まらなかったかが重要なのだ。
安堵の表情で奏護が一礼をする。すると、客席から温かい拍手が巻き起こった。
後ろの席から千宙も立ち上がり、一緒に一礼する。大量の汗をかいた奏護の姿は、どこか誇らしくかっこよかった。
客席の方で、天富家の3人も割れんばかりの拍手を送る。
千宙と一緒に舞台を降り、下手へと退場していく奏護。次の出場者の準備が進む横を通り抜け、そのまま控室へと戻っていった。
◆◆◆
控室でヴァイオリンケースを開き、使ったヴァイオリンと弓をそっとしまう。
非常に疲れ切った表情で後片付けを済ませ、ケースを手に取ると、ホールに入るために控室から足を踏み出した。
演奏している最中の人間がホールに出入りできないのは、コンクールの厳格な掟だ。つまり、演奏が完全に終わるまで、ここで待機するしかない。
とはいえ、全員が同じ曲を続けて演奏するため、一人あたりの持ち時間はそう長くはない。こうしたコンクール会場の控室周辺には、途中から戻ってきた人のためにホール内の様子を映し出すライブモニターが設置されていることが多い。
ここにもそのモニターがあり、奏護はそこに映る他の参加者の演奏を眺めながら、自分の出番の終わりと次の区切りを少しの間待つことにした。
やがて一人の演奏が終わり、奏護は慌ただしくホールへと向かう。
もちろん、客席で待つ家族のもとへ戻るためだ。次の組の演奏が始まってしまう前に、一刻も早く合流しなければならない。
(あ、いた……!)
客席の方を見渡すと、満面の笑みを浮かべた父親が大きく手を振っているのが見えた。
その温かな姿にほっと胸を撫で下ろしながら、奏護は急ぎ足でその席へと向かい、残るライバルたちの演奏に耳を傾けるべく再び腰を下ろすのだった。
◆◆◆
全ての演奏が終わった。観客はそれぞれの荷物をまとめ、ホール外のホワイエへと出ていく。
これから審査が始まるまでのわずかな間、ホワイエでは知り合い同士が声を掛け合ったり、家族同士で演奏の感想を語り合ったりする姿が見られた。それは緊張から解放されたホッと一息つける時間でありながら、結果を待つ新たな緊張が入り混じる独特のひとときである。この特別な時間も含めて、コンクールの醍醐味といえる。
「よし、行こうか」
父親が家族に声をかけ、母親は荷物をまとめつつ、妹の奏音を優しく抱き上げる。
「あ、母さん、荷物持つよ」
「ありがとね、あなた……」
天富家の一家は揃ってホワイエの空いているスペースへ移動すると、父親は誇らしげな笑みを浮かべて奏護に声をかけた。
「奏護、良い演奏だったじゃないか! ……もっとも、賞の争いとなると厳しいかもしれないが……」
「そうよ、奏護。初めてにしては本当によく頑張ったわ!」
「お父さん、とっても嬉しいぞ! よし、キャンプ決定だーーーー!!」
父親は右手を高々と突き上げ、力強くガッツポーズをした。
「やったーー! キャンプだーー!」
「それでお父さん」
「ん? なんだい?」
「僕……賞、取れそう……?」
キャンプの楽しみよりも、やはり自分の実力がどう評価されたのかが気になって仕方がないらしい。初舞台を最後まで弾ききったとはいえ、誰だって結果は気になるものだ。
もちろん、初演奏で最後まで弾ききったこと自体が素晴らしいし、誰よりも褒めてあげたい。審査員がどう評価してくれるか、これからの発表が楽しみではある。
「お父さんの中では、奏護が最優秀賞だ! はっはっはーー!」
父親は奏護を見て笑顔で答えた。少し答え方を濁した言い方だが、問題ない。
もちろん賞が取れる可能性もゼロではないが、取れない可能性のほうがはるかに高い。なにせ父親自身もヴァイオリン奏者なのだから、そのあたりの現実味はよく分かっている。奏護の演奏を聴けただけでも、父親にとっては十分すぎるほど幸せな気分だった。
だがしかし。
「うん、分かったからさ……僕、賞取れそう?」
父親が明言を避けるのが気に食わないのか、奏護はもう一度同じ質問をぶつけた。
もちろん父親が賞を決めるわけではない。だが、今の自分の実力がどれほど通用したのか、どうしても知りたいのだ。
「賞か……お父さんが決めるわけじゃないからな。しいて言うならば……奏護は、賞を取れると思うぞ――多分な……」
奏護の演奏を思い返し、父親は冷や汗をにじませていた。
「奏護のピンチの次はお父さん最大のピンチだな……」
「やった〜、賞が取れる! これで僕も一人前のヴァイオリニストだ!!」
「いや、奏護……賞を取る取らないにせよ、お前はもう立派なヴァイオリニストだぞ」
「よし、発表を待つか。奏護、トイレに行きたいなら今のうちに行っておきなさい」
「行かない。ここで発表を待ってる」
父親と奏護がそんなやり取りをしていると、母親がふと視線を向けた。
どうやら、壇上に登っていたあの顔立ちの整った女の子が、こちらへ近づいてくるのに気づいたらしい。
「あら、あの子は……奏護のお友達ね!」
