天使と悪魔のコンサート
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会場内はすでに埋め尽くされ、開演を待ちわびる観客たちの熱気と熱いざわめきで満ちていた。
人々がここに集った目的はただ一つ――話題の二人による、奇跡の共演を目撃するためだ。
「あの歌姫と『悪魔』が共演するらしいぞ」
「今日こそ、あの男が本当に悪魔かどうか暴いてやる」
「演奏中、本当に地に足が着いているかどうか、見ものだな」
「私は歌姫様の歌声を聴きに来たのよ。素晴らしい歌声を楽しみたいわ」
客席のそこかしこから、期待と疑心暗鬼が交錯する噂話が囁かれていた。
開演を待つ独特の緊張感がホール全体を押し包み、誰もがこれから始まる演奏がどのようなものになるのか、固唾をのんで見守っている。
あるいは今日この場所で、音楽史の歴史的な一ページが刻まれることになるのかもしれない――。
そうこうしているうちに、いよいよ開演の時刻が訪れた。
ステージ脇の袖から、まずはニコロが凛とした佇まいで姿を現した。
続いて、可憐で優美なドレスに身を包んだ歌姫が舞台中央へと進み出る。
悪魔の噂があろうと、相手が誰であとうと、舞台に立つ演奏家を拍手で迎えるのが客席の礼儀だ。割れけんばかりの盛大な拍手がホール全体に響き渡り、二人を包み込んだ。
やがて拍手が引き、静寂がステージを支配する。
深く一息をつき、ニコロが弓を滑らせると同時に演奏が始まった。
プログラムは、ニコロが全霊を注いで書き下ろした自作曲を中心に、滞りなく進められていく。
――そして、すべての曲目が演奏し終えた時。
ホールを包んでいたのは、あまりにも圧倒的な狂乱と感動の渦だった。
歌姫が解き放つ神聖な歌声に胸を打たれた者たちは次々と涙を流し、その神々しい響きに魂を揺さぶられて息を呑み、その場で失神する者まで続出したのだ。
『天使の歌声』と『悪魔のヴァイオリン』――。
誰もが息をのむ異例の話題作となったこのデュオだが、まさかこれほどまでに完璧で、人々の魂を激震させるコンサートになるとは、当のニコロと歌姫自身すら予期していなかったに違いないのだった――。
・・・
・・
・
コンサートの熱気がまだ冷めやらぬ舞台裏。二人は他の共演者たちと深く握手を交わし、楽屋へと戻った。
無事に大役をやり遂げたという深い達成感が全身を包み込み、自然とお互いを見つめ合っては晴れやかな笑顔をこぼす。
演奏を終えたニコロと歌姫は楽屋を出て、余韻に浸りながら帰路につこうとする観客たちへ丁寧にお辞儀をし、言葉を交わした。
「本当に素晴らしい演奏だったよ!」
「これほど感動的なコンサートは生まれて初めてだ」
「ぜひまた、お二人の音色を聴かせてほしい!」
口々に投げかけられる惜しみない称賛と、あたたかな声援。二人にとって何よりのご褒美だった。
そんな人だかりを割って、ふと一人の異質な人物が歩み寄ってきた。
頭には高いシルクハットをかぶり、手には装飾の施されたステッキ。仕立ての良いスーツの上に重厚なインパネスコートを羽織ったその姿は、周囲の客たちの装いから見ても明らかに一際異彩を放っている。
その男は、顔いっぱいに貼ったような笑みを浮かべながら、どこか芝居がかった語り口で声をかけてきた。
「いやぁ~、お二人の演奏、実に!実に!素晴らしかったデス。ぜひ今度また、私にも聴かせて下サイ!」
うさんくさいほどの笑顔と、独特な節回しのカタカナ交じりの話し方。一見すると商談にでも訪れた営業マンのようにも見えるが、その派手な身なりと佇まいには、只者ではない一癖も二癖もある雰囲気が漂っていた。
「あ……はい。頑張ります、ありがとうございます」
突如現れた奇妙な紳士に少し圧倒されつつも、ニコロはそう言って頭を下げ、礼を返したのだった――。
