第7話 ガランガルの香りとDJ乙姫②
【午後7時5分 タイ料理店】
私たちがこっそりと落ち合ったのは、地下鉄で数駅ほど移動した場所の雑居ビルにある、タイ料理店だった。ここには何度も来ているが、職場のメンバーを見かけたことはない。
私が店に入った時、瑞樹くんはすでに到着済で、店の一番奥の目立たないテーブル席に座っていた。
いつもオフィスで見せる、背筋をピンと伸ばした隙のない姿ではない。彼は少し猫背になって首の後ろを揉みながら、丸めたおしぼりで顔の半分を覆うようにして「はぁーっ」と深いため息をついていた。
私が近づいていくと、気配に気づいた彼がおしぼりからパッと顔を上げた。
「おつかれー。早いね」
「お疲れ様です」
「なんか疲れた顔してたね」
「なんか今日は色々苦しくて……。お昼はゼリーだけでしたし、それに……ここが、めちゃくちゃ苦しくて」
瑞樹くんは周囲に客がいないことを確認すると、自分の胸元をトントンと指差して、眉を下げた。
「正直、遥さんセレクトのこの下着、ホールド力が高すぎて息が……」
昼間に私が買ってきた安い白シャツは第一ボタンが開けられていて、ほんの少し、無防備さが見え隠れしている。どうやら、秘密を共有したことで緊張感の糸が一本切れたらしい。
「贅沢、言わない。大急ぎだったんだから」
「すみません、もちろん、本当に感謝してますよ!」
悪びれもなくニッコリと笑う瑞樹くんは、今朝までの『完璧な部下』とは少しだけ雰囲気が違っていた。なんというか、隠し事の重圧から解放されて「吹っ切れた小鹿」とでも言うべきか。
でも、そんなふうに少し生意気で人間くさい瑞樹くんも、決して悪くなかった。
私たちは奥のテーブル席につき、まずはシンハービールで乾杯した。グラスに浮かぶ獅子のマーク。冷えた黄金色の液体が、乾いた喉に染み渡る。
瑞樹くんがグラスを置き、イキイキとした目で言った。いつもの涼しげな美少年スマイルではなく、心の底から美味しそうな顔だ。
「瑞樹くんて、結構お酒飲むの? その飲みっぷり」
「はい。たいてい、どこかで軽く晩酌して帰ります」
「へえ、意外。まっすぐ家に帰って、ハーブティーでも飲んでそうなのに」
「……なんか昼間、色々と抑圧されてるじゃないですか。だから、ついお酒でリセットしたくなるんですよね」
瑞樹くんは少し自嘲気味に、でもどこかスッキリした顔で笑う。
「なによそれ。まるで私が鬼上司として抑圧してるみたいじゃない」
私がわざとジロリと睨んでみせると、彼は慌てて、でも楽しそうに両手を振った。
「いやいや! 遥さんのことじゃなくて! もっと根本的な、社会とか息苦しさの話ですよ」
「フフ、冗談。分かってるわよ」
私は笑って、自分のジョッキを傾けた。
「さあ、注文しましょ。今日は通なメニューで攻めるわよ」
「賛成です。今日はもう、中途半端な刺激じゃ満足できないんで」
私が選んだのは、トムヤムクンとかパッタイとか、タイ・ランチで食べるようなセットものではなく、お酒にも合う通なメニューだ。
まずは「ヤムウンセン(海老と春雨の温製サラダ)」。プリプリの海老と、豚ひき肉、そしてたっぷりのパクチー。唐辛子の刺激的な辛さとライムの酸味が、脳天を直撃する。
「んんっ! 辛い! でも美味しい!」
「でしょ? この酸っぱ辛さがクセになるのよ。これをビールと一緒に食べるのが私は好き」
「最高です」
続いて運ばれてきたのは、揚げたて熱々の「ポーピア・トート(タイ風揚げ春巻き)」だ。
「あれ? ここの春巻き、生じゃないんですね」
「ふふ、よくある勘違いね。ベトナムの生春巻き(ゴイクン)は有名だけど、タイは揚げ春巻きもメジャーなのよ」
私は得意げにウンチクを垂れた。
「……なるほど」
「ベトナムのは味噌ダレやピーナッツソースで食べるけど、タイは『スイートチリソース』が基本。あとね、中の具材もタイとベトナムだとちょっと違うの。そこがタイ料理の違いの最大ポイントだと私は思ってる」
「ポイント?」
「食べてみて。ここのは分かりやすいから」
瑞樹くんがサクッ、と音を立てて春巻きを齧る。
ハフハフと熱がりながら、彼は目を見開いた。
「……あ! 生姜の香りがします!」
「正解。ガランガルをいっぱい利かせるの。このシトラスな香りが病みつきになる理由。これがスイートチリと合うのよ」
「へえ」」
私の解説に、彼は素直に感心するように何度も頷いた後、ふとイタズラっぽく目を細めた。
「……遥さんって、仕事の時もそうですけど、こういうウンチク語り出すと急に生き生きしてドヤ顔になりますよね」
