小さな奇跡と、変わりゆく日常
「みんなー、今日もありがとー!」
夕暮れ時の茜色に染まる住宅街。十歳になるミリーは、お気に入りのピンクの魔導スクーター(ペダルを漕ぐと、ほんのり浮き上がる最新の魔科学玩具だ)を止め、近所の人たちに元気に手を振っていた。
ここ「ミードガル郊外」は、都市部の利便性を残しながらも緑の豊かな、とても暮らしやすい街だ。空を見上げれば、魔力を動力源にしたクリーンな乗合バスが静かにルートを巡回している。時折、街を囲む防衛結界の向こう側の山に、野生の小型モンスターがのんびり歩いているのが見えるが、この平和な街の中に彼らが入ってくることはない。
「あらミリーちゃん、今日もお婆ちゃんのお手伝い? 偉いわねえ」
「うん! お買い物頼まれたの。トマト缶と、パスタと……えっと、あと何かあった気がするけど、忘れちゃった!」
ミリーがえへへと無邪気に笑うと、八百屋の店主も、通りがかった主婦も、みんな一斉に目尻を下げた。ミリーは少し天然で、おっとりした箱入り娘だ。誰もが彼女を、我が子のように可愛がっていた。
ミリーが再びスクーターのペダルを漕ぎ出そうとした、その時だった。
――キキィィィィィッ!!!
激しいブレーキ音と、何かが激突する鈍い音が響き渡った。
「え……?」
ミリーが慌てて音のした方へ目を向けると、大通りとの交差点で、一台の魔科学乗用車が急停車していた。その車のフロントバンパーの前、アスファルトの上に、一匹の小さな黒猫が倒れていた。
近くを走っていた野良猫が、飛び出してしまったのだろう。
車から慌てて降りてきた運転手も、周囲の通行人も、その光景を見て息を呑んだ。
猫の体はひどく不自然な方向に折れ曲がり、流れた血が黒い毛並みを赤く染めていく。痙攣する小さな体。素人目に見ても、最先端の獣医魔科学病院へ連れて行ったところで、到底助からないほどの致命傷だった。
「うそ……、ねこちゃん……っ」
ミリーはスクーターを放り出し、駆け寄った。
恐ろしい光景に足がすくみそうだったが、それ以上に「助けたい」という気持ちが、彼女の小さな体を動かしていた。
「ミリーちゃん、見ちゃダメだ!」
周囲の大人が止めようと手を伸ばしたが、ミリーはそれをすり抜け、黒猫の前にぽろぽろと涙をこぼしながら膝をついた。
「痛いよね……苦しいよね……。お願い、元気になって……!」
ミリーはただ、ひたすら「この子の傷が直ってほしい」と心から願いながら、血に濡れた黒猫の体を優しく、そっと撫でた。
その瞬間。
ミリーの手のひらから、淡く優しい翡翠色の光がぽうっと溢れ出した。
光は一瞬で黒猫の体を包み込む。
すると、信じられない現象が起きた。
アスファルトに広がっていた血溜まりが、まるで時間を巻き戻すかのように猫の体内へと吸い込まれていく。バキバキと音を立てて骨格が元の正しい位置へと収まり、引き裂かれていた皮膚が綺麗に塞がり、新しい毛並みが一瞬で生え揃っていく。
「……にゃあ?」
ほんの数秒前まで息絶え絶えだった黒猫が、何事もなかったかのようにむくりと起き上がった。毛並みはツヤツヤで、傷一つ、血痕一つ残っていない。
「よかったあ……! 治ったねえ!」
ミリーは涙を拭い、満面の笑みで黒猫を抱きしめた。
黒猫は少し驚いたように目を丸くしていたが、ミリーの腕の中で「ゴロゴロ」と喉を鳴らした。
一方、それを見ていた周囲の大人たちは、完全に硬直していた。
(な、なんだ今の光は……!?)
