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消滅の宇宙  作者: 万世 千秋
ニコロの過去
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22/63

自由な演奏

お越しいただき有難うございます。

是非最後までお読みください。


翌朝――。

昨夜は久しぶりにぐっすりと熟睡できたおかげで、ニコロは実に爽やかで心地よい朝を迎えていた。


ベッドから起き上がり、大きく背伸びをする。胸の奥から湧き上がるような嬉しさに、いても立ってもいられず、すぐさま身支度を整えてヴァイオリンを手にとった。


昨日、あの歌姫から贈られた「あなたの演奏、とっても素晴らしかったです」という一言。それが何度も頭の中で甘やかにリフレインし、ニコロの口元を自然とほころばせる。

自然と笑みを浮かべながら奏でる旋律は、いつになく軽やかで温かかった。


ひとしきり演奏を終えると、ニコロは爽やかな外の空気を吸おうと部屋を出て、ホテルの庭園へと足を伸ばした。


日差しが差し込む庭へ出てみると、思わぬ先客の姿があった。

可憐な帽子を深くかぶり、陽だまりの椅子に腰かけて優雅に日向ぼっこをしている女性――あの歌姫だ。


ニコロは胸を高鳴らせ、すかさず彼女のもとへ歩み寄った。


「やぁ……君は、その……昨日、コンサートに来ていたのかい?」


声をかけられた歌姫はハッと振り返った。その瞳には一瞬、隠しきれない喜びの色が浮かぶ。

だが次の瞬間、昨夜お付きの者から「あの男には二度と近づかないように」と強く戒められたことを思い出し、慌てて表情を繕った。


「あら……昨日の……。私はただ、近くの会場を通りかかっただけですわ……」


あからさまに素っ気ない態度。けれど、自分の演奏を聴いてくれたことに変わりはない。ニコロは胸いっぱいの感謝を隠さずに伝えた。


「……そっか。けど、通りかかっただけでも、昨日は俺の演奏を聴いてくれてありがとう」


そして、まっすぐな瞳で彼女を見つめ、ずっと心待ちにしていた言葉を切り出した。


「……どうだい? 俺と一緒に、舞台に立ってくれないか?」


自分の腕は、確実に彼女の心に届いたという手応えがあった。この素晴らしい歌姫と、二人で最高の音を奏でたい――ニコロの胸は希望に満ちていた。


「それは……今度、舞台に――」


歌姫が何かを答えかけた、その時だった。


「お嬢様! こんなところに居られたのですか!」


不意に庭の入口から、怒りと焦りを露わにしたお付きの従者が踏み込んできた。


「レッスンのお時間です。さぁ、まいりましょう」


「……そうですか。では私はこれにて。お邪魔いたしましたわ」


従者は歌姫の腕を掴み、半ば強引にニコロから引き離すようにして去っていく。


「あぁ……そうですか……」


伸ばしかけた手を静かに下ろし、ニコロは遠ざかっていく二人の後姿を、ただ悲しげな目で見送るしかなかった――。


一度自室へと戻り、ニコロは出かけるための支度を整えた。


これからどこへ向かうのか――。

それを知っているのは、通り過ぎる気まぐれな風くらいのものだろう。もっとも、大層な目的地があるわけでもない。ただの気晴らしの散歩だ。


街の近所を当てどもなく散策すれば、少しはこの重苦しい気分も晴れるだろうか。

これからの演奏会の予定を整理し、頭の中で新しい曲の構想でも練りながら歩いてみよう。歩調を緩めて街を巡っていれば、ふとした拍子に良い閃きが降りてくることもある。あるいは……思いがけない良い出会いがあるかもしれない。