やがて観客たちが余韻に浸りながら会場を後にした頃、二人もまた宿舎のホテルへと向かうため馬車に乗り込んだ。
ゆらゆらと揺れる車内の中、二人は今日という素晴らしい一日を振り返り、笑い合っていた。
「ねえ、あのお客様……また倒れてしまわれていたわ」
「ははは、あの方はしょっちゅう倒れているのか……?」
「ふふっ。でも、オーケストラの皆さんも素晴らしい演奏だったわね」
「ああ、本当にね。でもそれを言うなら、君の歌声の方がずっと美しかったよ」
「まあ……それを言ったら、あなたのヴァイオリンこそ至高でしたわ」
互いの健闘を称え合う温かな会話が途切れた頃、歌姫はふと思い出したように自分の手元へ視線を落とした。そこには、大事そうに抱えられていたひとつの重厚なケースがあった。
「そういえば……舞台が終わったら渡したいものがある、と言いましたわよね」
「そうだったね。……一体何だろう、ずっと楽しみにしていたんだ」
ニコロが少年のように目を輝かせて待っていると、歌姫はケースを開き、中に収められていた一挺のヴァイオリンをそっと取り出した。
「こちらを……あなたに受け取っていただきたいのです」
気品ある木目と荘厳な佇まいを纏った美しい楽器。ニコロはその息をのむほどの名器に魅せられながら、ふとずっと気になっていた疑問を口にした。
「これは……素晴らしいな。……そういえば、今まで恥ずかしながら聞いていなかったね。君の名前は何というんだい?」
「イル・カノーネですわ」
澄ました顔で歌姫が告げた名に、ニコロは思わず目を丸くした。
「え……? いや、僕が聞いているのは君のお名前だよ?」
「私に、ですか……!?」
歌姫はハッとしたように両手を口元に当てた。
「あ……申し訳ありません! てっきり、このヴァイオリンの名前をお尋ねになったのだと思ってしまって……」
「っはっはっは! なんだ、そういうことかい!」
「だって……ヴァイオリンも生きておりますでしょう? だから、真っ先に彼の名前をお知りになりたいのかと……」
赤面しながら縮こまる歌姫のお茶目な勘違いに、ニコロは腹を抱えて声をあげて笑った。
「いやあ……それは一本取られたな。実に君らしいよ」
ニコロの楽しそうな笑顔を見て、歌姫もホッとしたように愛らしい微笑みを浮かべた。
「……ふふ。私自身の名前は、今夜……これから夜空を見に行った時にでもお教えしますわ」
そう語りかける彼女の笑顔は、あまりにも尊く、神々しかった。
まるで暗闇の中に身を置く悪魔の前に、そっと舞い降りてきた本物の天使のように――。
「私はいつでも、どこに居ても……あなたの演奏を応援いたしておりますわ」
「あぁ……ありがとう」
「あの……今夜、星空を見上げたら……お話ししたいことがあるのですが」
車内のほの暗がりの中、歌姫が少し照れくさそうに、けれど意を決したように切り出した。
「それは……」
ニコロが問い返そうとした、まさにその時――。
ヒヒィーンッ!と馬がけたたましい悲鳴を上げ、激しい衝撃と共に馬車が不自然に急停車した。
二人同時に息を呑む。一体何が起きたのか確認するため、ニコロは馬車の扉を開けて外へと足を踏み出した。
だが、ドアを開けた彼の眼前に立ち塞がっていたのは――あの司祭だった。
馬車を無理やり強行停止させた犯人は、間違いなくこの男だった。
「……『悪魔』が『天使』とアンサンブル、か」
司祭は冷酷な眼差しでニコロを見下ろし、低く吐き捨てる。
「お前……急に何がしたいんだ!?」
ニコロの激しい問いかけにも、司祭は不気味な静寂を保ったまま固く口を閉ざしている。
「黙っていないで答えろ! 俺に何の用があるんだ!?」
ニコロが司祭との押し問答に気を取られていた、まさにその時――。
