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消滅の宇宙  作者: 万世 千秋
ルスランとリュドミラ
PR
11/64

魔女の城

お越しいただき有難うございます。

是非最後までお読みいただき、ご感想頂きますと幸いです。


テンゴたち六人が荒野を抜け出た先に広がっていたのは、緑に囲まれた小さな村だった。


だが、そこには人の生活がもたらす温もりが一切感じられない。

暮れなずむ空の下、通りには村人の姿もなく、静まり返った家々がただ不気味に建ち並んでいる。


その村の奥深くには、異質な雰囲気を放つ一つの城がそびえ立っていた。

四隅に聳え立つ黒々とした塔。夕焼けの赤に照らされながらも、その姿は明るさとはほど遠く、むしろ沈みゆく陽の光がかえって不吉な影を際立たせていた。


美しく、静かで、けれどひどく孤立している――どこか、ポツンと取り残された「ひとりぼっちの白鳥」を思わせる城だった。


城壁の周辺には、若い女中たちが数人、あてもなく彷徨うように歩いている。

その存在だけが、人気のない村の中で浮いていた。


そこへ、いくつもの荷物を抱えた旅人が一人、通りかかる。

見慣れぬ風体から、通りすがりの者だと一目で分かった。


旅人が城の近くを横切ったその時、一人の女中がすっと忍び寄り、甘ったるい声をかけた。


「もう……日は遅いですよ……若い旅人よ……楽しい……わたし……たちの御殿に……宿を……おとり……なさい……」


その言葉を聞くや否や、旅人は一切の抵抗を見せることなく足を向けた。

まるで最初からそうするよう運命づけられていたかのように、吸い寄せられるように女中のあとについて城の中へ消えていく。


その横顔を目にしたチヒロは、思わず息をのんだ。


(目が……死んでる……)


生気が全くない。

ただ前だけを見つめるその瞳には、感情のひとかけらも浮かんでいなかった。


「ねぇ……あの女の人たち、何やってるの……?」


チヒロの声には、隠しきれない警戒が混じっていた。


テンゴも苦々しく城を睨みつける。


「不気味な場所だな……。まさか、あの中に姫様が閉じ込められてるなんてことは……」


「……普通じゃないよ、あのお城」


女中たちは若く、一見すれば穏やかな姿をしている。しかし、その立ち振る舞いも、投げかけてくる声も、氷のように冷たかった。客を歓迎しているはずなのに、温もりが微塵も感じられない。


ルスランが絞り出すように呟いた。


「あの城が怪しい……行ってみよう」


その決断に、テンゴたちは思わず顔を見合わせた。


旅人を城へ誘い込み、一体何をしようとしているのか。

単なる親切で宿を提供しているわけではないのは確かだ。あの旅人の意思を失った瞳が、何よりの証拠だった。


ルスランは城を見上げながら、重い声で言葉を重ねる。


「以前から、この付近では旅人が城へ招かれるという不穏な噂があったんだ。だが……城へ足を踏み入れた者がその後どうなったのか、誰も知らない」


「それって……相当ヤバいじゃん」


チヒロが眉をひそめる。


「旅人を集めて、何か恐ろしいことを企んでいるのかもしれない。もしかすると……国を滅ぼすための『軍隊』を作り上げようとしている可能性だってある」


ルスランの推測に、全員の視線が再び城へと向かった。


黒々とした四つの塔。

静まり返った薄暗い村。

そして、言葉巧みに旅人を引きずり込む女中たち。


決定的な証拠はない。しかし、警戒するには十分すぎる歪みがそこにあった。


「軍隊を作るって……あの旅人たちを操って兵士にしてるってこと?」


チヒロの問いに、ルスランは剣の柄へ固く手を添えた。


「分からない。だが、正気ならあんな目になるはずがないんだ……確かめる必要がある」


六人は意を決し、城の正門へと歩みを進めた。


道中、幾人もの女中とすれ違う。

彼女たちは皆、張り付いたような笑みを浮かべ、甘い声で六人を引き留めようと擦り寄ってきた。


「お疲れ……でしょう。どうぞ……城で……お休み……くださいな……」


「温かい……食事も……用意……しておりますよ……」


「今夜は……楽しい……宴が……ございます……」


頭に直接響くような、不自然に途切れ途切れな甘い誘惑。


だが、六人は誰一人として足を止めなかった。


テンゴは女中たちに視線すら向けず、まっすぐ前だけを見据えて歩く。

チヒロもきゅっと口を結び、ルスランの背中にぴったりと続いた。

ピローはフードの奥から鋭い眼光で城内を警戒し、モモはアザラシクッションをぎゅっと強く抱きしめて周囲の気配を探る。

ネルソンはいつでも刃を抜けるよう、静かに柄頭へ手を添えていた。


誘いに乗らないと悟ると、女中たちは表情ひとつ変えぬまま、笑顔のままスッと道の端へ退いた。

その機械的な動作が、かえって異様な恐怖を煽る。


「……無視して大正解だったな」


テンゴが低く呟く。


「うん……あの人たち、顔は笑ってるのに目が全然笑ってないもん……」


チヒロも震える声で返した。


ルスランは振り返ることなく、目の前に立ちはだかる巨大な正門を見据える。


「油断するな。この城の中に、リュドミラ姫に繋がる手がかりがあるはずだ」


城内に足を踏み入れた瞬間、外の静寂を塗り潰すような異様な光景が視界に飛び込んできた。


床には豪華絢爛な赤い絨毯が敷き詰められ、壁際には冷気が漂う噴水から清冽な水が流れている。テーブルのあちこちからは、場を甘やかな香りで満たすピンク色の蒸気が揺らめき立っていた。


広間には、絶えず音楽が鳴り響いている。

一見すると陽気な宴の旋律。しかし、耳を澄ませば音階は微妙に狂い、刺すような不協和音が交ざり込んでいた。それは宴の調べというより、聴く者の正気を少しずつ狂わせていく呪いのような響きだった。