どんな時でも即興で音を奏でられるよう、ニコロは愛器であるヴァイオリンをケースに収め、しっかりと肩に担いで部屋を後にしたのだった――。


・・・


・・


・

街を歩く途中、香ばしい匂いに惹かれて立ち寄ったパン屋で、ニコロは焼き立てのパンを買い求めた。


近くにあった街頭のベンチに腰を下ろし、一口頬張る。口いっぱいに広がる小麦の甘みに、ニコロの顔にも自然と穏やかな笑みがこぼれた。


そうしてのんびりとパンを味わっていた時のことだ。

ふと目の前を、どこかで見たことのある可憐な少女が通りかかった。


――あの歌姫だ。


パチリと目と目が合い、二人は思わず声を掛け合った。


「あら……またお会いしましたわね……」


「あぁ……偶然だね。ここら辺を少し散歩していたんだ」


口いっぱいにパンを詰め込んだまま喋るニコロを見て、歌姫はくすりと微笑んだ。世間が恐れる『悪魔』の面影などどこにもない、どこか無邪気で可愛らしい表情に見えたのだ。


「……お隣、よろしいですか?」


意外な申し出にニコロは一瞬目を丸くしたが、もちろん断るはずもない。


「あぁ、もちろんだとも!」


ニコロが嬉しそうに頷くと、彼女は静かに隣へと腰掛けた。


「このパン、すごく美味しいよ。君も食べるかい?」


ニコロは手にしていたパンを半分に割り、彼女へと差し出した。

歌姫が差し出した小さな手。ピアニストやヴァイオリニストのような筋肉のついた手ではない、守ってあげたくなるような、華奢で可愛らしい手だった。


「……はい、いただきます」


ほんのりと頬を緩ませ、彼女は小さな口でパンを一口かじった。

そして「とても美味しいです」と囁いた次の瞬間――。


彼女は周囲の目も忘れたように、勢いよくパンを口へと運んで食べ始めたのだ。


「えっ……!?」


先ほどまでの優雅で可憐な佇まいからは想像もつかない見事な食べっぷりに、ニコロは圧倒されてしまった。この歌姫は、普段まともな食事を与えられているのだろうかと本気で心配になるほどだ。


「つ、通りかかったかい? そんなに慌てて食べたら喉に詰まらせるよ」


「……んぐっ、ふ……っ」


ニコロの心配の声を小耳に挟みつつも、彼女は夢中でパンを頬張り続ける。よほどこのパンが美味しかったのか、あるいは相当にお腹が空いていたのだろう。


「君は……普段、どんな生活をしているんだい?」


ニコロが尋ねると、彼女は最後のパンを呑み込み、少しだけ寂しそうに目を伏せた。


「私は……お付きの者がすべてを管理しておりますので……」


名声あふれる歌姫であるがゆえに、彼女の日常は分刻みで徹底的に管理されていた。外に出ることも滅多に許されず、定められた時間通りにレッスンを受け、食事を摂り、眠りにつく。ただそれだけの繰り返し。


(そんな不自由な彼女が、なぜ今こうして一人で外出しているんだ……?)


ふと疑問が浮かぶが、ニコロは察した。――会いたい人が、いたからなのかもしれないと。


「そうか……。それは、あまりにも自由がないな」


ニコロはまっすぐに彼女の瞳を見つめ、静かに、けれど力強く語りかけた。


「……俺が、その不自由から君を解放してあげるよ」


その言葉は、歌姫の心の奥底に抱えていた闇を優しく照らし出す、まるで天使の囁きのように響いた。世間から『悪魔』と罵られる男が、この瞬間、彼女にとっては何よりも救いとなる天使に見えたのだ。