馬車の死角となる背後の暗がりから、一人の男が殺気を孕んだ足音を立てて猛然と迫っていた。司祭と対峙しているニコロは、後ろから近づくその凶行の気配にまったく気づいていない。
だが、馬車の中からその光景を目撃した歌姫の視界に、疾走してくる男の手元で鈍く光る刃物が飛び込んできた。
次の瞬間、彼女の身体は思考よりも早く動いていた。
「ニコロさん……っ!」
ドレスの裾を翻し、咄嗟に馬車から飛び降りる。
ニコロの背中を庇うように割り込んだ歌姫の身体を、男が振り下ろした鋭い刃が深く貫いた。
「……え……!?」
背後の不穏な気配と衝撃に、ニコロがハッと振り向く。
その瞬間から、世界のすべての時間が不気味なほど緩やかなスローモーションへと変わった。
「!!!!」
舞い散る血沫。力なく崩れ落ちていく華奢な身体。
ドサリ、と冷たい石畳の上へ倒れ込んだ歌姫は、襲い来る激痛を押し殺し、ただただ愛おしそうにニコロの顔を見つめ、静かな笑みを浮かべていた。
「おい、大丈夫かッ!?」
事態の恐ろしさに息を呑む暇もなく、司祭と刃物を握りしめた男は、夜の闇の中へ脱兎のごとく走り去っていったのだった――。
「おい……ッ!! どこへ行くんだ!? 」
ニコロは力なく倒れ込む歌姫の肩を必死に揺さぶった。溢れ出る血を食い止めようと、溢れる涙も拭わずに手で傷口を強く覆う。
「っぶ……ぐっへ……」
「ああああああっ!!!!」
激しく血を吐き出し、うわ言のように息を漏らす歌姫。彼女の可憐な瞳から、みるみる光が失われていく。
ニコロは彼女を強く抱きしめ、叫ぶように己の想いを叩きつけた。
「俺との約束がまだ残っているだろうッ!? 一緒に星を見るんじゃなかったのか……!? だから頼む、死なないでくれ……ッ! 誰か、医者はいないのか!? 誰か助けてくれええっ!!」
街頭の悲劇を目撃し、遠巻きに佇む十数人の群衆へ向けて、ニコロは喉を引き裂かんばかりに叫んだ。
泣き叫ぶ自分の声が彼女の耳に届いているだろうか。今まで口にできなかった本当の想いをぶつけるように、彼は彼女の小さく冷たくなっていく手を強く握りしめた。
「鳥籠の中にいた私に……あなたは……自由を教えてくださいました……」
か細く、けれど温かな声がニコロの耳に届く。
数週間前、路地裏で鳴り響いたヴァイオリンの音色――型に嵌まらない、どこまでも自由で伸びやかな旋律。
「それだけで……胸がいっぱいになりました……。それだけで……私は、十分なのです……」
「何を言っているんだ! これからだろ!? これから俺と一緒に、もっと自由に生きるんだろ!!」
必死に言葉を重ねながら、ニコロの脳裏に二人で過ごした時間が駆け巡る。パンを夢中で頬張っていた顔、レストランでの語らい、秋の花が咲き誇る公園を無邪気に駆け回っていたあの姿――。
「掛け替えのない……夢のような日々に……私は、満足です……」
「俺はまだ満足してないんだよ! 死ぬな……死なないでくれ……ッ!」
助からないことなど、溢れ出る血の量が一番よく物語っていた。
初めてレストランで互いの夢を語り合ったあの瞬間の眩しさを、忘れることなどできるはずもない。
「あの時語り合った……あなたとの夢……私は忘れません……」
「あぁ……俺だって忘れていない! 忘れるもんか! だから……だから俺と一緒に夢を果たすんだろ!?」
溢れ出る涙で視界が歪む。ニコロは彼女の一言一句を聞き逃すまいと息を詰め、胸へと抱き寄せた。落ちた涙が、彼女の青白い頬を濡らす。
「あなたは……これから……」
「……?」
「夢を……忘れないで……っ」
最後の力を振り絞り、彼女はニコロの瞳をまっすぐに見つめた。
「……生きて……」
酒に溺れ、ギャンブルに身を滅ぼし、不道徳に生きてきた自分の人生。何一つ思い通りにならなかった生の中で、たった一つだけ実を結んだのが、彼女との舞台での共演だった。