先ほど連れ込まれた旅人も、すでにその狂乱の中にいた。

女中に付き従いおとなしく歩いているが、その瞳はやはり死んだ魚のように濁りきっている。


広間には、膨大な数の男たちが集められていた。

兜を被った武者、埃にまみれた剣を腰に差した傭兵、重厚な鎧を纏った騎士――。

誰もが杯を掲げて酒をあおり、楽しげに笑い転げている。

だが、その顔をよく観察すれば、全員の中身(心)がそっくり抜け落ちたような、空虚な狂気がへばりついていた。


その異様極まる華やかさの中心で、血のように赤いドレスをまとった一人の女中が、ゆっくりと顔を上げた。


まっすぐにルスランと目が合う。


女は、最初から彼らが訪れるのを知っていたかのように、にやりと口元を歪めた。

そして人混みを滑るように擦り抜け、一直線にルスランの前へと歩み寄ってくるのだった。

「いらっしゃいま、ま、ま……せ」


その声はやわらかい。

だが、耳に残る響きはひどく冷たく、どこか壊れたからくりのようだった。


「そんなに……固くなら……ないで……今夜は……どうぞ……楽しんで……いって……くだ、くだ、くだ……ささささいな」


赤いドレスの女は、誘うようにゆっくりと首を傾けた。

柔らかな笑みを浮かべているのに、そこに温かさは一切存在しない。

それはまるで、獲物が飛び込むのを静かに待つ罠が、ひっそりと口を開けた瞬間そのものだった。


その声が耳に滑り込んだ途端、六人は一斉に沈黙した。


まるで、見えない手に直接脳を掴まれ、思考を強制的につなぎ止められたかのようだった。

誰もがその場に立ち尽くし、ぼんやりと広間の眩い灯りを見つめる。


――調べなきゃいけない。

――ここは危険で、怪しい場所だ。


頭の片隅にそんな警鐘が鳴っているはずなのに、それがどうにも言葉や行動に結びつかない。


沈黙は、ほんの数秒のことだった。


「よおおおおし!! 今夜はここでパーティーやああああ!!!」


ネルソンがいきなり両腕を突き上げて叫んだ。


「は!?」

「え!?」


突如として爆発したネルソンの奇行に、テンゴとチヒロが眉をひそめる。


「踊って! 歌って! 飲おおおみまくるぞおおおおお!!!!」


「ちょっと待てネルソン、お前急にどうした!?」


だが、正気を取り戻させようとした矢先、今度は別の仲間まで妙な熱量で叫び始めた。


「みんな! 明日から来年、先月まで踊り狂うぞおおおおおお!?!? 」


「言ってることめちゃくちゃだってば!?」


チヒロが頭を抱えて叫ぶ。

テンゴも顔をしかめ、仲間の肩を揺さぶった。


「おい、しっかりしろ! 姫様はどうするんだよ!?」


すると返ってきたのは、正気を疑うような威勢の良い声だった。


「テンゴ! 姫は去年離婚した! 再来年に助けよう!? 今年の姫ならここにたくさんいるじゃないか!!」


「ルスランまで……っ!?」


チヒロの顔から一気に血の気が引いていく。

さらにモモまでもが、うっとりとした目でテーブルを指さした。


「あ、このジュースおいしそう……」


「うん、飲もう。眠ろう。夢の中へ〜♪」


壊れていく仲間たちのやり取りに、テンゴの背筋を冷や汗が伝う。

おかしい。みんなどうかしている。


そう思った、まさに次の瞬間――。


「おい、チヒロ! お前まで……っ!」


ふっと自分の声が遠のいた。

耳の奥で、広間の音楽が急速に膨れ上がっていく。思考の糸がぶつりと切れ、意識が心地よい虚無へとほどけていく。


「俺も……いや、俺は……俺は……っ!」


最後の抗いとして絞り出そうとした言葉は、無惨にも別の叫びへと上書きされた。


「うひょおおおおおおおおお!! 音楽に情熱があるわけねえええ!?!?」


広間に満ちる音楽は、もはや音ではなく、甘く重い毒霧となって六人の身体へまとわりついていた。意識の深層へと、静かに、けれど確実に浸食していく。


笑っていたはずなのに、足が鉛のように重い。

騒いでいたはずなのに、まぶたが猛烈な睡魔で落ちてくる。

楽しいはずなのに、頭の中の輪郭がすりガラスのようにぼやけていく。


頭上のシャンデリアが歪み、床も、壁も、天井も、夢の底へ沈むように色を失っていく。


「眠……い……」


誰かがそう漏らした。それが自分なのか、仲間なのかすら、もう分からない。


ルスランは何かを叫ぼうとしていた。

テンゴは必死に歯を食いしばっていた。

チヒロはぼやける目を強引にこすっていた。

けれど、その抵抗のすべてが意味を結ばぬまま、深い闇へと落ちていく。


身体から力が抜ける。

思考がほどけていく。

自分たちがここへやってきた理由さえ、甘い霧の彼方へ消え去っていく――。


最後まで抗おうとしたテンゴの視界に最後に映ったのは、赤いドレスの女中の笑みだった。

その微笑みはやさしく、そして寒気がするほど冷たかった。


次の瞬間、六人はひとり残らず、深い眠りへと落ちた。


宴は続く。

無機質な笑い声も、杯の重なる音も、狂った旋律も、そのまま流れ続ける。

けれど、その場で倒れ伏すように眠る六人だけが、世界から切り離されたかのように静まり返っていた。


奏護は、夢の中にいた。


頭上には、満天の星がどこまでも広がっている。

あの夜だ、と彼はすぐに理解した。

しんと静まり返った空気。遠くのラジオから流れる、チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。

やわらかな旋律が、夜の静寂と星空の下に溶けていく。


『――奏護――音楽の情熱は――仲間たちと―――』


父の声だ。

キャンプの夜、焚き火のそばでそんな話をした記憶が蘇る。

そして、闇の向こうから不意に別の声が重なった。


『――だったら見つけてみなよ』


その声に、奏護の胸が跳ねた。

よく知っている声の主――千宙だ。


『――あたしと奏護の約束よ』

『――答えってさ――』


胸の奥深くに沈んでいた記憶の欠片が、鮮やかに浮かび上がる。


(そうだ……千宙と約束したんだ……)


絶対に忘れてはいけない大切な約束を、自分は忘れていた。


(なんだ俺は……。千宙とのあの約束を、忘れていたのか……!?)


だが、その瞬間。


温かな夢の中に、あまりにも場違いなノイズが割り込んできた。


不快なほど冷ややかな旋律。

耳を刺すような、歪んだ不協和音。

星空にも、あの思い出の夜にも決して似つかわしくない、情熱の根底から抜け落ちた醜い音――。


奏護は激しく眉をひそめた。


(なんだ……? この、どこからともなく聴こえてくる音は……。なんでこんな……情熱のない音なんだよ……!?)


その強烈な違和感を引き金に、静かな夢の景色がバリバリと音を立てて亀裂を生み、崩れ始めていく。


どれほど眠っていたのか分からない。

時間の感覚は摩耗し、頭の中にはまだ夢の名残が泥のように貼りついていた。


テンゴが意識を取り戻した瞬間、全身に不気味な感触が走った。


彼は、先ほどの赤いドレスの女と手をつなぎ、広間の中央で操り人形のように踊らされていたのだった――。

「……ここは――」


かすれた声が、テンゴの喉から漏れ出た。

重い足を止め、荒い息を吐きながら周囲を見渡す。


真っ先に探したのは、仲間の姿だった。


「千宙……!? どこだ……!?」


自分でもなぜ、咄嗟に現実の彼女の名を呼んでしまったのか分からない。テンゴはすぐに我に返り、声を張り上げた。


「おい、チヒロ!!」


視線を巡らせると、すぐ近くのソファにチヒロとモモの姿があった。

二人は頭を寄せ合うようにして、深い眠りに落ちている。あまりにも安らかで無防備な寝顔は、こんな異常な状況でなければ愛おしく思えるほどだった。


(……そこか……っ!?)


