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お婆ちゃんの入院、あるいは2日間の奇跡

「――脳内魔力回路の著しい萎縮、および記憶領域のシステムエラー。典型的な、重度の魔科学性認知症です」

白く清潔な診察室。壁に並んだ魔科学モニターには、お婆ちゃんの脳をスキャンした立体映像が淡い青光を放ちながら浮かんでいた。

ミリーは、お婆ちゃんの少し冷たくなった手をきゅっと握りしめながら、白衣を着た医師の言葉をじっと聞いていた。お婆ちゃんは、隣の椅子に座ったまま、やはり焦点の合わない目で宙を見つめている。

「先生……お婆ちゃん、お熱があるの? お薬を飲んだら、またミリーと一緒に歩いてお家に帰れる?」

無垢な瞳で見上げてくる十歳の少女に、医師は痛ましそうな表情を浮かべ、静かに首を振った。

「ごめんね、ミリーちゃん。これはお熱とは違うんだ。お婆ちゃんの脳の回路が、古くなって上手く動かなくなってしまっていてね……。もう、自分の力で歩くことも、色々なことを思い出すことも、難しい状態なんだ。残念ながら、現代の最先端魔科学を以てしても、一度壊れた脳の回路を『治療』する術はありません」

医師の言葉は非情だった。魔法と科学が高度に融合したこの現代世界でも、人間の「脳」という最も複雑な神秘の領域、そして「老化」に伴う崩壊だけは、未だに完全な不可侵の領域とされていた。

「これ以上の自宅介護は危険です。本日より、当院の特殊医療病棟へ強制入院とし、魔科学的生命維持措置ライフサポートに切り替えます」

強制入院。それは、お婆ちゃんが二度とあの暮らしやすい我が家へ戻れないことを意味していた。

ミリーの目から、大粒の涙がぽろぽろと溢れ落ち、お婆ちゃんの手の甲を濡らした。

「いやだ……お婆ちゃん、お家に帰ろう? ミリー、トマト缶でおいしいパスタ作るから……っ」

いくら呼びかけても、お婆ちゃんはただ優しく微笑むだけで、ミリーを孫だと認識している風すらなかった。

(お婆ちゃんを元気にしたい。また、一緒にお話しして、笑い合いたい……!)

ミリーの小さな胸の中に、純粋で、気が遠くなるほど深い「願い」が満ちていく。

その強い想いに呼応するように、ミリーの体内で、彼女自身すら気づいていない絶大なエネルギーが静かに脈打ち始めていた。

お婆ちゃんが入院してから、二日後の午後。

ミリーは一人、病院の個室を訪れていた。部屋には様々な魔科学機器が設置され、お婆ちゃんの体に繋がれたコードからは、一定の間隔で電子音が鳴り響いている。ベッドに横たわるお婆ちゃんは、二日前よりもさらに衰弱しているように見えた。

「お婆ちゃん、ミリーだよ。今日もね、お外でさっきのねこちゃんを見かけたんだよ」

ミリーはベッドの脇に椅子を寄せると、お婆ちゃんの細くなった右手を両手でそっと包み込んだ。

「ねこちゃんね、ミリーのこと待っててくれたみたい。……お婆ちゃんも、早く元気になって、一緒にお外でお散歩しよう? お願い、お婆ちゃん……。元気になって……!」

ミリーがぎゅっと目を閉じ、心から祈った、その瞬間だった。

――フゥン……。

静かな病室に、空気が震えるような不思議な音が響いた。

ミリーの両手から、第一話で猫を救った時よりも遙かに濃密な、鮮やかな翡翠色の光が溢れ出したのだ。

光は濁流のように溢れ、お婆ちゃんの細い腕を伝って、その全身へと一気に流れ込んでいく。

繋がれていた魔科学機器のモニターが、過剰な魔力供給に耐えかねて一時的に激しく明滅した。

「……んっ……」

お婆ちゃんの口から、小さな、しかしはっきりとした吐息が漏れた。

翡翠の光が、お婆ちゃんの脳へと達する。

現代の魔科学が「治療不可能」と投げ出した脳内の萎縮した回路、千切れた神経、濁った魔力。それらすべてが、まるで熟練の職人が壊れたおもちゃの部品を新品に取り替えるかのように、凄まじい速度で『完全修復』されていった。

光が収まり、部屋が元の静けさを取り戻したとき。

繋がれた機器の電子音が、信じられないほど力強く、規則正しいリズムを刻み始めた。

「……あ……あら?」

ベッドの上で、お婆ちゃんがゆっくりと目を開けた。

その瞳には、二日前までの虚ろさは微塵もない。かつての、優しく聡明な、深い光が戻っていた。

お婆ちゃんはゆっくりと首を巡らせ、自分の手を握って涙をためている少女を見つめた。

「ミリー……? 私、どうしてこんなところに……」

「お婆ちゃん……! お婆ちゃん、ミリーが分かるの!?」

「何を言っているの、ミリー。自分の可愛い孫娘の顔を忘れるわけがないでしょう? お前、そんなに泣いて……一体どうしたんだい?」

お婆ちゃんは上体を起こすと、信じられないほど滑らかな動きでミリーを抱きしめた。

その頭脳は、認知症になる前よりも遥かにクリアで、体中を巡る魔力回路も、まるで数十年前の全盛期のように完璧に調律されていた。

「よかったぁぁぁぁ! お婆ちゃんが直ったあ!」

ミリーはお婆ちゃんの胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。

「やっぱり、みんなが言った通りだ。痛いの痛いの飛んでけって、一生懸命撫でたら、お婆ちゃんも直ったんだ……!」

ミリーは相変わらず、自分の起こした奇跡を「撫でれば治るという、世界の普通のルール」だと信じ込んでいた。

その時、異常な魔力パルスを検知した医師たちが、大慌てで病室のドアをバタンと開けて飛び込んできた。

「何事だ!? 今、この部屋で規格外の魔力出力が――って、ええええええええ!?」

医師たちは、ベッドの上に自力で座り、孫娘を優しくあやしているお婆ちゃんの姿を見て、文字通り目玉が飛び出さんばかりに驚愕した。

「か、患者が起きて、会話をしている……!? 脳内スキャンを! 早く魔導スキャナーを持ってこい!」

大騒ぎで検査を始める医師たち。

映し出された最新の立体映像を見た医師は、カルテと画面を何度も何度も見比べ、ガタガタと震え出した。

「ありえない……。萎縮していた脳の神経回路が、完全に……それどころか、生まれつきの欠陥すら一つもない、人類の理想系とも言える『完璧な状態』に再構成されている……! 現代魔科学の常識のすべてがひっくり返るぞ、これは一体どんな奇跡だ……!?」

医師は首を何度も傾げ、まるで未知の超常現象に直面したかのように頭を抱えた。

そんな大人たちのパニックをよそに、お婆ちゃんは、ミリーの頭を優しく撫でながら、自分の手のひらをそっと見つめていた。

お婆ちゃんには、分かっていた。

今、自分の体の中で何が起きたのか。そして、それを成し遂げたのが、今も自分の腕の中で無邪気に鼻をすすっている、この小さな孫娘だということを。

(ミリー……お前は、なんて優しくて……なんて恐ろしい力を、その小さな体に宿しているんだい……)

お婆ちゃんの脳裏に、数年前に不慮の事故で亡くなった、実の息子の顔が浮かぶ。

そして、その息子の兄であり、今は遠くの地で独自の道を突き進んでいる、もう一人の息子の存在を思い出すのだった。



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