最初で最後の公演。そして、最初で最後の愛の告白――。
次の瞬間、ニコロの手の中で、彼女の手からふっと力が抜けた。
ぽたりと、冷たい地面へと手が落ちる。
二度と開くことのない瞳と口元。静まり返る夜の静寂だけが、二人を優しく包み込んでいた。
「あああああああああああああああああああああああッ!!!!」
静寂を引き裂くように、ニコロは慟哭した。
これまで生きてきた中で、一度も見せたことのない激しい涙が溢れ出す。
「星になるなああああああああ!!!! 今すぐに降りてこおおおおおおい!!!!!」
冷たく動かなくなった歌姫の身体を抱きしめ、ニコロは泣き崩れた。
『生きて』――彼女が最後に遺したその言葉の本当の意味。それは、自暴自棄な生き方を改め、命が尽きるその時まで誇り高く生きてほしいという、愛ゆえの願いだった。
見上げる夜空の向こうで、唐突に、ひとつの旋律が爆発するようにニコロの頭の中で鳴り響いた。
――パガニーニ作曲:『ヴァイオリン協奏曲第4番 第2楽章』。
あまりにも切なく、重厚で、悲愴な美しさに満ちた旋律。
「うあぁぁぁぁッ!? 何なんだ……この音楽は……!?? 俺の頭の中で鳴り響く……この旋律は何なんだ……!!??」
音楽家としての本能が、激しい感情の嵐の中で覚醒する。
「これが……! この曲が……君の生きた物語なのか……!???」
悲しみと絶望に叩きのめされながらも、ニコロに課せられた運命は「生きていくこと」だった。彼女が命を賭して遺した願いは、あまりにも重く、酷だった。
手元に残されたのは、彼女からの最初で最後のプレゼント――名器『イル・カノーネ』。
あの日、街の宝石店に寄った際、彼女がニコロのためにひそかに買い求めていたものだということを、ニコロはまだ知らない。彼女はあの時から、自分の命の終わりを予感し、覚悟を決めていたのかもしかもしれない。
残されたのは、あの名器と、二人で音を重ねた楽譜だけ。
かけがえのない愛する人を失い、それでもニコロは未来へと歩み続けなければならない。
どうやって生きていくのか――その答えを、ニコロ自身がこれから見つけ出さなければならないのだ。
どんなに不器用で、ゆっくりであっても。
たとえ生きる理由を見失いそうになろうとも、彼女の遺した旋律を抱えて、歩み続けるために――。
惨劇が起きた馬車の遥か後方――。
建物の影の暗がりに身を潜めるようにして、歌姫の付き人は地べたに座り込み、人目をはばからず泣き崩れていた。
陰から見守っていたわけではない。本当に二人を心から支えるつもりだったのなら、このような破滅の結末を迎える前に協力していたはずだった。
悲鳴を上げ、涙を流して震えるこの従者こそが――この恐ろしい刺殺計画の『発案者』だったのだ。
本来の目的はただ一つ、「悪魔」と称されるニコロの命を絶つこと。
コンサートを終え、二人で馬車に乗り込み帰路につくその隙を突いて襲撃する。それこそが彼の描いた完璧なシナリオだった。
数日前、付き人は密かに司祭のもとを訪れ、その計画を話した。
「悪魔のごときニコロを刺し、捕らわれた天使(歌姫)をあの男の手から解放する」
その甘言に、ニコロを害悪とみなしていた司祭も、狂信的な周囲の者たちも、ことごとく賛同の意を示したのだった。
そして迎えたコンサート当日。
付き人は念入りに二人の帰宅ルートを調べ上げ、街の闇の中に潜む刺客たちを配置した。そこまでは、すべて思い描いた通りの計画だったのだ。
だが――いざ襲撃が実行され、刺客の刃がニコロへ振り下ろされたまさにその瞬間。
ニコロを庇うようにして歌姫が飛び込んできたことだけは、想像すらしていなかった。