「ですが……私にはレッスンがありますし、お付きの者も……」


歌姫は戸惑い、少しだけ躊躇うような声を漏らした。次の演奏会に向け、彼女にはこなさなければならない義務とレッスンがある。


「だったら、一緒に練習をするのはどうだい?」


「え……?」


「そうすれば、少しは自由になれると思うんだ。そして……二人で一緒に舞台に立てたら、最高じゃないか」


どこまでも気ままで、囚われない発言。この提案に、歌姫は動揺するどころか、(やっぱり、この人はそう言って誘ってくるのだわ)と胸の奥で納得したかのようだった。


「……でしたら」


歌姫は意を決したように顔を上げ、ニコロをまっすぐに見つめ返した。


「あなたの実力……もう一度、この目で見せていただけますか?」


その一言に、ニコロの胸が高鳴った。答えは最初から決まっている。

ニコロは足元に置かれていたヴァイオリンケースを引き寄せ、愛器を手に持ち、その場で弓を構えようとした。


「えっ……こ、この場でなくても……!?」


慌てる歌姫に対し、ニコロは悪戯っぽく不敵に笑ってみせた。


「君が『見たい』と言ったんだ、有言実行さ!」


「ですが、こんな街中で……」


「これが俺の演奏の姿で……これが、俺の生き方なんだよ」


管理された鳥籠の中で生きてきた歌姫と、風のようにどこまでも自由な演奏家。

正反対の孤独を抱えてきた二人がここで出会ったのは、あまりにも美しい運命だったのかもしれない。


どちらの生き方が正しいなどと決める必要はない。ただ、一つだけ確かなことは――音楽だけは、誰にとってもどこまでも自由であるべきだということ。


ニコロは溢れ出るインスピレーションのままに、たった今胸の中で生まれた新しい旋律を奏でようと、弓を弦へと静かに滑らせた――。


奏でられたのは――パガニーニ作曲『ヴァイオリン協奏曲第1番 第3楽章』。


弾けるようなロンドの旋律が、青空の下へ溢れ出す。

立って伸びやかに弓を振るうニコロの表情には、少年のような無邪気な楽しさが満ちていた。ベンチに腰かけた歌姫は、その圧倒的な音色と彼の楽しげな横顔に吸い寄せられるように見入り、気づけばその唇からこぼれるような笑みが咲いていた。


道行く人々が、次々と足を止める。

不意に始まった極上の即興演奏に引き寄せられ、一人、また一人と足を止め、あっという間にニコロを中心に大きな人だかりが出来上がっていった。


視線を一身に浴びながらも、ニコロはまったく動じない。こうして注目を集めることなど、彼にとっては日常茶飯事だ。誰であろうと、俺の演奏を聴きたい者は聴けばいい。


(……たとえ俺自身が『悪魔』と罵られようとも、俺の奏でる音楽が『天使の旋律』であることくらい、聴かせてわからせてやる……!)


聴衆はこの音に何を感じ、どんな情景を思い浮かべているのだろうか。

そして何より――目の前で瞳を輝かせているこの歌姫は、俺の音楽をどう受け止めてくれているのだろうか。


(この音色を聴いている今、この瞬間だけでも……不自由な鳥籠から抜け出して、自由になってほしい)


(そして……この音色を通して、少しでも俺のことを好きになってほしい……!)


言葉ではうまく伝えられない不器用な想いのすべてを、ニコロはヴァイオリンの弦へと叩きつける。

二人の頭上に広がる空へ、街の喧騒を塗り替えるように、どこまでも美しく自由な音色がどこまでも高く響き渡っていった――。


・・・


・・


・



まずは一軒の服飾店へ。

ズラリと並べられた色とりどりの衣装を手に取り、「どれが一番お似合いかしら」「いや、こちらのドレスも捨てがたいな」と互いにあてがい合い、子供のように無邪気にはしゃぎ合う。


続いて足を踏み入れたのは、高価な装飾品が飾られた宝石店だった。

ガラスケースの中に整然と輝く、繊細な首飾りや指輪。可憐な彼女が、いつかこうした光り輝く宝石で身を着飾る日を思い描きながら、二人は静かにその美しさに見惚れていた。


やがて正午を過ぎ、空腹を覚えた二人は近くのレストランへと入った。

テーブルを挟んで向かい合い、それぞれが注文した料理が運ばれてくると、尽きることのない会話と共に笑顔があふれ出す。お互いの皿から料理を少しずつ切り分け、「それじゃあ、一口味見させてくれ」「あら、こちらも美味しくってよ」と互いに食べさせ合う光景は、どこから見ても仲睦まじい恋人たちの姿そのものだった。


昼食の途中、ニコロはふと思い立ったように切り出した。


「それじゃ……今度は二人で、一緒に星を見に行かないかい?」


この不自由な鳥籠の中にいる歌姫に、本物の「夜空の自由」を感じてほしい。ニコロはそんな想いを込めて問いかけた。


「急に、どうされたのですか?」


「いやなに、俺は散歩が好きだから、夜の散歩のついでさ。……ただ、君と一緒に夜空を仰いで、星がどれほど自由に輝いているのかを教えてあげたくてね。なぜ星であれほどずっと光り続けていられるのか……そう、まるで今の君のように」