一瞬、この穏やかな寝顔を護りたい――という思考が脳裏をよぎり、すぐに(いや、起こしに行かなきゃだろ!)と頭を振って焦りを打ち消す。


だが、安堵できたのはほんの一瞬だった。


「あとの三人は……っ!?」


広間の奥に視線を移すと、そこにはネルソン、ピロー、そしてルスランがいた。

三人とも、赤や白の妖艶なドレスを纏った女たちと手を取り合い、狂った旋律に合わせてゆっくりと踊っている。その瞳には一切の生気がなく、まるで糸で操られる不気味な等身大の人形のようだった。


「おい! ルスラン!」


どれだけ叫んでも、ルスランは振り向かない。


「ネルソン! ピロー!」


やはり返事はなく、虚無の笑みを浮かべたまま揺れているだけだ。


テンゴの背筋に、氷のような冷たさが走り抜ける。

このままではまずい。全員が毒されてしまう。


彼は自分に擦り寄っていた女の手を強く振り払い、その身体を力ずくで脇へ弾き飛ばした。

そして、一刻も早くチヒロを起こそうと、 ソファへ向かって足を踏み出す。


「千宙……まずはあいつからだ……っ!」


小さく呟き、チヒロのもとへ走ろうとした――その瞬間。


背後に、鋭い気配が走った。


振り返る猶予すら与えられず、するりと両腕が身体に回る。

女の細くしなやかな腕だった。それなのに、丸太に締め上げられているかのような信じられない怪力だった。


「っっが……!?」


みぞおちを力任せに締め上げられ、テンゴの息が詰まる。

さっきまで一緒に踊っていたドレス姿の女が、背後からがっちりと抱え込み、腕ごと全身を押さえつけてきたのだ。


「な……何なんだ、お前……っ!」


テンゴは歯を食いしばり、必死にもがく。

だが、女の細い腕は鉄の枷のように固定され、びくともしない。


「っ、離せ! こらあッ!」


全身の力を振り絞り、足を踏ん張って振りほどこうとするが、女の拘束は強まる一方だった。


(まずい……! このままじゃ、チヒロのところへ行けない……!)


「ちょ……オイ! 千宙!!」


テンゴは強引に首だけを曲げ、喉が裂けんばかりの声を張り上げた。


「起きろ! 千宙!!」


けれど、チヒロは目を覚まさない。

モモと頭を寄せ合ったまま、すやすやと穏やかな寝息を立てている。そのあまりにも安らかな姿に、テンゴの胸の奥で焦燥感が破裂しそうになった。


「――なぜ、この魔女の城で目覚めた者がいる?」


その声は、広間に響く不快な音楽のすき間を縫うようにして落ちてきた。

氷のように冷たく、広間の空気そのものを押し潰すような重圧を孕んでいる。


テンゴは背後から拘束されたまま、ぎりっと奥歯を噛み鳴らして見上げた。


「誰だ……お前は……!?」


「名乗るつもりはない」


二階の回廊から見下ろしていたのは、兜こそ着けていないものの、重厚な鎧を纏った騎士のような男だった。その眼光には、生きている者を見下す冷徹さだけが宿っている。


「ずっと眠っていればよかったものを」


騎士は不敵な薄笑いを浮かべながら、階段を一段ずつゆっくりと降りてくる。


「そうすれば、夢の中を永遠に幸せにさまよっていられたものをな」


「っくそ……離せよ……ッ!」


テンゴはなおも身をよじって暴れるが、女の腕は食い込み、微動だにしない。


「お前たち六人は、ここで死ぬ」


冷酷な死の宣告。

男は階段を降りきると、倒れ伏し、あるいは操られて踊る仲間たちを冷ややかな目で見下ろしながら、一歩ずつ歩みを進めてきた。


「最後に一つ、聞いておこう」


奏護は拘束されたまま、近づく騎士を強く睨みつける。


「……なぜ目覚めた?」


男の問いに、奏護の息は荒い。

けれど、その瞳に宿る光は少しも曇っていなかった。迷いなく、言い放つ。


「この音楽に……情熱がないからだ!!」


騎士の足が、ピタリと止まった。


「……あぁ? 音楽、だと……?」


男の口元が、わずかに歪む。最初は半ば呆れたように鼻を鳴らした騎士だったが、次の瞬間、その声音には明確な警戒の色が交じり始めた。


「……チッ、気づいたか。この曲に、人を眠らせる魔法がかかっているということに」


奏護はぎりっと歯を食いしばる。


「こんなの音楽なんかじゃない!! なんでお前は平気なんだよ!? なんで眠らない!?」


その問いに、騎士は吐き捨てるように答えた。


「俺は魔女の力を借りている」


そして、腰の剣の柄にゆっくりと手をかけた。


「それに――俺は、音楽なんざ大嫌いだからな」


金属の擦れ合う冷たい音が広間に響き渡る。騎士は刃を少しだけ覗かせながら、拘束されたテンゴの目の前へと、確実に歩み寄っていくのだった。


・・・・・・・


・・・・・


・・・


・・


ルスランは、惨めな悪夢の中にいた。


眩い灯りが輝き、温かな祝福の声が広間に響き渡る。

目の前に広がる婚礼の場は、まさしく幸福そのものだった。


本来なら、その中心でリュドミラ姫の隣に立っているのは、自分のはずだった。


だが、違う。


祭壇の前で姫の手を取り、誇らしげに微笑んでいたのは――騎士ファルラーフだった。


「こんな……こんなの……っ!」


ルスランの声が激しく震える。

目の前の残酷な光景が信じられない。いや、口が裂けても認めたくなかった。


「僕は……僕は……っ!」


固く握りしめた拳が、怒りと屈辱で震える。


「姫と……リュドミラと結婚するのは僕だ!!」


その叫びが響いた途端、会場の祝祭の空気がガラリと変わった。

祝福の拍手は不気味に乱れ、参列者たちの冷ややかな視線が一斉に突き刺さる。幸福に満ちていた空間が、一瞬で歪んだ異彩に染まっていく。


「こんなのは夢だ! ここは夢なんだ!!」


ルスランは必死に叫び続けた。現実を拒絶するように、喉を狂おしく震わせる。


その時、近くのテーブルから重苦しい声が落ちた。

一人の男がゆっくりと立ち上がり、ルスランの行く手を阻むように立ち塞がる。


「落ち着けよ」

「落ち着けって」

「お前じゃ……無理だったんだよ」


ルスランはその男を睨みつけた。


「……ゴリスラヴァ……ッ!」


そこにいたのは、もう一人のライバル騎士、ゴリスラヴァだった。

その瞳は氷のように冷たく、最初から敗者を見下す蔑みに満ちていた。


ルスランは突き進もうとする。だが、ゴリスラヴァはびくともせず立ちはだかった。


「どけッ!」

「無駄だ」

「いい加減、諦めな」


淡々と放たれた一言が、ルスランの胸を深く、残酷にえぐり取る。


「お前が……っ! お前が……っ!」


怒りよりも先に、激しい悔しさが溢れ出した。


悔しい。

悔しい。

死んでも死にきれないほど、悔しい――!


