出会い
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熱気と酒の不快な臭いが充満する賭博場。
円卓の上には大量のコインとチップ、そして使い古された傷だらけのトランプが乱雑に散らばっていた。
ニコロは手にしていたカードを無造作にディーラーへ放り投げると、十字架を握りしめて自分を鋭く睨みつける男たちの前に立った。
「ハハハハ! 今回こそ勝つのは俺だ」
ニコロはニヤリと笑い、椅子へと深く腰掛けようとする。
「何が勝つだ、この悪魔め……!」
男たちの吐き捨てるような声。
この街には、ニコロを『悪魔』と忌み嫌う者がごまんといた。だからこそ彼らは胸元に十字架を忍ばせ、藁にもすがる思いでこの賭博に挑んでいるのだ。
「悪魔は足が地に着いていない」という他愛もない迷信すら真に受け、ゲームが始まる前から必死に胸の前で十字を切る者までいる始末。ニコロはこの場所で何度も大勝ちし、時に大敗もしてきた。
「さぁ、さっさとカードを配れ」
ニコロが促すと、顔色を失ったディーラーが怯えた手つきで各自にカードを配り始める。
勝負が始まった。
ニコロはカードを弄びながら、椅子の下でそっと両足を床から浮かせてみせた。もちろん、自分を悪魔と恐れる愚か者たちを意地悪くからかうためだ。
(何が悪魔だ、糞くらえ)
心の中で吐き捨て、ニコロは不敵に微笑む。
「おい、さっさと始めるぞ」
対面の男がカードを引いた瞬間、殺気立った目線でニコロを睨みつけてきた。ニコロはそれを鼻で笑い飛ばす。酒に酔い潰れながら行う博打――勝てるかどうかなど、どうでもよかった。
その時だ。ニコロの足元を食い入るように観察していた先ほどの司祭が、弾かれたようにけたたましい悲鳴を上げた!
「こ、こいつは……やっぱり悪魔だ!!」
司祭は震える指でニコロを指さし、狂ったように叫ぶ。
「足が地に着いていない!! みんな見てみろ! テーブルの下を!!」
「なに……!?」
「足が……本当に浮いているぞ!!」
観戦していた客たちが一斉に身を乗り出し、テーブルの下を覗き込んだ。
案の定、ニコロの足は床から浮いていた。
「……ハッ、椅子に座って足を浮かせてるだけだろうが」
ニコロは呆れたように肩をすくめ、自信たっぷりに言葉を続けた。
「それだけで、お前らは俺のことを悪魔だと叫ぶのか……?」
椅子に座って足を浮かせるなど、赤ん坊でもできる他愛もない芸当だ。わざと足を浮かせてみせたら、この愚か者どもはどんな反応をするか試しただけに過ぎない。予想通りの愚行に、ニコロはせせら笑った。
『俺は悪魔じゃない。ただ足を浮かせていただけだ』
そうやって笑い飛ばせば済む話だった。しかし――群衆の狂信は、まともな弁明など聞き入れはしなかった。
「出ていけ!! この悪魔めがっ!!」
「っ――!?」
ドカッ!と鈍い音が響き、飛んできた重い酒瓶がニコロの顔面を直撃した。
衝撃で勢いよく椅子ごと後ろへ倒れ込む。
「い、いや待て……俺が足を浮かせたのは……」
ニコロは床に倒れたまま手をかざし、制止に入ろうとした。だが、興奮状態の男たちにニコロの声など届くはずもない。
「二度と来るな! 悪魔め!」
「神がお前を裁くだろう!!」
言葉を遮るように、立て続けに二本、三本と酒瓶が飛んでくる。床で弾け飛ぶガラス片と酒の飛沫。
「クソッ……!」
ニコロは倒れた弾みに転がってきた酒瓶を一本引っ掴むと、跳ね起きるようにして逃げるように賭博場を飛び出した。
――夜の冷たい風が、火照った顔を叩く。
追手が来ないことを確認すると、ニコロは奪ってきた酒瓶のコルクを歯で引き抜き、そのまま勢いよく喉奥へ流し込んだ。
(何が悪魔だ……俺は悪魔じゃねぇ……人間だ……!)