その言葉に、歌姫はほんの少しだけ寂しげな陰りを瞳に宿し、ぽつりと呟いた。


「……星は動くこともできませんし、決して自由ではありませんわ。それに……人は死んだら、星になるそうですから」


どこか儚く、自らの死すら予感させるようなその言葉。ニコロは大声で笑うでもなく、呆れるでもなく、ただ彼女にだけ聞こえるような優しく穏やかな微笑みを浮かべた。


「はは……あぁ~なるほど、そんな都市伝説もあったね」


(君のように、どんなに暗い夜の中でも美しく光り続けている星を俺は見つけたんだ……本当は、そう伝えたかったのかもしれない)


ニコロは彼女の瞳をまっすぐに見つめ、約束の言葉を提示した。


「じゃあ……今度の舞台が終わった次の日。一緒に夜空を見よう。それでどうだい?」


歌姫の表情からふっと陰りが消え、パッと華やかな笑顔が咲いた。


「……はい」


こうして賑やかな昼食のさなか、密やかな約束が交わされた。

二人の共演、そして終演後の星空デート――どちらも二人の間で確かな約束となったのだ。


◇


食後、二人がやってきたのは、鮮やかなチェローシア(ケイトウ)の花々が咲き誇る秋の公園だった。

見渡す限りの赤や紫の花弁が、秋の柔らかな日差しを受けて鮮やかに揺れている。


歌姫は公園の中を駆け回るようにして、色とりどりの花々を愛おしそうに見つめて回った。


自然とは、まさに自由そのものだ。

道端に咲く植物も、命を繋ぐ食べ物も、そして空気を震わせる音楽も――すべてはどこまでも自由なのだ。


自由に生き、自由に枯れていく植物のように、音楽もまた奏でられたその一瞬だけを生き、次の瞬間には静かに消えていく。だからこそ、その儚い一瞬の輝きを、心の中に大切に留めておかなければならない。


(この一瞬を……この自由な音色を……忘れないように、心へ刻み込むんだ……)


これまで彼女は、決して自由ではなかった。

けれど――今日というこの一日だけは、間違いなく彼女だけの自由だった。


(……いいや。『今日だけ』なんかじゃない。これからの君は……いつだって自由なんだ)


ニコロは、秋風の中で弾むように咲く花々と彼女の笑顔を胸に刻みつけるように、温かな眼差しで見つめ続けていたのだった――。


◆◆◆

二人はホテルへと戻ってきた。

ニコロは早速ホテルの支配人に声をかけ、伴奏のできるピアニストがいるか尋ねてみた。幸いにも「おります」との返答を得られたため、次の演奏会に向けて用意されていたホテルの練習室へと案内してもらい、そちらへ来てもらうよう手配を頼んだのだ。


やがて練習室のドアが開き、支配人と共にお付きの従者が足早に入ってきた。


「お嬢様! どちらへ行かれていたのですか……!」


問いかけようとした瞬間、従者の視線が歌姫の隣に立つニコロを捉えた。その顔が露骨に歪む。


「お嬢様……あれほどあの男には近づくなと――」


「いいえ、もう決めましたわ。私、この方と一緒に練習いたします」


歌姫の言葉には、迷いのない確かな強さが宿っていた。


「い、一緒に練習……!?」


思いもよらない宣言に、従者は呆然と呟いた。一体何のために悪名高いヴァイオリニストと合わせるというのか。舞台に立つための気まぐれな余興とでもいうのだろうか。


「ええ。練習を通して、私の歌声を彼に認めていただくのです」


「ダメです、お嬢様! あの男は世間から『悪――』」


従者は慌てて咎めようとしたが、歌姫はそれを毅然とした眼差しで制し、胸に秘めた切なる思いをまっすぐにぶつけた。


「もう決めたのです! 私は彼のヴァイオリンを聴きました。あのどこまでも自由な音色と、魂を揺さぶる演奏を……。この練習をやり遂げることが、これからの私の音楽活動において、何よりの糧になると確信しております!」


傍らでヴァイオリンの調律を終えたニコロは、静かにそのやり取りを見守っていた。

彼と一緒に練習できる僅かな時間。そしてその集大成となる舞台への挑戦――。己の歌声と彼のヴァイオリンが一つに重なり合った時、どれほどの感動が生まれるか。歌姫の胸には確かな情熱が燃え盛っていたのだ。