夢の中だというのに、胸を焼き尽くすようなその感情だけはあまりにも本物だった。

屈辱と悔しさが頂点に達し、頭が真っ白になりかけた――まさにその瞬間だった。


『――しょうがない奴じゃな』


頭上から、呆れたような、けれど温かな声が降り注いだ。


その声と同時に、暗い夢の空間に眩い一筋の光が走り抜ける。

誰かが高く掲げた杖。その先端から解き放たれた聖なる光が、歪んだ夢の景色を白く焼き尽くしていく。


ルスランは思わず息をのんだ。


知っている声だ。ついさっきまで共にいたような気もするし、もっとずっと昔から自分を見守ってくれていたような不思議な響き。


(……フィン……!)


白魔術師フィンの声だった。

夢のざわめきの向こうで、ゴリスラヴァが苛立ったように吼える。


「なぜお前は僕の邪魔ばかりするんだ!?」


あまりにも身勝手な言葉に、会場がさらに動揺に包まれる。


「あ? 教えてほしいか? 答えは簡単だぜ。うざいからだよ」


ゴリスラヴァはあっさりと吐き捨てた。


「っくぅ……! 僕はお前を倒す! 僕は……僕の力で!!」


制止しようと群がってくる会場の参列者たちを、ルスランは必死に押しのけた。一人、二人、三人、四人――力任せに振り払い、腰の剣の柄を固く握りしめて叫ぶ。

しかし、ゴリスラヴァは鼻で笑うように返した。


「っはぁ、それはどうかな?」


ゴリスラヴァの嘲笑が耳を打つ。


「俺とお前の決闘を、今ここで――」


だが、その言葉すらも途中で掻き消された。


フィンが杖を天高く掲げ直したのだ。

溢れ出す白い光はいよいよ激しさを増し、不気味な夢の会場も、祝福の祭壇も、人々の狂ったざわめきも、すべてを呑み込むように広がっていく。


そして、老魔術師の喝がはっきりと響き渡った。


『無限の夢よ、失せよ! 飛び去れぇ!!』


光が爆発するように弾ける。


『目覚めよ! ――勇者ルスランよ!!』


その声がルスランの胸の奥深くへと突き刺さり、夢の底へ沈んでいた意識を激しく貫いた。

胸の奥で燃え盛る情熱が、偽りの夢の景色を内側から破裂させる。


祝福の声も、嘲笑う参列者も、祭壇に立つファルラーフの影も――すべてがひび割れたガラスのように、木端微塵に砕け散った。


「――そうだ!!」


ルスランは叫んだ。

それは夢の幻影に向けた叫びであり、己の弱さを打ち砕く確固たる誓いだった。


こんな不条理な結末を、認められてたまるか。

リュドミラ姫を奪われたまま、指をくわえて終わってたまるものか!


熱を帯びた激しい感情が、そのまま全身の血を巡り、力となって身体を駆け巡る。

深い眠りの底に縛り付けられていた意識が、一気に現実の表面へと飛び跳ねた。


――はッ……!


ルスランは目を見開いた。


冷たい空気が、一気に肺の中へと流れ込んでくる。

胸が大きく上下し、心臓が鐘のように激しく脈打っていた。

目蓋の裏にはまだ夢の残像が焼きついていたが、目の前に広がっていたのは祝福の祭壇などではない。


金色の灯りに照らされた、異様に華やかな広間。

耳を刺すように響き続ける不気味な旋律。

床やソファで正気を失い、眠りに落ちている仲間たち。

そして――喉を振り絞り、必死に助けを求めるテンゴの声。


現実だ。


「……っ!」


ルスランは息をのみ、跳ね起きるように顔を上げた。


覚醒したルスランの視界に真っ先に飛び込んできたのは、絶体絶命のテンゴの姿だった。


妖艶な女に背後から固く拘束され、身動きの取れないテンゴ。

そしてその目の前では、兜のない冷酷な騎士が、今まさに刀を高く振り上げていた――!

「――っ!」


考えるより前に、ルスランの身体が跳んでいた。


腰の剣を一息に引き抜き、テンゴの頭上へと肉薄する。振り下ろされた死の刃を遮るため、一切の迷いなく己の鋼を割り込ませた。


――ガッキイイイインッ!!


鋼と鋼が激突し、耳を劈くような高音の金属音が狂乱の広間に響き渡る。


弾け飛ぶ激しい火花。

腕から全身へと駆け抜ける凄まじい衝撃に、ルスランの足元がメキメキと床をきしませた。だが、彼は歯を食いしばり、一歩たりとも後ろへ引かない。


殺意の刃は、ルスランの剣によって寸前で完全に受け止められていた。


拘束されたテンゴの目が丸く見開かれる。


「ルスラン……!」


ルスランは刃を交え、火花を散らしたまま低く言い放った。


「……させるかよっ!」


重圧が互いの腕を震わせ、散る火花が二人の顔を照らし出す。広間の空気が、一瞬でひりつくような緊張感で張り詰めた。


――ガチ、ガチチ……ッ!