(致命傷だったはずの猫が、一瞬で無傷に……!?)
(まさか、伝説級の超高等回復魔法か、それとも時空属性の……!?)
静まり返る現場。誰もが、目の前の十歳の少女が起こした「異常な奇跡」に、言葉を失っていた。
しかし、ミリーは抱きしめていた黒猫をそっと地面に下ろすと、不思議そうに首を傾げた。
「あれ? みんな、どうしたの? びっくりしちゃった?」
「あ、いや……ミリーちゃん、今のは……」
「ねこちゃん、みんなが撫でてくれるのを待ってたんだよ。みんなも、痛いの痛いの飛んでけって撫でれば、すぐ治せるでしょ? よかったねえ、ねこちゃん!」
ミリーは本気でそう言っていた。
「怪我をした生き物は、優しく撫でれば元通りに直る」。それが、ミリーにとっての『普通の常識』だった。自分が特別な力を使っているという自覚も、使う意思も、使った事実すら、彼女の頭にはこれっぽっちもなかった。
大人たちは一瞬で察した。
(この子は……自分がとんでもない規格外の力を持っていることに、全く気づいていない……!)
もしこの力が、政府や、悪い魔科学者たちに知られたらどうなるか。こんなに純粋で優しい子が、実験動物のように扱われてしまうかもしれない。
(((守らなきゃ……!!)))
その場にいた大人たちの心が、完全に一つになった。
「あ、あああ! そうだねミリーちゃん! びっくりしたよー、おじさん車のブレーキが間に合って本当に良かった!」
運転手の男性が、大汗をかきながら話を合わせた。
「え? でも、おじさんのお車、ドカンって……」
「気のせい気のせい! 衝撃音の魔科学的幻聴だよ! ほら、猫ちゃんも最初から無傷で、ちょっと驚いて寝転んでただけさ!」
「そ、そうそう! 珍しいモンスターの生態による自己再生かもしれないしね!」
「いや、まさに神の奇跡ね! さすがミリーちゃん、お祈りが通じたのよ!」
大人たちは必死になって、滅茶苦茶な嘘を並べ立てた。
ミリーは「そうなのかなあ?」と少し不思議そうにしながらも、「うん、おじさんのブレーキが間に合ってよかった!」とニコニコ笑っている。
黒猫は、そんな大人たちのドタバタ劇を冷ややかな目で見つめた後、ミリーの足元に一度だけ体を擦り付け、そのままトコトコと路地の奥へ去っていった。
「じゃあね、ねこちゃん!」
ミリーは大きく手を振り、またスクーターに跨った。
大人たちは、ミリーが見えなくなるまで必死に笑顔で手を振り続け、彼女が完全に去った後、全員でその場にへたり込んだ。
「……今の、絶対に他言無用だからな」
「分かってる。ミリーちゃんは、ただの普通の可愛い女の子だ。いいな?」
「ああ……心臓が止まるかと思った……」
大人たちの必死な隠蔽工作によって、ミリーの平穏はひとまず守られた。
――けれど、変化の足音は、ミリーの最も身近な場所から忍び寄っていた。
「ただいまー、お婆ちゃん! トマト缶買ってきたよー!」
元気よく家のドアを開けたミリー。
しかし、リビングのソファに座っていたお婆ちゃんは、虚ろな目で壁を見つめたまま、ピクリとも動かなかった。
「お婆ちゃん?」
ミリーが近づいて顔を覗き込んでも、お婆ちゃんは焦点の合わない目で、小さくブツブツと呟くだけだ。
「……ここは、どこかしら……。私のお家は……どこかしら……。あなた、だぁれ……?」
「お婆ちゃん、ミリーだよ? ミリーのこと、忘れちゃったの……? どうしちゃったの……?」
大好きな、世界でたった一人の家族の異変。
夕暮れの部屋に、ミリーの不安な声が寂しく響いていた――。