あの「天使」が、自らの命を投げ打ってまで「悪魔」を守ろうとするほど、二人の間に深い愛が育まれていたとは――。あまりにも残酷な予想外の現実に、胸を突かれた。
お嬢様を救うための計画は、最悪の形で失敗に終わった。
これまでずっと、お嬢様のためだけにその人生を捧げ、スケジュールを組み、付き従ってきた。
だが、その愛するお嬢様はこの手によって永遠に失われ、付き人としての未来も、生きる意味さえも、すべては夜の闇の中へ消え去ってしまったのだ。
失意のまま自室へと戻り、ニコロは崩れ落ちるようにベッドへ倒れ込んだ。
枕に顔を埋めてもなお、溢れ出る涙は止まりそうにない。
「ごめん……ごめん……っ」
「俺のせいで……こんな恐ろしい目にあわせてしまって……!」
溢れる後悔の渦の中で、ニコロは二人で過ごした愛おしい日々の光景を思い出していた。
街のベンチでパンを割って分け合った時。二人並んで賑やかな街並みを歩いていた時。ふとした拍子に、彼女の華奢な手に触れたことがあった。
恐怖ゆえの震えだったのか、それとも胸の高鳴りによるものだったのかは解らない。だが、あの時彼女の手は確かにかすかに震えていたのだ。
(あの時……優しくその手を掴んで温めてあげられたら、どれほどよかっただろう……)
後悔しても遅すぎる。ニコロが彼女の手を強く握り締めることができたのは、彼女の命が潰えようとするあの最期の瞬間だけだったのだから。
刃に立ち向かい、己の身体を投げ打ってニコロを庇った歌姫の、気高くも勇気ある行動。
もし立場が逆だったらどうしていただろうか――ニコロは自問自答し、そして確信した。自分も迷わず、彼女と同じように命を賭して身体を投げ出していただろうと。
(……俺は……一体、何のために生きているんだ……?)
自分という存在の意義すら見失いそうになる。
ただ彼女を幸せにしてあげたかった。あの息苦しい鳥籠から連れ出し、自由にしてあげたかった。切なる想いが胸をかき乱す。
あの日、レストランで向かい合い、笑い合いながら語り合った二人の大きな夢。
――『世界一のヴァイオリニストになること』。
――『世界一のオペラ歌手になること』。
果てしなく途方もない夢。けれど、二人ならどこまでも高く飛べると信じ、目を輝かせて挑戦を誓い合ったあの熱量。
楽しく、幸せな時間ほど、どうしてこれほど一瞬で過ぎ去ってしまうのだろうか。
ニコロは冷たくなった二人の夢の残骸を抱きしめるように、暗い部屋の中でただ一人、静かに泣き続けのだった――。
◆◆◆
歌姫の葬儀は一週間後に執り行われることになった。ニコロはその日が来るまで、この街のホテルに留まるつもりでいた。
だが、今のニコロは魂が抜け落ちたただの殻だった。生きる気力も、情熱も、すべてが彼女と共に潰えてしまったのだ。
日に日に痩せ細っていくニコロの姿を、ホテルの支配人も心から心配していた。親身になって温かい食事を自室まで運んできてくれるのだが、ニコロはそれに目もくれず、ただただ酒を煽り続ける。
二度と鳴ることのないヴァイオリン。
そしてある夜、ニコロはあの日、舞台の上で二人で奏でた自作曲の楽譜を手に取ると、静かに暖炉の炎の中へと投じた。
ゆらゆらと黒く煤け、灰となって散っていく楽譜――。
歌姫はもういない。あの美しい歌声を失った今、この曲を歌える者など世界中どこを探しても存在しないのだから。
泥酔し、千鳥足のままヴァイオリンケースを抱え、ニコロは再び夜の街の酒場へと足を運んだ。
「なんだ、また来たのかよ……」
店の店員も客たちも、うろつくだけの幽霊を見るような冷ややかな視線を向けてくる。
よろめく足取りで椅子に深く腰掛けたニコロは、目の前の卓にコインを放り投げた。
「……始めるぞ」
酒で濁った瞳のままギャンブルに興じるが、当然のように負けが混んでいく。