すると刃を押し込む騎士の男は、驚くどころか歓喜に歪んだ表情で咆哮した。


「よぉ……! 久しぶりだなああああッ!!」

「ルウウウウスラアアアアアアアンン!!!」


その狂気じみた叫びを聞いた瞬間、ルスランの瞳に猛烈な怒りが宿る。叫び返した。


「ああ……またお前かッ! ゴリスラヴァ!!」


交差する二本の剣がきしみを上げ、青白い火花を散らし続ける。

再会を喜ぶにはあまりにも物騒で、血生臭い形だった。だが、因縁浅からぬ二人にとっては、それこそが最も似合いの挨拶だった。


「そこで大人しく眠っていればよかったものをよぉ!」


ゴリスラヴァが邪悪な笑みを深める。


ルスランは正面からその視線を受け止め、一歩も引かずに言い返した。


「――仲間の前で、眠っていられるかッ!」


その声には、悪夢から目覚めたばかりとは思えないほどの熱と覚悟が宿っていた。

背後には拘束されたテンゴがいる。広間には眠らされ、今もなお意思を奪われて踊らされている仲間たちがいる。ここで倒れるわけには絶対に熟かないのだ。


ゴリスラヴァはなおも歪んだ笑いを浮かべる。まるで、この因縁の再会そのものを心待ちにしていたかのように。


「ここでお前を叩き潰す……!」


ゴリスラヴァがさらに一筋の力を込め、刃を押し込んできた。

受け身のまま終わる気など毛頭ない。ルスランの瞳には、完全に闘志の炎が燃え盛っていた。


「倒してから……姫様を取り戻す! 姫様はどこへやった!?」


剣を力強く押し返し返しながら、ルスランが低く問詰める。


ゴリスラヴァは口の端をニヤリと釣り上げた。


「姫様だとお……?」


嘲笑うように鼻で鳴らし、さらに刃へ体重をかける。


「知らねぇなぁ!! ここにはいねぇよ!」


「……何だと……!?」


ルスランの目つきが一気に険しくなる。刃を合わせたまま、少しも圧力を緩めない。


「なら……なぜ僕たちに剣を向ける! 何のためにこんな怪しい魔法をかけたんだ!?」


問い詰める必死の声に、ゴリスラヴァは楽しそうに喉を鳴らした。


「理由なんか必要か……?」


火花が散り狂う超至近距離で、相手は平然と言い放つ。


「特にお前には……剣を向ける理由があるだろ」


ほんのわずか顔を寄せ、悪意に満ちた声で囁く。


「お前にだってあるはずだぜ。俺を斬り殺す理由がな……」


その言葉が、ルスランの胸の奥に眠っていた悔しさと激痛を激しく煽り立てた。


「……違うか?」


ルスランは短く息を吐き出す。視線は一瞬たりとも相手から外さない。


「ああ……お前は……っ!」


それ以上の言葉は、燃えさかる怒りに焼かれて喉の奥で押し潰された。

鋭い怒声と同時に、ルスランの剣が跳ね上がる。

互いに押し合っていた刃を一気にはじき上げ、ゴリスラヴァの剣筋を外側へと勢いよく受け流した!


――ガキィッ!!


甲高い金属音が鳴り、体勢を崩したゴリスラヴァの一瞬の隙。

ルスランは間髪入れずに身をひるがえした。床を力強く蹴って素早く後退し、相手の間合いからきっぱりと離脱する。


互いの間に、数歩分の空間が生まれた。


ルスランは低く剣を構え直す。

切っ先は微動だにせず、鋭い眼光だけがまっ降ろした先でゴリスラヴァの眉間を射抜いていた。


「……来い、ゴリスラヴァ」


間合いが切れた。

ほんの数歩下がり、距離を取っただけだというのに、二人を包む空間は破裂しそうなほどひどく張り詰めていた。

ゴリスラヴァが、不敵に口元をつり上げた。


「久しぶりだってのに、つれねぇなぁ」


「――お前と馴れ合うつもりはない」


「冷たいねぇ」


「お前と笑って話すことなど、何一つない」


ゴリスラヴァは、大袈裟に肩をすくめてみせる。


「そうかよ。けどよォ、お前には俺と剣を交える理由が山ほどあるんじゃねぇのか?」


「あるさ」


ルスランは間髪入れずに即答した。その声には一切の迷いがない。


「仲間に手を出した」

「眠りに落とした」

「――そして、お前がここにいる」


一言一言、刃を突きつけるように叩き込む。

ゴリスラヴァはその言葉を心地よさそうに浴びながら、心底楽しそうに笑った。


「いい目になったじゃねぇか、ルスラン」


だが次の瞬間、ゴリスラヴァの瞳に毒々しい嘲りが混じる。


「……だが、その目で姫は救えたか?」


その問いにルスランの息が詰まり、声が重く沈んだ。


「……貴様……っ!」


「悔しいよなぁ? あぁ!?」


「……黙れ……ッ!」


「悔しいなら――剣で返してみろよ!!」


その露骨な挑発に対し、ルスランは一歩も引かずに鋭く剣を構え直した。


「毎日毎日、姫様、姫様ってよォ! 相変わらずぞっこんじゃねえかよ、騎士様ァ!!」


ゴリスラヴァは野獣のような咆哮とともに、力任せに自身の剣を跳ね上げた!


――ガギィンッ!!