「えええ? そんなドヤ顔になってる?」
「い、いや、悪い意味じゃなくてですよ」
「ドヤ顔をどう分解したら良い意味が持たせられるのよ!」
私が抗議すると、彼は声を上げて笑った。つられて、私も吹き出してしまう。
明らかに、秘密を打ち明けてからの瑞樹くんは変わった。人との間に引いていた見えない壁が、スルスルと取り払われているのがわかる。これまで彼がオフィスで纏っていた「完璧で隙のない美少年」という空気は、本当の自分を隠し、誰にも踏み込まれないようにするための、彼なりの防護壁なのかな、とすら思ってしまう。
シンハービールのおかわりが進み、テーブルの上にはほんの少し残ったヤムウンセンの皿だけが残っていた。
アルコールが回ってきたのか、瑞樹くんの白い頬がほんのりと桜色に染まっている。
「……でも、今日、遥さんに本当のことを知ってもらえて、実はホッとしました」
グラスの水滴を指でなぞりながら、彼がふにゃっと笑う。
「なんかもう、僕みたいな人間の日常って、ツッコミどころの連続なんですよね。特にホルモン治療。あれ、ヤバいですよ」
「ヤバいの? 注射とか?」
「僕は錠剤なんですけどね。朝晩、フリスクみたいなちっちゃい白い錠剤を飲むだけなんです。たったそれだけなのに、人間の体の基本構造が勝手にアップデートされていくんですよ。怖くないですか?」
彼は真顔で身を乗り出してきた。
「肌の質感が変わったり、胸が出てきたりするのは望んでるから嬉しいんですけど。……その、生物学的な『オス』としての機能が、見事にシャットダウンしていくんです。朝の男性特有の元気な生理現象とかも、ある日を境にパタッと来なくなる。『あ、うちの工場の生産ライン、完全に止まりました!』みたいな」
「……表現が露骨すぎるわよ」
「いや、本当ですよ! 平和でいいんですけど、自分の体が根底から『別の生き物』に書き換えられてる感があって、時々めっちゃ不安定になるんですよね」
瑞樹くんはマイノリティでもシスジェンダーの私には理解できない、大変さを飄々と語っている。
「あとは何と言っても、トイレ問題ですよね。男子トイレは戦場ですよ」
「まあ、異性と一緒にトイレするのは気になるでしょうね」
「それもあるんですけど、一番の悲劇は……『音姫』がないことですよ」
瑞樹くんは、今日一番の真剣なトーンで言い放った。
「遥さん、想像してみてください。おじさんたちが無言で並ぶ、あの静まり返ったタイル張りの空間で、どうやって乙女がエレガントに用を足せと言うんですか! 毎回、水を流すレバーのタイミングと自分のタイミングを合わせる、高度なDJプレイを要求されるんですよ!? 疲労困憊です」
「……ぶっ! 何よそれ、DJプレイって!」
私はたまらず声を上げて笑ってしまった。瑞樹くんも「笑い事じゃないですよー」と言いながら、一緒にクスクスと笑っている。
「……でもね」
ひとしきり笑った後。瑞樹くんが、グラスの氷をカランと揺らして、少しだけ目を伏せた。
「毎日薬飲んで、胸を隠して、トイレでDJプレイして……正直、めちゃくちゃしんどいです。いつまでこんな嘘ついて綱渡りするんだろうって、怖くもなります」
さっきまでのポップな口調の裏側にあった、ヒリヒリとした本音が顔を出す。
「でも、朝起きて鏡を見たとき、自分の肩のラインが少しだけ丸くなっていたり、肌が柔らかくなっていたりするのを見ると……やっぱり、『ああ、私、女の子になりたいんだな』って、心の底から思っちゃうんです。その気持ちだけは、どんなに大変でも、絶対にごまかせないんですよね」
彼の声は微かに震えていた。
不便でも、恐怖があっても、それでも「自分」であることを諦められない。
その言葉は、ただの愚痴じゃない。社会のシステムと自分の存在との間に横たわる溝を、血を流しながら越えようとする切実な決意だった。
私には、彼のその「笑い話の裏にある孤独」を、部分的には分かる気がする。私も、給湯室での同僚たちの「彼氏いるの?」「結婚は?」という無邪気な恋バナに対して、いつも適当な嘘を吐いてやり過ごしている。親からのプレッシャーにも、笑って誤魔化し続けてきた。
社会の「普通」という枠組みから外れた人間が支払わされる、マイノリティ税のような息苦しさ。彼も私も、同じ冷たい海の中で、必死に笑いながら息継ぎをしている同類なのだ。
「そういえばさあ」
私はウオッカ・ライムの縁を指でなぞりながら聞いた。
「はい」
「瑞樹くんの場合、恋愛対象ってどうなるの? ……女性になりたいってことは、やっぱり男性が好きなの?」




