第10話 フルスぺとAFT②
待ち合わせから少し移動して、私たちが向かったのは、都心の一等地に広がるとある場所だった。
立派な黒塗りの正門をくぐり、厳重な手荷物検査を抜けると、そこには日本とは思えない別世界だ。真っ白な石畳の先には国賓を迎えるために建てられたという、ヨーロッパの宮殿のような建物がそびえ立っている。
雲一つない、抜けるような青空。初夏の爽やかな風が、幾何学模様に整えられた庭園の緑を揺らしている。
「うわぁ……すごい。こんな場所でお茶できるなんて、知らなかったです」
瑞樹が、シフォンのスカートを風になびかせながら目を輝かせた。
「私もテレビで見ただけで、実際に来たのは初めてなんだけどね。休日のちょっと遅めの朝食と、お昼とおやつを兼ねるのにちょうどいいと思ったのよ」
(それに、ここなら会社の知り合いに出くわす心配もなさそうだし……)
心の中で付け足した。
私たちが案内されたのは、宮殿を真正面に見据える前庭のパラソルの下だ。
席に着くとすぐに、銀色の3段スタンドが運ばれてきた。下段にはブランチにぴったりのクロワッサンサンドやキッシュ、中段には温かいスコーン、そして上段には美味しそうな小菓子が並んでいる。
運ばれてきたティーポットから、琥珀色の紅茶をカップに注ぐ。ベルガモットと茶葉のふくよかな香りが、初夏の空気に溶けていく。
「うーん、気持ちいいですね。こんな恰好で、自由に誰かと話せるのって幸せです」
瑞樹くんはそう言って小さく伸びをした。
「瑞樹くんは家ではどんな姿でいるの?」
「会社と同じですね。親と暮らしているから」
「ああ、実家暮らしだったっけ?」
「そうなんですよ。しかも、結構、古い家で、同じ場所に江戸時代から住んでるって」
「へえ」
「家だけじゃなくて、考えも古いのでちょっと」
瑞樹くんは小さく肩をすくめた。
「瑞樹くんは家で――」
その時、瑞樹くんが急に小さく手を挙げた。
「一つ提案なんですが」
「ん? なに?」
「こうしてプライベートで会ってる間は、呼び方変えるのはありですか?」
「え? 呼び方?」
「自分が遥さんって呼ぶのはそのままでいいんですけど、この格好なのに瑞樹くんって呼ばれるのはちょっと」
「あー、なるほど、じゃあ、”みぃちゃん”とか?」
「みぃは、なんか猫っぽいですね」
「まあそうかなあ。じゃあ、”みっさん”?」
「それは母親に”みっくん”って呼ばれているのでいやです」
瑞樹はスコーンにクロテッドクリームを塗りながら、首を横に振った。
「うーん……じゃあ、”みーやん”?」
「やんって! なんで急に大阪のオバチャンキャラになっちゃうんですか?!」
間髪入れないツッコミに、私はたまらず吹き出した。
「あはは! ごめんごめん。じゃあ普通に、『瑞樹さん』? それとも呼び捨てで『瑞樹』でいい?」
「『瑞樹』でお願いします。その方が、女の子の友達っぽくて嬉しいです」
「わかったわ。よろしくね、瑞樹」
「はいっ、遥さん!」
名前を呼び合った瞬間、ふわりと温かい風が吹き抜け、瑞樹のウィッグの髪が揺れた気がした。
ただ「くん」を外して名前を呼んだだけなのに、不思議な感覚になった。目の前で花が咲いたように微笑む瑞樹が、気の合う「同性の友達」のように思えた。
「あー、そういえば瑞樹。さっきの話の続きなんだけど」
「はい、なんですか?」
「実家での話。親御さんに話してないなら、今日着てるような服はどうやって管理してるの? 下着とかもあるんでしょ?」
「自分の部屋のクローゼットの、さらに奥の衣装ケースに隠してます。洗濯も家の洗濯機は使えないので、全部コインランドリーで洗って、乾燥機で完全に乾かしてから持ち帰ります」
「うわぁ……大変そう」
私が顔をしかめると、瑞樹は苦笑を浮かべた。
「実は私、私服はもう全部レディースなんです。メンズの服は、会社に着ていく用のスーツと、最低限のズボンとワイシャツしか持っていなくて」
「買う時はどうしてるの?」
「基本はネット通販です。もちろん家には届かないようにしてます。コンビニ受け取りとか、駅のコインロッカー宛に指定して。段ボールや服のタグも、全部外で処分してから帰るんです」
「そこまで徹底してるんだ」
「あと困るのメイク道具ですよね。文房具のポーチに偽装したり、カバンの底の底に隠したり。……それでも、母親が勝手に部屋を掃除しようとするたびに、心臓が止まりそうになるんです」
瑞樹は、ティーカップの縁を指でなぞりながら、ふっと視線を落とした。横顔に影が落ちる。
「バレたら確実に失望されます。代々続く家を守る両親の『普通の期待』を裏切るのが、たまらなく怖いんです。
震えるような細い声。きっと同じような少数派の私よりも、瑞樹の方が悩みは多いのだろう。
私の「女性が好き」というのは、隠そうと思えば隠せる。誰だって、普段から自分の恋愛対象を看板に掲げて歩いているわけではない。適当に話を合わせて沈黙していれば、波風は立たない。
でも、瑞樹は違う。
自分の「実体」と、社会から求められる「当然」のズレを、物理的に埋め合わせして、隠し続けなければならない。一日中365日ずっと。
(なにか、私にできることってないのかな)
と、思った。
『私も同じだよ』と。
『私も親の思いには応えられそうにないんだよね』と、言えたら。そんな風に寄り添ってあげられたら。
「……あのさ、瑞樹」




