避けられない始まり
テーブルマナーがぎこちなくも形になり始めた頃、食卓の場で父に聞かされた話は、思わず高そうなお皿に銀食器で音を出すところだった。常に頭にある言葉なのに、実際に聞くとなんだか知らない言葉のようで。首を傾げながら、言葉を選んだ。
「……お父さま、ペルのこんやく者って?」
「そう、婚約者。ペルのね、結婚する人の話だよ」
まさかこんなに早く時が経つとは思っていなかった。まだ5歳の誕生日会を迎えていない。社交界デビューもまだ先の為、家族で慎ましいパーティをする。…とは言っても公爵家はそうはいかず、家の中が少しずつ慌ただしくなっていく。兄の誕生日でもそうだったし、私の時もきっとそうで。
王太子と私は同い年。向こうからしても、早い時期になるはずで。何かが少しずつズレている感覚に、思わず手が止まった。
「結婚っていうのはね、ずっと一緒にいようねって、同じお家で過ごすお約束事よ。悪いことじゃないよ?」
宥めるような優しい母の声。言葉の意味に躓いて固まっていると勘違いしたらしく、助け舟を出してくれた。公爵家は教育の水準が高いせいなのか、言葉を砕いて説明はするものの、幼いからと嘘をついたり、誤魔化された事はあまりない。年相応の振る舞いを意識しているものの、喋る時の苦労は思ったよりも少なかった。
「お兄さまにも、こんやく者はいますか?」
食卓の空席を見て、思ったことを口にした。前世の知識で兄が攻略対象になる事を知っているものの、婚約者がいたような記憶がない。使われないカトラリー、空のグラスが少し寂しい。尋ねて父に顔を向ければ、両親が顔を見合せていた。
「ヴェスペルは体が弱いからね。まだ婚約者はいないよ」
眉を下げながら父は話す。家の将来を案じているのか、兄を不憫に思っての表情なのかはわからない。いつも優先されるのは兄の方で、これまでも何かと兄の容態で自分を後回しにされたことは数え切れない。
兄ばかり構う理由を尋ねたこともある。頭ではわかっていても、幼ながらに抱えた不安が溢れ出て涙に変わってしまって驚いてしまったっけ。
上手く伝えられずにいたのに、きちんと向き合ってくれた両親は、その日のうちに説明してくれた。納得する内容と、困らせてしまった日を思い出しながら、ナイフとフォークを置き、両手をテーブルの下に隠す。手汗がバレないか不安だった。
「……ペルは、お兄さまのあとでいいです。お兄さまが一番だから」
「ペル…」
その日を境に、知らないぬいぐるみや新しいお洋服が増えたこと、いつもより沢山絵本を読んでくれたりと、目一杯愛情を注いでくれていることにも気付いている。 婚約者の話も、寂しい思いをさせているから早めに相手を、という話なのかもしれない。
けれど、公爵家で宰相の家に来る縁談なんて限られている。……王太子と婚約なんて、破滅へのカウントダウンでしかない。
兄を盾にするのは気が引けるし、両親の感情を逆手に取ることを悪いとは思う。けれど今の自分に思いつく婚約回避にはこうする他なかった。
自然と俯く形になってしまい、なんとも言い難い空気が場に漂う。両親もこれ以上は何も言えないようで、静かな時間が流れていく。料理の味がしないまま食事が終盤にさしかかれば、食後のフルーツが並べられる。心なしか、普段よりも好きなものが多い気がした。
「……ペル。よく聞いて」
父が神妙な顔付きで話し始める。つられて手を止めてしまうが、食べながらでいいと促される。
「確かに、父様たちはヴェスペルの事を一番に考えてしまう。けれどね、ペルの事も大事にしているんだ」
両親の行動は何も間違っていないし、貴族として正しい在り方だと理解しているつもりだ。婚約したくないことがバレているのかと、少し身構えて静かに首を縦に振る。
「だからね。ペルには幸せになって欲しいし、これから先も困って欲しくないんだよ。婚約者がいて、この先結婚したら、父様たちは安心なんだ」
母は瞳を潤わせながら静かに頷いていて、その姿になぜか胸が切なくなる。大袈裟な話にしてしまい、申し訳なさが募り始めた。困らせるようなことを言ってしまった自覚はあるけれど、将来のためにも婚約は避けたい…どうすれば、いいのだろう。
───
食事が終わり、リビングを後にする。両親からは「今日の話を覚えていて」とだけ言われ、会話はそこで途切れてしまった。強制的に従わせるのではない姿勢はありがたいけれど、どうしても破滅は避けたい。
考え事をしながら歩いていれば、侍女から声を掛けられる。珍しくもあり立ち止まれば、ここは兄の部屋への道だった。
黙って戻る事も出来る。でも、なんだかそれが出来なくて、静止を振り切って兄の部屋まで進んでしまった。
重い咳の音が聞こえ、足を止める。嗅ぎなれた薬草の匂いに、兄を思う。苦しそうな音が、すこしずつ隙間風のような細い呼吸音へと変わり静かになった頃、私は自分の部屋へと戻った。