「……亡きお父様のためにも、私は音楽を心から愛しています。だからこそ……音楽はどこまでも自由でなければならないのです!」


亡き父の名を引き合いに出された従者は、それ以上言葉を続けることができず、悔しそうに唇を噛みしめた。


「……左様ですか。では、もうお好きになさってください……」


冷たく言い捨てると、従者は背を向けて足早に部屋を去っていった。

だが、扉を閉める直前、彼がニコロに向けた眼光には、あからさまな憎悪と、何か恐ろしい罠を企んでいるような不穏な影が宿っていた――。


「……さて。取り込み口も片付いたことだし、そろそろ始めようか」


ニコロが苦笑交じりにヴァイオリンを構えると、歌姫も小さく頷いた。


「……はい!」


二人は楽譜を開き、互いの呼吸を確かめ合う。

一緒にやってきたホテルの支配人も楽譜を受け取ると、静かにピアノの前に腰掛け、鍵盤へと優しく手を置いたのだった――。

ふと見れば、部屋の机の端に一枚の古びた肖像写真が飾られていた。

かつて歌姫が語っていた、亡き父親の写真だろう。練習の合間の短い休憩時間、ニコロはそっと写真に視線を落とし、彼女へ声をかけた。


「あの人は……」


「……私のお父様ですわ」


写真を見つめる歌姫の瞳に、愛おしそうな色が宿る。


「お父様も生前、よく夜空を見上げながら作曲をしておりました。『人は死んだら星になるんだ。だから私は星を見上げ、先人たちが紡いできた物語を読み取って音楽に仕立て上げる。後世にその人の生きた証を残すためにな』……そう、いつも微笑みながら語ってくれました」


「……なるほど。だから君は……星を見上げることに、少し戸惑っていたんだね」


「はい。星を見上げると、どうしてもお父様のその言葉を思い出してしまうのです。きっと、あの見上げる星空のどこかで、お父様が私を見守ってくださっているのだと……」


しん……と静まり返る室内。

ニコロはしばらく言葉を飲み込み、写真の中の男と歌姫を交互に見つめた。そして、包み込むような優しい笑顔を浮かべる。


「……だったら、なおさらだ。今度の舞台で君がどれほど成長したか、お父様に見せてあげなくちゃな」


「……! はい……っ!」


「よし、そうと決まれば練習再開だ!」


「はい!」


◇


それからの日々は、まさに音楽に没頭する怒涛の毎日だった。

音を合わせ、休憩を挟んではまた弓を握り、声を張る。気づけばあっという間に一週間という時が流れていた。


時折様子を見にやってくるお付きの従者も、歌姫の眼差しに宿る退かない決意を感じ取り、それ以上は引き留める言葉すら掛けられずにいた。「頑張って」という励ましの一言すら残さず、静かに去っていくだけだった。


その間、ニコロもただ漫然と練習していたわけではない。次の演奏会に向け、自ら会場の手配を済ませ、街中に宣伝のチラシを撒いて客を呼び込む準備を着々と進めていた。


そして何より――この一週間、ニコロはあれほど溺れていた酒もギャンブルも一切断ち切っていたのだ。


(まあ……本気で音楽に向き合うなら当たり前、と言いたいところだが……)


ニコロの頭に、練習が始まる直前の歌姫の凛とした顔が思い浮かぶ。


『……次の舞台が終わるまで、お酒もギャンブルも絶対に禁止ですわよ?』


『……は、はい……』


愛器を構える前、彼女に先手を取られて釘を刺され、ニコロはタジタジになって頷くしかなかったのだ。


だが、そんなストイックな日々も、彼女と過ごす時間があまりにも愛おしく、楽しかったおかげで瞬く間に過ぎ去っていった。互いに汗を拭い、笑顔で見つめ合う。


「……ふふ、今度の舞台が無事に終わりましたら、あなたにお渡ししたいものがありますの」


「おや、なんだろうな。楽しみにさせてもらうよ」


ヴァイオリンとオーケストラ、そして圧倒的な声楽――。

これまで誰も耳にしたことのない、前代未聞の奇跡のデュオが、いままさに産声を上げようとしていたのだった――。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

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