閑話休題:愛の胸中
夜風が優しく頬を撫でる中、愛は宮殿の部屋に付随するベランダに出ていた。視線の先には、月明かりに照らされたエルドラヴィアの美しい街並みが広がっている。異国の夜景に思わず目を奪われながらも、その胸には複雑な思いが渦巻いていた。
(まさかこんな風に異世界に呼ばれるなんて……。)
鉄製の装飾が施された手すりに手を置き、愛は遠くを見つめた。異世界での生活。まだ何もわからないことだらけだが、胸の奥には不安と期待が入り混じった感情が渦巻いていた。
(こんな状況で、克之と誠を巻き込んでしまったのが気がかりだわ……。)
彼らの冷静な態度と、変わらぬ支えに感謝している一方で、愛は心のどこかで申し訳なさを感じていた。自分がいなければ、二人はこんな状況に巻き込まれることはなかったかもしれない。それでも、彼らが「大丈夫だ」と微笑むたびに、自分も強くあらねばと思わずにはいられなかった。
(それにしても、この世界……まだ何も分からないけれど、ただ流されるわけにはいかないわ。)
愛は夜空に輝く星を見上げながら、ふと遠い記憶を思い出した。幼かった頃、父の親友であり、自分にとって最も尊敬する「おじさま」との会話。彼の落ち着いた声が、まるで風の音に重なるようによみがえってくる。
「愛、困難に直面したら、まずは冷静に状況を見極めるんだ。そして、他人を助ける力を持つのは、助けを求める声を理解できる人間だけだよ。」
その教えは、いつも愛の心に刻まれていた。自信を失いかけた時、何度もその言葉に救われた。
思わず、愛の口からその名がこぼれる。
「篤志おじさま……」
その声は静かな夜の闇に溶けるように消えたが、愛自身は驚いていた。まるで心の奥底に眠っていた感情が急に浮かび上がってきたかのようだった。
(篤志おじさまなら、こんな時どうしただろう?)
彼の冷静さと包容力を思い浮かべながら、愛はかすかに微笑んだ。きっと「大丈夫だ」と背中を押してくれるに違いない。けれど、それでも――
(でも、私はここで自分の役目を果たすしかない。この状況を作り出したのが誰であれ、私は自分の手で答えを見つけるわ。)
そう自分に言い聞かせるように、愛は深呼吸をして月を見つめ直した。その瞳には、迷いの中にもしっかりとした決意の光が宿っていた。
だが、その小さな声が、ただの独り言で終わらないことに愛は気づいていなかった。背後の影に気づかぬまま、夜の静けさの中でひとり思いを巡らせていた愛の姿を見つめる瞳があった――エリオットの瞳だ。
(アツシおじさま……? 彼女が誰かをそう呼ぶのは、ただの偶然か。それとも……。)
エリオットは、ベランダに佇む愛の背中を見つめながら、その心に浮かぶ「アツシ」という存在に対するわずかな棘のような感情を覚えていた。




