第9話 フルスぺとAFT①
日曜日の朝六時――。
パチリ、と私の目は爽やかに開かれた。
……ちょっと待て。今日は日曜日だぞ?
いつもなら、平日に削られまくったHPの負債を返済するために、昼過ぎまで泥のように眠りこけているはずのこの私がなぜ?
そういえば昨夜は、なんだかソワソワしてしまって、晩酌もそこそこに、小学生の遠足前夜ばりの早寝をキメたのだった。睡眠時間はバッチリ、肌のコンディションもすこぶる良好デアル。
でもなんで? いや、理由は明確だ。
今日これから瑞樹くんと会うからだ。しかも、ただの瑞樹くんではない。見た目男性の外装を完全に解き放った、「フルスペ瑞樹(私が命名)」との初邂逅だ。
正直なところ、今の気持ちは、「フルスペ瑞樹」を見たいような、見たくないような、ひどく複雑な状態である。
見たい理由は明快。あれだけの圧倒的な顔面偏差値の美少年が本気で女の子の格好をしたら、一体どれほどの美少女が爆誕するのか、気になるから。つまり野次馬根性だ。
そして見たくない理由は……それはちょっとした恐怖。瑞樹を初めて見た時、たーちゃんに似てると思った。そんな彼が女の子になったら。もし私が不覚にもフルスペ瑞樹にときめいてしまったら……。
「……どないしよ」
これまでの人生で一度も使ったことのないエセ関西弁が口から漏れてしまう。
(落ち着け、私。深呼吸)
突っ走ろうとする想像力を理性で抑えようとする。
その時、先日の彼との会話が、冷や水を浴びせるように脳裏に蘇った。
『僕は、男性が好きです』
瑞樹くんは女になりたくて、好きな相手は男性だ。仮に今日、不覚にも私が彼に惹かれてしまったとしても、彼の方の好意の矢印が私に向くことは絶対にない。もし、本気になってしまったら、残念な結末しか見えない。
だからダメだ。絶対にダメ。
綺麗な後輩として、ただ観賞用として愛でればいい。それ以上踏み込むことだけは、何があっても避けないと。
昨日からそう強く自分に言い聞かせているのだが、記憶の底から「あの時」の感情が蘇ってくる。
たーちゃんと初めて出会った瞬間のことだ。大学生の時、騒がしい居酒屋で、たまたま視線が交差した途端、周囲の喧騒がスッと遠のいていくような感覚があった。
もしあんな風に、理屈抜きでハートを鷲掴みにされるような事態に陥ったら。今こうして必死に自分に言い聞かせている理屈なんて、たぶん一瞬で吹き飛んで無意味になるんだろうな、と思う。
「……ええいままよ! 考えても仕方ない。とにかく準備じゃ!」
洗面台の前に仁王立ちした私は、両頬をパンッと叩いて気合を入れ直す。
(向こうがフルスペックで来るっていうなら、こっちも手抜きで出迎えるわけにはいかない)
あっちが若さと美貌の『フルスペ』なら、こちとらダテに歳を重ねていない『古スペ』だ。大人の女の往年のテクニックを、存分に見せつけてやろうじゃないか。
毛穴を根絶やしにする下地、絶対に崩れない鉄壁のファンデーション、ハイライトの絶妙なツヤ感、そしてアイシャドウのグラデーションに至るまで、ミリ単位の妥協も許さない。
自分の顔面の構築にこれほど時間をかけて頑張るのは一体いつ以来だろう、と思うほどの力作を仕上げてやった。
しかし、最大の難関はクローゼットだった。
「なっに着ていこっか」
ベッドの上に、次々と服の山が築かれていく。
カジュアルなパンツスタイル? いや、オフの日まで「頼れる上司」感を出してどうする。じゃあ、花柄のワンピースか? いやいやいや! 相手が気合を入れてフェミニンな格好で来た場合、横に並んで万が一にも私が「負け」たら、それはそれでダメージを受けそうだ。
あーでもない、こーでもないと、服を着ては脱ぎ、鏡の前で一人ファッションショーを繰り広げること小一時間。
「……よし、これでいく」
最終的に私の手で勝ち残ったのは、肌触りの良いハイゲージのサマーニットに、風で軽やかに揺れるリネンのロングスカートだった。
ガチガチのデート服ではなく、ちょっと控えた装い。たーちゃんと休日に街を歩く時も、私は決まってこんな服を選んでいたことを思い出して、若干センチになった。
「よし、いざ出陣じゃ!」
レザーのフラットサンダルに足を通すと、私は小さく息を吐いて、ようやく自分の部屋を出発した。
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休日の交差点は、すれ違う人々の熱気とざわめきで満ちていた。
約束の時間にはまだ少し早い。私は街路樹の木陰で、行き交う人をぼんやりと眺めながら「その時」を待っていた。
胸の奥がソワソワと落ち着かない。誰かを待つ時間に、こんなにも胸を弾ませ、無駄に背筋を伸ばして時計の針を気にするなんて。
(……いったい、いつ以来だろう。こんな気持ちになるのは)
たーちゃんと初めて約束してどこかに遊びに行ったとき?