「またお前の負けだな。……フッ、だがお前には、そうやって落ちぶれている方が人間らしくてお似合いだぜ」
客たちのあざけり笑う声が耳に届くが、今のニコロには怒る気力すら湧かない。気づけば手持ちのコインはすべて底をついていた。次に負ければ、いよいよ借金を背負うことになる。
「……もう一度だ」
「どうする? またお前の負けだぞ。もう賭ける金もないだろう」
何連敗も重ね、身包み剥がされたニコロの懐には、もう一文の金も残っていなかった。
売れるものなど何一つない――いや、たった一つだけ、手元に残されているものがあった。
「……このヴァイオリンを売る。これでどうだ」
重々しく卓上に叩きつけられたのは、あの日彼女から受け取った名器『イル・カノーネ』だった。
もう、ニコロにとってヴァイオリンなど何の必要もないものだった。音楽も、夢も、誇りさえも、大切な人を失った瞬間にすべて消えてしまったのだ。
「どうだ……? 滅多にお目にかかれない最高級の名器だ。高くつくぞ……」
ニコロにとっての生きがいは、あの歌姫そのものだったのだ。
彼女はこの世を去り、今やニコロの心の中でしか息づいていない。自分はこれから一体どうやって生きていけばいいのか、何を胸に抱いて弓を握ればいいのか……ニコロには、もう何一つ解らなくなっていたのだった――。
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・
歌姫の葬儀当日。冷たい風が吹き抜ける墓地に、ニコロは小さな花束を固く握りしめて立っていた。
ニコロには、どうしても知ることのできなかった真実が一つだけあった。
それは――彼女の本当の名前だ。
星空の下で教わるはずだったその名を聴く前に、彼女はニコロの腕の中で息絶えてしまった。
初めて出会ったあの日、彼女が美しい声で口ずさんでいたのはテレマンの『アリア』だった。だからこそニコロは、届かぬ想いを込めて、心の中で彼女を「アリア」と呼ぶべきなのだろうと考えていた。
周囲には、彼女の死を悼み悲しみに暮れる人々が集まっていた。啜り泣く声が漏れ聞こえるその参列者の群れの中に、あの付き人の姿もあった。泣き崩れるその従者は、自らの仕組んだ陰謀によって主を奪ってしまったという恐ろしい矛盾を抱えたまま、ただ打ちひしがれている。
やがて、彼女を納めた棺が静かに土の中へと下ろされていく。
冷たい土が容赦なく棺を覆っていく光景に、ニコロは正気でいられず、思わず固く目を背けた。胸を刺すような痛みに耐えながら、どうにか墓前に花を手向けると、耐え切れずその場から少し距離を取った。
参列者から離れ、ポツンと佇むニコロ。
すると、その傍らにぬっと影が落ちた。
そこには、どこかで見覚えのある人物が立っていた。
手にステッキを携え、黒いインパネスコートの裾をなびかせ、深々とシルクハットを被った異様な佇まいの人物。その人物もまた、先ほど墓前に花束を手向けていた参列者の一人だった。
帽子を目深にかぶったまま、その人物はニコロの方へと視線を向けると、浮世離れした独特の口調で囁いた。
「少し、耳を貸してくだサイ」
言われるがままにニコロが耳を傾けると、その人物は耳元で恐ろしい「真実」を告げたのだった。
「……そ、それは……本当か……!?」
ニコロの顔から一気に血の気が引き、絶望に支配されていた瞳に激しい動揺と驚きが走る。
「本当ですトモ。私が直々に調べ上げたのですカラ……」
シルクハットの影から、その人物の口元が妖しく歪む。
大切な人を失った葬儀のただ中で、悲劇の裏に潜む暗い真相の糸が、今まさに手繰り寄せられようとしていた――。
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