荒い息を吐きながら、溢れた酒を袖で乱暴に拭う。
「あれは……わざと足を浮かせていただけだ……ヒック……」
酒と打撲で顔を赤く染めたニコロは、惨めな独り言を宵闇に溶かしながら、静まり返った夜の街へと消えて行った――。
その頃のニコロは、荒れた賭博と酒でボロボロになった体を抱え、旅先で身を寄せていたホテルへと這うように戻っていた。
静まり返ったホテルの廊下を、よろめきながら歩いていたその時だ。
どこかの客室から、鈴を転がすような澄んだ歌声が漏れ聞こえてきた。
彼女はホテルで働くかたわら、歌で各地を巡っている旅の歌姫だった。次の公演に向け、自室で静かに発声練習をしていたのだ。
奪ってきた酒瓶を煽り、酒場で叩きつけられた打撲の痛みに耐えながら、ニコロはその場に足を止めた。廊下の壁に背を預け、流れてくる旋律にじっと耳を澄ませる。
荒んだ心に、染み渡るような歌声。
(……なんて美しいオペラだ……)
ヴァイオリンを愛する一人の音楽家として、ニコロの胸は激しく打たれた。
やがて部屋の中からの歌声が途切れ、練習が終わった気配が漂う。
ニコロは感嘆の余韻に浸りながら、手に持った酒瓶を再び傾けた。そして、千鳥足でよろめきながら、己の部屋を目指して静かに歩き出すのだった――。
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翌朝の街道――。
酒気と打撲の痛みを残したまま街を歩いていたニコロは、壁に貼られた一枚の演奏会ポスターに目を留めた。
そこには、あの優美で可憐な歌姫の肖像が描かれていた。
『――歌姫、今宵劇場にて披露す――』
ニコロは足を止め、その張り紙を見つめながら目を細めた。
(この子……昨夜、ホテルの室内で歌っていた……)
日付を確認すると、公演はまさに今日の夜だ。
(……ふん、今日じゃないか)
それを見た瞬間、ニコロの胸にひとつの思いつきが芽生えた。彼は気まぐれに、公演が行われる劇場へと足を向ける。
もちろん、開演まではまだたっぷりと時間があった。彼は急ぐ風もなく気ままに街を歩き、「今日の博打はどこでやるか」と次なる賭博場を探しながら時間を潰した。
やがて開演の刻が近づき、ニコロが目的の劇場へ足を踏み入れれば、場内はすでに押し寄せた観客で溢れかえっていた。集まった者たちは皆、噂の歌姫が紡ぐ歌声を一聴しようと待ちわびている者ばかりだ。
定刻となり、静寂が訪れたステージへ彼女が姿を現した。伴奏を務めるピアニストと共に、静かに舞台の中央へと進み出る。
やがて奏でられたのは、ゲオルク・フィリップ・テレマン作曲――マニフィカト『我が魂は主を崇め』。
重厚なピアノの旋律に乗せて響き渡る彼女の歌声は、瞬く間に劇場全体を包み込み、集まった人々をまるで『聖なる領域』へと誘っていった。
その神聖な響きに息を呑み、感極まって涙を流す者、あまりの神々しさに崩れ落ちる者、果ては魂を揺さぶられて失神する者まで現れる始末だった。
そんな狂乱と感動の渦の中、ニコロはただ一人、言葉を失って呆然と立ち尽くしていた。
音楽家としての血が騒ぎ、全身の毛穴が開くような感動が彼を貫く。
(……やっぱり素晴らしい。これほどの歌を紡ぐ女性には、出会ったことがない……)
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劇場での公演が終わり、興奮冷めやらぬ観客たちが余韻に浸る中、ニコロもまた客席の隅に佇んでいた。
頭の中を占めているのは、先ほど圧倒されたあの歌姫のことだ。