激しい金属音が広間に弾け、ルスランの刃がわずかに外側へと流される。

その力の反動によって二人の間合いが大きく開き、女に拘束されたまま立ち尽くすテンゴを挟み込むようにして、三人の位置関係は緊張感に満ちた三角形を描いて散った。


「――ああ、そうだ! 僕は姫様に心を捧げている! それの何が悪い、ゴリスラヴァ!!」


ルスランは即座に足を踏み直し、軸のぶれない姿勢で剣を構え直す。


「……それが、僕の誓った騎士道精神だ!!」


ゴリスラヴァは喉の奥を鳴らし、腹の底から嘲笑を漏らした。


「騎士道精神だァ……?」


一気に顔を歪め、吐き捨てる。


「笑わせるなよ!! そんな綺麗事の塊で、一体何が守れたってんだよ!?」


その言葉に、ルスランの瞳に冷徹なまでの鋭い光が宿る。


「僕は――姫様を取り返す」


低く、けれど二度と揺らぐことのない意思が、その声には宿っていた。


「お前の弄する浅はかな嘘など、僕には通じない!」


飛び散った火花の残光が、静かに消えていく。

息を呑むほど張り詰めた間合いの中で、ルスランの真っ直ぐな切っ先は、寸分の狂いもなくゴリスラヴァの喉元を一心に狙っていた。


「ハッ……なら今ここで決闘だ、ルスラアアアアン!!」


ゴリスラヴァの狂気じみた叫びが、広間の天井へ高らかに響き渡る。

火花の余韻と緊張感が漂う空間で、奴は楽しそうに歪んだ笑みを浮かべ、舌を打った。


「どうだあ……ッ!?」


返事を待つより先に、ゴリスラヴァはあごでテンゴをしゃくった。


「おい、そこの小人!」

「お前が見届け人だ! 俺とこいつの決闘を、そこで指くわえて見届けろ!」


テンゴは目をしばたたかせ、不快そうに顔を歪める。


「え? 俺が見届け人……!?」

「それまで殺さねぇでおいてやるからよォ!」


嘲るような言い草にテンゴが歯噛みする。だが、対照的にルスランの気配は静まり返っていた。


「……それでいいな?」


ゴリスラヴァがにやりと歪んだ笑みを浮かべる。

ルスランは一歩も引かずに答えた。


「僕は構わない。むしろ望むところだ」


ぴたりと向けられた剣先は、微動だにせず相手を射抜いている。


「寝てる仲間をほっといて、んなバカバカしいもんに付き合ってられるかよッ!」


テンゴが女の拘束を振りほどこうと激しくもがくが、やはり振りほどけない。焦りと焦燥でジワジワと体力だけが削り取られていく。


「焦るなよ、小人。お前はそこで黙って見てりゃいいんだよ」

「テンゴ! こいつは――」


ルスランは剣を構えたまま、視線をゴリスラヴァから決して外さずに言った。


「昔、僕と王子ラトミール、それにゴリスラヴァ……この三人でリュドミラ姫の護衛をしていたんだ」


テンゴが息をのむ。


「ところが、ある夜のことだ。姫様が寝所から姿を消した」


ルスランの声が低く、重く沈む。


「気づいた瞬間から、兵士も騎士も総出で大捜索になった」


ゴリスラヴァが口元をニタリと歪めた。


「そうだ……お前も一緒に捜したんだよな、ゴリスラヴァ! 何があったのかと心配し、姫とお前が一緒にトラブルに巻き込まれていると……僕も、ラトミール王子も含めて本気で勘違いしていたんだ!」


その言い方に、ルスランの目つきがさらに鋭さを増す。


「そして僕たちは何の手がかり一つ掴めぬまま、失意の中でキエフ大公国へ戻った。あの屈辱と焦燥は、今でもよく覚えている」

「だが……こいつは僕たちが戻るより前に、大公へこう報告したんだ」


ルスランは吐き捨てるように続けた。


『リュドミラ姫がルスランに襲われているところを、自分が助けた』……とな。


テンゴの顔色が一気に変わる。

ルスランの声には、抑えきれない激怒と憎悪が混じっていた。


「――続けて、こうも言った。『失意のリュドミラ姫との結婚の儀を、私にとり行わせてほしい』……とな!」


広間の空気が、ぴんと破裂しそうなほど張りつめる。

ルスランは剣先をわずかに持ち上げ、糾弾するようにまっすぐゴリスラヴァを指し示した。


「これが――こいつという男の汚悪な正体だ」


テンゴが叫ぶ。


「お前……ルスランにそんな汚ねぇ罪まで着せたのかよ……!?」


当のゴリスラヴァは、まだ余裕たっぷりの表情を浮かべていた。


「おいおい、そろそろ俺様のありがたい自己紹介は終わったか?」


ゴリスラヴァがニヤニヤと笑う。


「行くぞ、ゴリスラヴァ!!」


ルスランは叫ぶと同時に爆発的に床を蹴った。

剣を低く構え、一直線に相手の懐へ駆ける。


「ほら来いよ!」


ゴリスラヴァもまた剣を構えた。だが、その悪意に満ちた笑みは崩れない。


「――こちらも行くぜ!!」


次の瞬間、奴は高らかに叫んだ。


「『不協和音の舞踏会《ディソナンス・ワルツ》』!!」


その禍々しい声に応じるように、広間に満ちていた不気味な重低音の音楽が一段と強くうねりを上げる。

すると、周囲で優雅に踊っていた人形たちが、ぎくりと強い糸で引かれたように不気味な動きを見せた。


テンゴを拘束している女と、正気を失ったネルソンやピローと踊り続けている人形たちを除き、残る無数の人形が一斉にルスランへ向き直る。


その無機質で虚ろな顔が、ずらりとルスランを一心に見つめた。


「なっ――なに――!?」


次の瞬間、人形たちは一斉に雪崩打って襲いかかってきた。

ドレスの裾を激しく翻しながら、狂った舞踏の足取りのまま、四方八方からルスランへ迫る。


ルスランはとっさに足を止め、迫り来る一体の腕を鋭く剣で払った。

しかし、一体だけではない。横から、背後から、爪を立てた人形の手が次々と伸びてくる。


「くっ……!」


一直線にゴリスラヴァへ突き立てるはずだった斬撃は、立ち塞がる人形の壁によって無残に阻まれた。

その壁の向こうで、ゴリスラヴァが愉快そうに大腔を叩く。


「まずは可愛い踊り子たちの相手をしてもらうぜ、ルウウウスラアアアン!」


一体、二体――時には三体まとめて、ルスランは必死の剣技で人形たちを斬り伏せていく。


鋼が閃くたび、舞うように迫ってきた木偶たちが乾いた音を立てて床へ崩れ落ちた。

それでも数は尽きない。次から次へと、狂気の音楽に合わせるように新たな人形が群がってくる。


「ほらほら、どうしたァ!?」


ゴリスラヴァが叫ぶ。その声には揺るぎない余裕と嘲りが混じっていた。


人形の群れの向こうから、奴が悠々と歩み寄ってくる。

そして隙の生まれたルスランめがけ、大剣を豪快に振りかぶった!


「ル、ルスランッ!!」


テンゴの悲鳴のような叫びが飛ぶ。


次の瞬間、ルスランは迫り来る狂刃を正面から受け止めた。

鋭い衝撃が両腕を突き抜ける。だが、彼はそのまま衝撃を逃がすように滑らかに刃を横へ流した!


――ズドンッ!


受け流されたゴリスラヴァの猛烈な剣筋は、勢いのまま脇から飛び込んできていた別の操り人形へ叩きつけられた。


身体を真っ二つ近くに叩き割られ、人形が大きくのけぞって派手に床へ吹き飛んでいく。


「はっ!? ルゥゥスラァァンがよォォ!」


ルスランは荒い息を吐き、すぐさま剣を構え直した。


「自分の人形まで容赦なく斬るのか!? 一騎打ちじゃないのか、ゴリスラヴァ!?」


迫る人形を斬り払いながら、ルスランが激怒の声を上げる。


ゴリスラヴァは薄く笑った。


「安心しろよ。これが、俺とお前の正真正銘の一騎打ちだぜ?」


剣を肩に乗せるようにして、わざとらしく吐き捨てる。


「だってそうだろ? 今ここで『剣』を持ってるのは、俺とお前だけなんだからよォ!」


「ふざけるな! 人形は別だ!」


ルスランの鋭い怒声が返る。


「お前をガチガチに拘束するための『装飾』だよ!」


ゴリスラヴァは愉快でたまらないといった風に笑みを深くした。


「動けなくなったところで、じっくり首をはねてやるよ!」


そう――ゴリスラヴァ自身は一騎打ちのつもりでいるのかもしれない。

だが、現実はあまりにもかけ離れていた。


「卑怯だ! これは一騎打ちじゃない! 言葉の意味すらまともに理解していないのか!?」


これは一騎打ちなどではない。

操り人形の群れとゴリスラヴァを同時に相手取る、ルスラン一人に対する卑劣な包囲殲滅戦だった。


「あァァんだとぉ!?」


それでも、ルスランの足は止まらない。


一体。

二体。

時には三体まとめて――!