うーん、なんか違うような。もっと昔のようなことのような気もするような……。
――と、
「……遥さん」
不意に、背中越しに鈴を転がすような、けれど、どこか、芯のある声。振り返った私の思考は、そこから数秒間、完全にフリーズすることになった。
「お待たせしました」
瑞樹が立っていた。
そして、完璧なまでに女の子になっていた。
透けるようなシフォン素材のブラウスに、淡いブルーのフレアスカートを合わせた格好。少しウェーブのかかったウィッグは、彼の細い輪郭に馴染んでいる。プロ顔負けの繊細なメイクが、元々の整いまくった目鼻立ちをさらに際立たせる……。
一瞬、息を呑んだ。
――たーちゃん……?
パートナーの面影が、頭をよぎった。
眼鏡を外して、少しだけ背を高くした、たーちゃん?
けれど。すぐにそれが違うと気づく。
たーちゃんではない。
女性の服を纏い、完璧にメイクを施した目の前の瑞樹くんは、私が知る誰かではなく、『瑞樹』という一人の別の女子だった。むしろ、男性の姿をしている瑞樹くんの方が、「たーちゃん」だった気がするほどに。
でもまあ、そんな感想は置いといて……、
(くっ、ぐぐっ……! なにこれ、完成度高すぎじゃないか!?)
たーちゃんに似ているかどうかはさておき、改めて目の前の瑞樹くんは、頭の先からつま先まで完璧な女子だった。しかも、悔しいけれどめちゃくちゃイケている。
私の動揺を見透かしたように、瑞樹はふわりと微笑み、少しだけ顔を近づけてきた。
「どうですか? 綺麗ですか? ……見惚れちゃいました?」
上目遣いでありながら、どこか自信たっぷり。意地悪なイケメン男子のような挑発。
正直、綺麗だし実際に見惚れてしまってはいたが、それを認めてしまっては女がすたる。
「……ふっ。まあ、想定の範囲内と言ったところね」
私は動揺を悟られないよう、腕を組んで大人の余裕の笑み(のつもり)を作って言い放った。
すると瑞樹は、詰まんなそうに口をすぼめる。
「ええー、本当ですか? 本当は負けたとか思ってませんでした?」
「そ、そんなことないわよ」
以前のタイ料理店でもそうだったけど、この子は「素」をさらけ出すと性格が変わる。でも、そのちょっと小生意気で自信ありげなところが、私は嫌いじゃない。
「でもまあ、想定の範囲内、ではあるけれど……」
私は改めて全身を眺めた。
「綺麗なんじゃない? 少なくとも会社に来ている時よりはずっといいかな」
そう言うと、瑞樹はパッと花が咲いたように笑った。
(うっ……)
至近距離でその破壊力抜群の笑顔をまともに浴びてしまい、私は不覚にも……。不覚にもカッと顔に血がのぼるのを感じた。
「じゃ、じゃあ、行こうか! 予約の時間あるし!」
顔を隠すように横を向いて歩き出すと、背後から、楽しげに笑うような「はいっ」という声が聞こえた。
足早に数歩歩き出したところで、私の右腕に柔らかい感触が絡みついてきた。
「えっ、ちょ……」
驚いて横を見ると、瑞樹が私の腕に自分の細い腕をしっかりと絡ませ、至近距離から上目遣いでこちらを覗き込んでいた。
「すいません。こういうヒール、まだちょっと歩き慣れてなくて。……転ばないように、腕、貸してもらってもいいですか?」
困ったように小首を傾げるその仕草は、計算し尽くされたかのように完璧なあざとさだった。
おいおい、さっき私を見つけた時、スタスタとものすごく軽快な足取りで歩み寄ってきたじゃないか。
(……絶対嘘だ。私が動揺して焦るのを期待して、わざとやってるでしょ!)
内心のツッコミを口に出して抗議しようとしたものの、嬉しそうに目を細める瑞樹の圧倒的な美少女オーラに完全に気圧されてしまい、私は「……転ばないようにしっかりつかまってなさいよ」と、絞り出すように言うのが精一杯だった。
「ありがとうございます。……あ、遥さん、すごくいい匂いしますね」
瑞樹は私の腕にギュッとすり寄り、前を向いて歩き出した。
「なんか、こういうのすごく安心します。私、こうやって女の子同士で腕を組んで、普通の友達みたいに街を歩くの、ずっと夢だったんです。……すごく、嬉しい」
その声には、先ほどの小悪魔とは違う、どこかホッとしたような響きが混じっていた。
そんな風に言われると、無理に引き剥がすわけにもいかない。私は早鐘のように心臓を高速で鳴らしながら、瑞樹と一緒に歩くしかなかったのだ。