(……会って話がしたい)
楽屋へ向かおうかとも思いたが、ふと勘が働いた。彼女も自分と同じホテルに滞在しているはずだ。今から一足先に会場を出れば、ホテルのエントランスで先回りできるのではないか。
ニコロは人混みを押し分け、急ぎ足で劇場を後にした。
夜の街道を早歩きで抜け、身を寄せるホテルへと戻る。
自分が走って先回りしたのだから先に着いて当然だ――そう自分に言い聞かせつつも、彼女は馬車を使って移動する可能性が高い。あまり期待して待つなと自分を制しながらも、胸の鼓動は早まっていた。
ホテルのロビーで身を潜めるようにして待つことしばらく。
やがて外からガラガラと蹄と車輪の音が聞こえ、馬車が停まる気配がした。
ガチャンと重々しい扉の開く音、そして荷物を運ぶ足音。
ロビーの扉が開くと、ニコロの直感通り、お付きの従者を引き連れたあの歌姫が現れた。
その姿を見た瞬間、ニコロは居ても立ってもいられず、勢い任せに彼女たちへと駆け寄った。
「き、君の歌を聞いたよ! 俺はヴァイオリンを弾いているんだが……今度、俺と一緒に舞台に立ってくれないか!?」
唐突すぎる申し出。当然、歌姫本人はおろか、従者の男が即座に割り込み、片腕を突き出してニコロを遮った。
「……あなたは何者ですか?」
従者は鋭い眼光でニコロを強く睨みつける。
「お嬢様はお疲れなのです。お引き取りを」
冷たく言い放つ従者を背に、歌姫はニコロを一瞥することすらなく、スルリと脇を抜けて自室のある階段へと歩き出した。
「ヴァイオリンを弾いているからといって、あなたのような方と一緒に舞台へ立つ気はありません」
氷のように冷ややかな声だった。彼女は一度もニコロと目を合わせようとはせず、淡々と荷物を手に足を進める。
「いや……そう言わずに……!」
不器用なニコロは思わず手を伸ばし呼び止めようとしたが、彼女は耳すら貸さず、急ぎ足で廊下の奥へと消えて行った。従者がニコロを牽制しながら、その後に続く。
残されたニコロは、遠ざかる二人の後姿をただ茫然と見送るしかなかった。
「……ちぇっ」
虚しさを噛み殺しながら肩を落とし、ニコロもまた己の部屋へとトボトボと歩き出した。
◇
翌朝――。
ニコロが目を覚ますと、ベッドの周囲には数本の空き酒瓶が転がっていた。
昨夜、部屋に戻ってから悔しさと虚しさのあまり、浴びるように酒を煽っていたのだ。
頭痛を押し殺しながら布団から起き上がり、簡単に身支度を整える。
自暴自棄な振る舞いや賭博、女中への声かけなどニコロにとっては気晴らしの遊びに過ぎない。彼がこの街へ来た本来の目的は、あくまでヴァイオリンの演奏活動だ。
世間からはどこへ行っても「悪魔」と蔑まれるが、ひとたび弓を握れば、その腕前は他を画する絶対的な天才のそれであった。
(……あの歌姫も、俺の噂を知っていたのだろうか)
ふと頭をよぎる疑問を振り払うように、ニコロは傍らに置いてあった愛器を持ち上げた。
金を稼がねば生きてはいけない。今は余計なことを考えず、次の演奏会に向けて練習に集中するべきだ。
ニコロがヴァイオリンを構え、自作の楽曲を奏で始めると、部屋中に息を呑むほど美しい旋律が響き渡った。
その頃、廊下を足早に歩く女性の影があった。
用事で部屋を出てトイレへと急いでいた歌姫である。
とある客室の前を通った瞬間、彼女の足がピタリと止まった。
ドアの隙間から漏れ聞こえてくる、神業のようなヴァイオリンの音色――。
(この音色……昨夜、突然「舞台に立とう」などと声をかけてきた、あの男……?)