迫り来る人形たちを、ルスランは次々と斬り払っていく。

ドレスの裾がズタズタに裂け、煌びやかな飾り布が宙に舞い、乾いた音を立てて人形たちが床へ崩れ落ちていく。


だが――幾度も刃を振り、布地を切り裂くたびに、ルスランの脳裏を拭いがたい戦慄がかすめていた。


見覚えのある、繊細な刺繍。

見覚えのある、豪奢なレース。

見覚えのある――高貴な布の色合わせ。

「……そう言えば、この服は……」


迫り来る一体の腕を剣で威勢よく跳ね飛ばしながら、ルスランは低く呟いた。

続く一体の胸元を鋭く切り裂いた瞬間、脳裏の違和感は冷たい確信へと変わる。


「ゴリスラヴァ! お前、まさか――」


離れた場所で剣を構えたまま、ゴリスラヴァが苛立ったように眉を跳ね上げた。


「あァ……? なんだ!?」


ルスランはさらに襲いかかる一体を容赦なく切り伏せ、荒い息を吐きながら叫んだ。


「このドレス……お前が集めたものじゃないのか!?」


「どういうことだ!?」


拘束されたままのテンゴが叫ぶ。身動きが取れぬまま、目だけで跳びかかる人形たちの豪奢な衣装を追った。


「まさか女の人を斬り倒して、衣服を剥ぎ取ったとでもいうのか!?」


「そんな野蛮なことを、騎士である俺様がするわけねぇだろッ!」


ゴリスラヴァが怒鳴り返す。その怒声にはどこか焦りと、しびれを切らしたような苛立ちが混じっていた。


ルスランは群がる人形を鮮やかに斬り払いながら、矢継ぎ早に言葉を叩き込む。


「こいつはラトミール王子の側近騎士だ!」


一体の腕を力強く払う。その反動を利用した返す刃で、もう一体の胴を深く斬り裂いた。


「前にラトミール王子が言っていた! 『褒美として、女物の豪奢な服をゴリスラヴァに与えている』と!」


「何だと!?」


テンゴが目を見開く。


「あのバカ王子め……!!」


ゴリスラヴァは激しく舌打ちし、顔を真っ赤にしてルスランへ突進しようとした。

だが、ルスランの追撃は止まらない。


「それだけじゃない!」


人形の肩口を断ち割り、木屑と布切れを舞い散らせながら、ルスランは刃のような声を響かせた。


「王子はこうも言っていた……! 『こいつの隠された趣味は――女装だ』とな!!」


その瞬間、世界の時が止まった。


ゴリスラヴァの動きがピタリと凍りつく。

剣を握る手が大きくぶれ、もう片方の手が思わず己の顔面を覆った。


「うがあああああああああッ!!」


広間全体を揺るがすような、怒号とも悲鳴ともつかない凄惨な絶叫が響き渡る。


恥辱に顔を押さえたまま、完全に固まってしまったゴリスラヴァ。

その哀れで絶望的な隙を見逃さず、テンゴが爆発するように吹き出した。


「っは……ははははははっ! ぶはははははっっ!!」


「お前……ッ! 趣味が『女装』だったのかよ!!」


腹を抱えて笑い転げるテンゴの頭の中で、すべての点と線が繋がる。


「やっぱりな! 夜な夜な一人でこの不気味な城に入っていくだの何だの噂されてたのは……貰った服を人形に着せて、一人で虚しく踊ってたからなんじゃねぇのか!?」


この城に立ち入る前、ルスランから聞いていた「夜な夜な城へ入っていく不審者」の怪異。

その滑稽すぎる真犯人が目の前の大男だと理解し、テンゴの笑いは止まらない。


「っはああああっはっはっはっは!!」


広間の重苦しい空気が、一瞬にして別の意味で呆れと失笑に包まれる。


ルスランはその隙を逃さず、残った人形たちを次々と斬り伏せていった。

二体、三体とまとめて横一文字に払い、ゴリスラヴァへの進路を力ずくでこじ開ける。


だが――限界を超えた恥辱は、ゴリスラヴァの理性と殺意の箍(たが)を完全に破壊していた。


「あっ……」


テンゴの口から、青ざめた声が漏れ出る。調子に乗りすぎたことに気づいた時には、もう遅かった。


血相を変え、顔を真っ赤に腫らしたゴリスラヴァが、ターゲットをルスランからテンゴへと切り替える!


「――やっぱりお前から死ねええええええええッ!! 小人があああああッ!!」


「っひいいいいいいっ!?」


絶叫とともに猛スピードで肉薄してくる巨躯。テンゴの悲鳴が弾けた。


「死ねええええええええ!!!!!!!!!!」


その悲鳴が耳に届いた瞬間、ルスランの視線が閃光のごとく走った。


一刻の猶予もない。

ルスランは荒い息のまま、爆発的な脚力で床を蹴り上げた。

迫り来る人形の隙間を縫うようにして、一直線に前へ踏み込む!


「――間に合えッ!」


テンゴの喉元へ振り下ろされかけたゴリスラヴァの凶刃。

届く直前、ルスランは人形の群れを力任せに駆け抜け、ゴリスラヴァの背後へ滑り込んだ。


そして、間一髪――横薙ぎに全霊の剣を叩きつける!


――ガギィィィィンッ!!


凄まじい火花とともに叩き込まれた一撃が、テンゴへ迫っていた斬撃の軌道を大きく外側へと逸らした。


「させないッ!」


ルスランの叫びが空を切る。だが、ゴリスラヴァはテンゴの直前に立ちはだかったまま、殺気を込めて大剣を振り下ろした。


「くっ……この! ぞっこん野郎が!!」


激しい金属音が響き、散った火花が二人の顔を照らす。ギリギリで刃を受け止めながら、ゴリスラヴァは喉が裂けんばかりに叫んだ。


「おい、ナイーナ!」

「魔女・ナイーナッ!!」


その名が響いた瞬間、テンゴを拘束していた女の顔から人間味が消え去った。

無表情だった口元がねっとりと歪み、首を不自然な角度でゆっくりと傾ける。


「なぁに……?」


「その小人をさっさと殺せッ!」


苛立ちを爆発させるゴリスラヴァが怒号を飛ばす。


「っひいい、今度は何だ!?」


テンゴが顔を青ざめさせる。

だが、魔女ナイーナはゴリスラヴァの命令など意にも留めない様子で、テンゴの耳元へと艶かしく顔を寄せた。


「嫌よぉ。この男の子、可愛いぃんだもぉん♪」


甘ったるくねっとりとした声が、耳元に直接吹き込まれる。

これまでの無機質な木偶人形とは明らかに違う、生身のしなやかな女性の肌の感触と温度。背後からじっくりと身体を密着させられ、テンゴの全身を縛る細い腕にぐぐっと力が込められた。


