第8話 ガランガルの香りとDJ乙姫③
瑞樹くんはすぐに頷いた。
「そうですね。僕は、男性が好きです」
「そっか。やっぱり、そうなんだ」
安心するのと同時に、なぜか、ちょっと寂しいような。
私は百合で女性が好き。
瑞樹くんは女になりたいから男性が好き。
私たちは「マイノリティ」という点では同じ場所に立っているけれど、向いている方向は正反対。パズルのピースは、永遠に噛み合わない。
別に今、瑞樹くんのことが好きってわけでは全くないけれど、このまま彼がさらに女性のようになったとしたら……。振られたパートナーにどこか似ている彼のことを好きにならないとは限らない。
でも、その逆は、ないということだ。
それは、最高に安全な結論だった。絶対に交わらないからこそ、傷つくことも、関係が壊れることもない。私たちは、永遠に平行線のまま、隣り合って歩いていけるマイノリティの戦友になれるのだ。
氷が溶けきったウォッカ・ライムを飲み干し、私は腕時計に目をやった。
「そろそろお開きにしよっか。これ以上飲むと、明日の業務に支障が出るわ」
「ですね。今日は本当に……ありがとうございました、助けてくれただけじゃなくて、色々と愚痴も聞いてもらっちゃって」
「上司だもの。当然。これからも何かあったらなんでも相談して。ドヤ」
「自分で言ってるじゃないですか!」
クスクスと笑い合いながら、私は心のどこかで、ふっと静かな寂しさを覚えていた。これ以上踏み込めないし、踏み込まれることもない。その絶対的な安全圏の距離感が、今の私には少しだけ安心であり、少し寂寥を覚えるのだ。
タイ料理店を出て駅に向かって歩きながら、私は今日という長くて濃密すぎた一日を心の中で整理していた。
多目的トイレでの着替え。スポブラの調達。パサパサのカロリーメイト。タイ料理屋での切ない語らい。
本当に、キャパオーバーの一日。私の中に芽生えかけた小さな感傷も、自分の立ち位置を理解したことで、この夜風に紛れて綺麗に消え去っていった(はずだ)。
駅前広場に辿り着いた。酔客の笑い声、客待ちタクシーの列、家路を急ぐ無数の足音。繁華街のネオンが、濡れた路面に極彩色の影を落としている。
改札前。
私がスマホをかざして彼に向き直り、
「じゃあ、また明——」
言いかけた、その瞬間だった。
「あの、遥さん。……少し、いいですか」
その喧騒の中でもしっかりと聞こえるような、真剣な声が私を呼んだのだ。
振り返ると、そこには街灯の逆光を背負った、整いまくった顔面がある。
彼は酔っている様子もなく、むしろ仕事中よりも真剣な面持ちで、背筋をピンと伸ばして私を見つめていた。
その真っ直ぐすぎる視線に、私は思わず身構えてしまった。
「え、なに? 忘れ物?」
「いえ。……今度の日曜日、お時間いただけませんか?」
「は?」
(——というわけで、冒頭のパニックに戻るのだ)
「……今度の日曜日、お時間ありませんか?」
「会社じゃなくて……プライベートで。会ってほしいんです」
「えっと、なんで????」
思考がショートした私は、バカみたいに素っ頓狂な声を出してしまった。
なんでそうなる。さっきバーで「私たちは永遠に交わらない平行線だから安全ね」って、私の中でめちゃくちゃ綺麗に結論づけたばっかりじゃない。なんで休日にわざわざプライベートで会う流れになる???
私が戸惑って問い返すと、彼は少し恥ずかしそうに、でも凛とした声で言った。
「見せたいんです。……ちゃんとした服で、本当の僕……いや、私の姿で、遥さんに会って、ちゃんとお礼が言いたいんです」
「……本当の、私?」
オウム返しに呟いてから、数秒遅れて脳内にその言葉の意味が滑り込んできた。
「あっ」
「はい」
「それって、つまり……」
「……」
私が恐る恐る指を差すと、瑞樹くんは少し頬を染めながら、コクンとはにかむように頷いた。
——つまり、あの「男性用スーツ」という窮屈な擬態を完全に解いた、フルスペックの女の子の姿で現れるということか!!
いやいやいや! 待て待て待て!
男性の姿でさえ、これだけ整いまくった圧倒的美少年なのだ。そんな素材の暴力みたいな子が、本気でメイクして、本気で可愛い服を着てやって来たらどうなる!?
さっき「私は女性が好き。あなたは男性が好き。だから私たちは安全!」って自分に言い聞かせたばかりなのに!
もし私がそのフルスペックの姿を見て、不覚にも『女』としてガチでときめいちゃったらどう責任取ってくれるのか。
脳内で非常ベルがガンガン鳴り響く。
けれど、「これからも何かあったらなんでも相談して」、などと言った手前、むげに断れるはずもなく、、、
「……わ、わかったわよ。会うのは、別にいいけど」
「本当ですか!」
「その代わり、ただのなんちゃって、みたいな中途半端な格好で来たら、私、容赦なくダメ出しして帰るから」
私がわざと意地悪くプレッシャーをかけると、瑞樹くんは怯むどころか、口元に余裕の笑みを浮かべた。
「ふふっ。望むところです。遥さんこそ、覚悟しておいてくださいね。僕の『|
本気』を見て、あまりのガチさに驚かないでくださいよ?」
ニヤリ、と。
彼——いや、彼女が見せるその不敵な笑みに、私は素直に戦慄する。
(……やばい。この子、自分がどれだけハイスペックな素材か、完全に自覚してるタイプ)
ただの美少年だと思っていたのに、まさかこんな自信たっぷりの顔を見せてくるとは。さらに瑞樹くんの新たな一面を知った気がした。
「言ったわね。日曜のスケジュール、あとでチャットで送るから」
「はい! 楽しみにしてます!」
これ以上言葉を交わしたらボロが出そうな気がして、私は詳細な時間や場所も決めないまま、逃げるように彼に背を向けて改札をくぐった。
振り返らなくても、背中に彼の楽しげな視線を感じる。
まずいまずい、と思いつつも、私は心臓を柄にもなく、甘くけたたましく鳴らせながら駅の階段を昇って行った。