圧倒的な旋律の美しさに毒気を抜かれた歌姫は、思わず廊下から静かに室内を覗き込んだ。
荒削りでありながら胸を打つ、あまりにも崇高な音楽。
ほんの数十秒、吸い寄せられるようにその音色に耳を傾けていた歌姫だったが、ふと我に返ると、ハッと息を呑んで足早にその場を去って行ったのだった――。
その日の夜も、ニコロは懲りずに酒場へと足を進め、円卓でトランプを弄んでいた。
自身の演奏会を二日後に控えているというのに、練習どころか博打をやめる気など毛頭ない。演奏などそっちのけで、ただ目の前のギャンブルに没頭していた。
「なんだ……今日は俺の負けか……?」
酒で顔を真っ赤に染めたニコロは、不貞腐れたようにカードをテーブルの上に投げ捨てた。周囲の野次馬など意にも介さず、ただ酒を煽りながら負け分を支払う。
一昨日の司祭の姿はなかったが、この日も別の司祭が胸元に十字架を握りしめ、勝負には加わらずニコロを不気味そうに見下ろしていた。
「この悪魔め……今日はお前の負けのようだな」
司祭が蔑むように吐き捨てると、ニコロは腹いせのように手元のグラスを一気に干した。
「ふん……お前が勝つときは、いつも悪魔の匂いがするのだ」
「何だ? 悪魔には匂いでも付いているというのか?」
「なんだ、今日は足が床に着いているじゃないか」
観戦していた客の一人が嘲笑う。もちろん、一昨日のようにわざと足を浮かせてからかうような余裕は、今日のニコロにはなかった。
「悪魔になる日は勝って、人間の日は負けるってわけか」
「ふん、いつか絶対にその正体を暴いてやるからな!」
負けて金を失ったニコロに対し、人々は調子に乗って言葉の刃を浴びせる。だが、ニコロが敗北した今日に限っては、暴動を起こすほどの騒ぎには発展しなかった。
「……悪魔でも……何でも……ない……。俺はただの……ヴァイオリンの……上手い……人間だ……ッ」
ニコロはしゃっくりを噛み殺しながら、荒い息をついて立ち上がった。
「お前ら……ヒック……二日後に……俺のコンサートが……ウグっ……ある……! そんなに……悪魔かどうか確認……したいんなら……観に来るといい……ッ!」
負けて金を奪われた以上、どうにかして客を自分の演奏会へ引っ張り込み、金を稼がねばならない。ニコロは必死の思いでやけ酒を煽りながら、酔いに任せて大声で宣伝を叩きつけた。
そんな騒がしい酒場の片隅――。
群衆の喧騒などどこ吹く風と、一人静かにカウンターでワイングラスを傾ける女性がいた。
ニコロの惨めな叫びを静かに聞き届けていたのは、お付きの者も伴わずに姿を隠してやってきていた、あの歌姫であった。
彼女はニコロがヴァイオリン弾きであることは知っていたものの、街で「悪魔」と蔑まれていることまでは知らなかった。そして、二日後に彼の演奏会が行われるという事実を、彼女はこの時初めて耳にしたのだった。
◇
二日後――。
ニコロのヴァイオリン演奏会が執り行われる会場は、凄まじい熱気と人だかりに包まれていた。
純粋に彼の音楽を求めてやってきた客もいれば、あの日酒場で騒いでいた者たちや司祭のように、「本当に演奏中に足が地に着いているか」を確かめに来た野次馬たちも大勢詰めかけていた。
静寂の中、ステージに立ったニコロが弓を構える。
一曲目に奏でられたのは――パガニーニ作曲『ヴァイオリン協奏曲第4番』。
第1楽章、テンポの速い鮮やかで情熱的なアレグロがホール全体を揺らし、観客の息を呑ませる。続く第2楽章では、切なく儚い悲恋を想起させる悲愴な旋律が胸を締め付け、第3楽章のロンドでは、優雅で華麗な音の粒子が駆け巡った。
第4楽章の余韻が冷めやらぬまま、続けて披露されたのは『ヴァイオリン協奏曲第1番』。
荘厳なソナタ形式で組み上げられた第1楽章から、まるで人間の歌声やアリアを思わせる甘美な第2楽章へ。そしてラストの第3楽章では、ロンド形式による愉快で跳ねるような旋律が縦横無尽に響き渡る。