「私のお婿さんに、するわぁ♪」


「嫌だ! 頼むから離してくれッ!」


テンゴは鳥肌の立つような悪寒に必死で身をよじる。


「だぁめぇ♪」


ナイーナは耳たぶをかすめるようにくすくす笑い、さらに甘い毒を含んだ声で囁いた。


「えぇ〜? あの男が死ぬところを、高物見物しましょぉよぉ、旦那さぁん」


「嫌だ!」

「嫌だ!! 離せ……離せッ!!!」


テンゴが半狂乱になって暴れ出す。拘束を力任せに振りほどこうと、全身の筋肉を激しく躍動させた。


しかし次の瞬間――全身の感覚がスーッと遠のき、骨から力が抜け落ちていくような強烈な脱力感に見舞われた。

もがけばもがくほど、体内の生命力そのものが目に見えない泥沼へ吸い上げられていく。


「無理よぉ……」


ナイーナは抜け殻のようになりかけたテンゴを愛おしそうに抱きすくめ、耳元で甘く嘲笑った。


「無理なのよぉ。あなたの力は、あたしの魔法で抑え込んでいるんだからぁ。動けば動くほど、体力を消耗していくだけよぉ」


くすりと小悪魔のような笑い声を漏らす。


「本当ならぁ、眠ってもらえれば楽だったのだけれどぉ」

「あなた、なんだか少し厄介な『力』を持っているみたいだからぁ……こうして直に拘束するほうが確実なのよぉ?」


テンゴの呼吸が荒く乱れる。


「ナイーナが直に捕まえているんだもぉん。魔法も何も使えないでしょぉ?」

「ねぇ……動けば動くほど、苦しいでしょぉ?」


耳元で囁かれる声はどこまでも優しい。だからこそ、背筋が凍りつくような恐怖が湧き上がる。


「だから、おとなしくしていなさぁい」

「全部終わるまで……そこでいい子にしていてねぇ?」


テンゴはなおも身体を揺すろうとした。しかし、動くたびに体力がゴリゴリと削られ、視界が歪んでいく。力任せの抵抗では、決してこの呪縛は破れない。


「……そういうこと……なのか……。もう……俺は……」


テンゴはがっくりと頭を垂れ、ふっと全身から脈絡もなく力を抜いた。


「あらぁ? 諦めたのぉ? それぇじゃ、あたしぃと……」


テンゴの絶望を感じ取ったナイーナが、くすぐるように耳元で囁く。

同時に、テンゴの身体をガチガチに締め上げていた腕の緊張が、ほんの一瞬だけ緩んだ。


――その瞬間を、テンゴは命がけで待っていた。


「……諦めたんじゃない。お前に無駄な『力』を使わせたんだよッ!」


「え……?」


テンゴは瞬時に呼吸を整えると、肩をわずかに後ろへ引いた。

暴れて力を散らすのではなく、自分を縛り付ける腕の「支点」となっている一点へ、己の全体重を預ける。


不意を突かれたナイーナが慌てて腕を締め直そうとするが、その力のベクトルが一瞬だけ大きく狂った。


「なにぃ……!?」


テンゴはその僅かな歪みを見逃さず、瞬時に身体を小さく沈め、片足を大きく後ろへ引いた。

拘束する腕の内側へすべり込むように肩を滑らせ、腰を急激にひねる!


魔術で強化されていたはずの固い腕が、ヌルリと外側へずれた。


「今だッ!!」


テンゴは体内に残った最後の気力を爆発させ、拘束の輪から弾けるように抜け出した!

完全に呪縛が解けたわけではない。腕や脚には未だに魔力の不快な痺れが重く残っている。


だが――立って、走れる!


テンゴはすぐさま転がるように距離を取り、体制を整えてナイーナを振り返った。


「まあぁ、旦那さん逃げちゃったのねぇ。も~ぅ……また捕まえるわぁ♪」


ナイーナは怒る素振りすら見せず、むしろ獲物が暴れたことを喜ぶかのように楽しげに微笑んだ。


「でもぉ、あたしの魔法はまだ切れていないわよぉ?」


テンゴは荒い息を吐き出しながら、死闘を繰り広げるゴリスラヴァとルスランの背中へと視線を走らせた。


「……それでも、あいつを止めるには十分だ!」


拘束を脱したテンゴは、全身の痺れを気合でねじ伏せ、仲間を救うために力強く床を蹴った!


「よし、行くぞルスランッ!」


「ああ……テンゴッ!!」


テンゴの真っ直ぐな瞳には、もはや一切の迷いも恐怖もなかった。

疾走しながら、彼は懐から一振りの【扇子】を鮮やかに抜き放つ。


白銀に煌めく扇面には、天の川の深淵で最も眩い輝きを放つ『盾座(スクタム)』を象った星々の紋様と、流れるような美しい音符の意匠が精緻に刻み込まれていた。


テンゴはそれを前方へ向けて勢いよく突き出し、腹の底から叫んだ!


「五 音 の(ペンタトニック・) 防 星(シールド)!」


唱えた瞬間、扇子から眩い白銀の光が爆発的にほとばしる!

二人の眼前に姿を現したのは、開いた扇そのものを巨大化させたような、透明感のある等身大の「光の盾」だった。


「きゃっ……!?」


群がろうとしていた操り人形たちの爪や手が、展開された光の力場に触れた瞬間、激しい衝撃波とともに弾き飛ばされる。


「これは――!?」


背後でルスランが息をのんだ。


テンゴは口の端をニッと吊り上げ、扇子を構え直して力強く胸を張る。


「言ったろ!」

「俺は――ガーディアンだってな!!」


次の瞬間、ゴリスラヴァの凶刃が咆哮とともに振り下ろされた。

しかし、その極大の斬撃は、ルスランにもテンゴにも届かない。


――ガギィィィィンッ!!!!


鋼と光が衝突した凄絶な激音が広間全体に炸裂する。

ゴリスラヴァの渾身の大剣は、開いた扇の形をした巨大な光の盾に、真正面から叩きつけられていた。


扇面に浮かび上がる盾座の紋様と音符の意匠が、強烈な衝撃を受けてバチバチと激しい光を放つ。

等身大の盾全体が叫ぶように大きく震えた。


――だが、砕けない!


「なにっ……!?!?」


ゴリスラヴァが衝撃のあまり目を見開く。


光り輝く盾の向こう側で、テンゴは不敵に口元を歪めた。


「――さあ、どうする?」


・・・・・・・・・


・・・・・・・・


・・・・・・


・・・・











ここまでお読みいただきありがとうございました。


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