母親は女の子を見て、勝手に「奏護のお友達」と断定した。いったい、いつからお友達に認定されたのか――それはもちろん、母親の独断である。
その女の子が、まっすぐこちらへ歩いてくる。
「君は千宙ちゃんね? さっきは奏護の伴奏をしてくれてありがとう」
「あ、はい……今日は呼ばれて仕事しただけなので」
もじもじと答える姿は実に愛らしい。少し大人びた言い回しで礼儀正しく、奏護の母親に返答する。
「あら、なんて立派なお嬢さんなの。うちの奏護も見習わせたいわ」
すると奏護は、近くにやってきた千宙をじっと見据えた。一体何をしに来たというのだろう。
相手だの、別の意味での敵だのと言い合っていた手前、また何か文句を言い出しそうだ。
「なぁ……俺、賞が取れると思うんだ! お前もそう思うだろ!?」
奏護は父親に言われた疑問を、そのまま千宙にもぶつけた。
絶対に賞が取れるに違いないと信じたい奏護は、誰かからの確証が欲しかったのだ。
「あんたじゃ、無理よ」
千宙は、父親が言えなかった本音を一切の容赦なくズバリと言い放った。
あまりの即答に、奏護は絶句する。
「なっ……なんだと……! お前、一緒に演奏した仲だろ! 少しは応援する気にならないのかよ!」
怒り気味に詰め寄る奏護に対し、千宙は涼しい顔で即答する。
「ならないわ」
もはや二人の関係は、音楽仲間というよりすっかり「敵同士」の様相を呈していた。もうすぐ発表が始まるというのに、まったく不穏な空気が漂っている。
もし彼女が良い演奏をしていればまた違ったかもしれないが、先日ピアノをいきなり弾いた一件で反感を買った以上、奏護の演奏がどうあれ彼女の態度は変わらなかったかもしれない。
初めてのコンクールでこんな出会いをするとは、これも何かの運命というものか……。いや、キャンプに行けば関係も回復するかもしれないし、これからの良き伴奏仲間になれる良いきっかけになるはずである
そのとき、足早にこちらへ近づいてくる一人の女性の姿があった。どうやら千宙の母親らしい。この間のコンサート会場でも見かけた顔だ。
「すみませーーん!」
娘同士の言い合いの空気を察知したのか、千宙の母親が慌てて駆け寄ってきた。
「うちの千宙が、また何か失礼なことを……!」
「いえいえ、そんなことありませんよ! 先日も奏護がご迷惑をおかけしたようですし、うふふ……」
「あら、この間のコンサートでお会いしましたわよね……おほほほ! でも良い演奏でしたわよ、お宅のお坊ちゃん」
「あらやだ、まだまだ練習不足で……おほほほ」
すっかり意気投合し、和やかに世間話を始める母親たち。
父親にとって、これはまたとない絶好のチャンスだった。天富家と東矢家の合同キャンプが実現すれば、どれほど素晴らしいことか。
「あの、お母さん」
「あら、何かしら?」
「実は今度、家族でキャンプに行くのですが……よろしければご一緒にいかがですか? もちろん、うちの奏護の伴奏をしてくれたお礼も兼ねて……!」
父親が切り出すと、続けて子供たちに聞こえないよう小声で付け加えた。
「なんだか二人とも仲が悪そうですし、一緒にキャンプに行けばきっと仲良くなると思うんです。それに、ちょうど輪島大祭もありますし!」
何も隠す必要はない。もしかするとこれで絆が深まるかもしれないし、何よりお互いの家族にとって最高の思い出になるはずだ。
「あら、いいわよ! うちのパパも誘ったら喜ぶかしら?」
「ええ、もちろん大歓迎です! ぜひご一緒に行きましょう!」
ウキウキ気分で即答する父親の横で、東矢の母親は自分の娘に視線を投げた。
「千宙、あなたもキャンプ行きたいでしょ?」
「いや、別に……」
「そう、分かったわ!」
再び前を向き、何事もなかったかのように会話を続行しようとする母親。
千宙の「いや、別に」という反応からして、どう考えても行きたくない気持ちが滲み出ているのだが……。
「――というわけで、千宙もぜひ行きたいそうですので、よろしくお願いしますね!」
「え……? お母さん聞いてた……!?」
「うふふふ」
「それでは、詳しい日程はあとでメールでお送りしますね。連絡先を交換しましょう!」
子どもたちの「賞が取れる・取れない」の口論が続くなか、親同士の勢いは止まらず、気づけば「合同キャンプ」の開催がトントン拍子に決定してしまった。もちろん、まだ幼い妹の奏音だってお留守番などさせるわけにはいかないので、全員参加が前提だ。
大自然の中で繰り広げられるキャンプでは、いったいどんなハプニングが起きるのか。そして、この二人がどんな会話を交わし、どんな思い出を作っていくのか――楽しみは尽きない。
そのとき、スーツ姿の男性スタッフが何人かエントランスに現れた。
どうやら、いよいよ審査結果の発表が始まるようだ。
ざわついていた周囲の音が、次第に静まり返っていく。
「――お待たせいたしました。これより、表彰式を行います」
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