悪魔の正体を暴こうと疑心暗鬼で押し寄せた群衆も、気づけばその圧巻の神業と音楽の美しさに毒気を抜かれ、ただただ圧倒されて立ち尽くすしかなかった――。
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演奏を終えて楽屋へと戻ったニコロの表情は、どこか冴えなかった。
今日の演奏会も、純粋に彼の音楽を愉しんでくれた客は全体の半数ほど。残りの半分は、「演奏中に本当に足が床に着いているか」をこの目で確かめに来た不躾な野次馬たちだったのだ。
「……はぁ、今日は疲れたな。博打なんぞ打つ気にもならん。ホテルへ戻って、酒でも飲みながら寝るとするか」
客が去り、静まり返った楽屋でポツリと呟くと、ニコロは身支度を整えて会場をあとにした。そのまま身を揉まれるように馬車へと乗り込み、宿泊先のホテルへと向かう。
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ホテルに到着し、馬車を降りて自室のある廊下を歩いていたときのことだ。
曲がり角で、あの歌姫とばったり鉢合わせた。
「……あっ、君は……あの……」
ニコロは思わず足を止め、声をかけた。だが次の瞬間には、(どうせまた冷たく無視されて終わりだろう)と自嘲し、悲しげに目を伏せて自室へ通り過ぎようとする。
その時だった。
ニコロの脇をすり抜けざま、彼女が聞こえるか聞こえないかほどの小さな声で、けれど確かに口走ったのだ。
「……あなたの演奏、とっても素晴らしかったです……っ」
言い終えるや否や、彼女は真っ赤になった顔を伏せ、小走りで廊下の奥へと走り去っていった。
――ガッツポーズ。
ニコロの胸の中で、歓喜の雄叫びが上がった。
世間から『悪魔』と罵られ、忌み嫌われる俺の音楽を、理解し、まっすぐに褒めてくれる人がいる――。
「……えっ!? あ……あ、ありがとう……!」
去っていく彼女の可憐な背中に向け、ニコロは少し照れくさそうな笑顔を浮かべながら声を張った。その感謝の言葉が彼女の耳に届いたかどうかはわからない。
自室に戻ったニコロは、少し浮かれた様子でベッドに腰掛けた。
自分を悪魔扱いすることもなく、ただ純粋に「演奏が素晴らしかった」と認めてもらえた。そのたった一言が、彼の荒んだ心をどれほど救ってくれたことだろう。
(あの反応……今度、一緒に舞台に立とうという俺の言葉も、あながち忘れてはいないのかもしれない……)
密かな期待に胸を膨らませたニコロは、いつものやけ酒のことすら頭から吹き飛び、その夜は穏やかな心地のまま眠りについたのだった。
◆◆◆
「お嬢様、こんな夜遅くに、一体どちらへ行かれていたのですか?」
自分の部屋に入った歌姫を待っていたのは、腕を組んで佇むお付きの従者だった。
「……近くで演奏会がありましたので、そちらへ少し」
心配をかけてしまった自覚はある。歌姫は気まずそうに目を逸らしながら答えた。
だが、従者の鋭い眼光は誤魔化せなかった。
「……あの男のコンサート、ですか?」
ぴったりと言い当てられ、歌姫の肩が跳ねる。彼女は動揺を隠すように、あえて冷ややかに言葉を重ねた。
「……ええ、まあね。ですが、あまり大したことはありませんでしたわ」
本音とは裏腹の冷たい言い訳。だが従者は厳しい表情を崩さなかった。
「お嬢様……あの男は世間から『悪魔』と恐れられている男なのです。金輪際、二度と近づかないとお約束ください」
お付きの者もニコロの不穏な噂を知っているのだ。大切な歌姫に万が一のことがあっては困る。その必死な制止の気持ちは、彼女にも痛いほど分かっていた。
「……そうね。分かりましたわ……」
彼女は胸の奥に芽生えた熱い情熱をぐっと押し殺し、静かに頷いた。その日は言葉少なに、自室でゆっくりと身体を休めるのだった――。
ご感想お待ちしております。




