第6話 ガランガルの香りとDJ乙姫①
繁華街のネオンが、水たまりの残る路面に極彩色の影を落としている。
昼間に降った激しい雨はとっくに上がっていたけれど、アスファルトからは、都会特有の埃っぽさと混じり合った、むっとするような湿った匂いが立ち上っていた。終電間際の駅前広場。酔客の笑い声、客待ちタクシーの列、家路を急ぐ無数の足音。
その喧騒の中でもしっかりと聞こえるような声が、私を呼んだ。
「あの、遥さん。……少し、いいですか」
私が「じゃあ、また明日」と改札に向かおうとしたその瞬間だった。振り返ると、そこには街灯の逆光を背負った、整いまくった顔面がある。
彼は酔っている様子もなく、むしろ仕事中よりも真剣な面持ちで、背筋をピンと伸ばして私を見つめていた。
その真っ直ぐすぎる視線に、私は思わず身構えてしまった。
「え、なに? 忘れ物?」
「いえ。……今度の日曜日、お時間いただけませんか?」
「は?」
私の口から、間の抜けた音が漏れた。
いや待って。「は」ってなんだ。もっと気の利いた返事はなかったか?
しかし、瑞樹くんはそんな私の反応など気にする様子もなく、さらに一歩、距離を詰めてきた。
「会社じゃなくて……プライベートで。どうしても、会ってほしいんです」
真剣な眼差し。
——ザワッ。
私の背筋に、ときめきとは真逆の、得体の知れない戦慄が走る。
いやいやいや! 待て待て待て! なんなのだ、このシチュエーション!?
夜の街。美少年の部下! 真剣な眼差しで「日曜空いてますか」! 一般的な状況なら、ここで「あら、デートの誘い?」なんて余裕をかますところだ。あるいは「社内恋愛禁止よ」と笑ってかわすのが大人の女のマナーかもしれないが、彼の秘密を知る私はちょっと事情が違う。そして個人的にも……。
確かに瑞樹くんは美少年で仕事ができる”ういやつ”ではあるけれど、そんな休みにプライベートで会おうなんて思ったことなんてない。
(そもそも、なんで、こんなことになったんだっけ?)
私は引きつった笑顔を貼り付けたまま、今日という、あまりにも濃厚すぎてキャパオーバーな一日を、走馬灯のように脳内で巻き戻した。
【午後0時50分 オフィスビル最上階】
時間を、8時間ほど巻き戻そう。トラックの水しぶきを私の代わりに被弾して、瑞樹くんがカミングアウトしてから小1時間ほど経過した、午後の始業時間の10分前――。
オフィスの入っている高層ビル、その最上階にある多目的トイレの前で、私は腕を組んで彼を待っていた。
カチャリ。
重たいスライドドアのロックが外れる音がして、扉がゆっくりと開いた。
「お待たせしました」
中から出てきた瑞樹くんを見て、私は小さく安堵の息を吐いた。
私がさっき駅チカの大型量販店の衣料品売り場で、大急ぎで調達した間に合わせのコーディネート。
ワゴンセールで売っていた、形状記憶の白シャツ。ボトムスは、動きやすさと安さが売りの、黒のキレイ目ストレッチパンツ。
トータル数千円の急ごしらえな恰好でも、濡れた髪をハンドドライヤーで乾かし、ふんわりとした質感に戻った彼が着ると、まるでカタログモデルのように様になっている。今日はもう出張はないからこんなものでいい。
でも、大事なのはそこじゃない。私は、彼の胸元に視線を走らせる。
少し透け感のある実用シャツの下には、一緒に買ってきた機能性重視の肌色スポーツブラが装着されているはずだ。ランニング用の、締め付けが強いハイサポートタイプ。
「どう? 下着のサイズ」
「ぴったりです。あの……パッド、抜いてくれてたんですね」
「あなたの場合、丸みを出したら意味がないんだから」
パッドを抜いた強力なゴムのスポブラは、胸の脂肪を背中へ逃がし、簡易的なナベシャツとして機能するのだ。シャツのボタンの隙間から、変な浮きや当たりが出ていないかチェックする。綺麗にフラットになっている。
「ありがとうございます。これなら、普通のインナーに見えます」
「これから夏場だから、上着を着ない時は注意した方がいいかもね」
「はい。あと、これ……ありがとうございました」
瑞樹くんが申し訳なさそうに差し出したのは、綺麗に折り畳まれたオレンジ色のポンチョ。
買った時よりも四角く、角がピシッと揃っている。こういう几帳面さに性格が出る。
「脱いだ服はどうした?」
「あ、ビニール袋に入れて、新品の入っていた紙袋に入れとき……」
「もらっておくわ。ロッカーに入れておくから」
「い、いえ! 汚れた服なんて悪いですから。 自分で持ちます!」
「いいから。そんなの持ち歩いて、なにかあったら大変でしょ。私が持っていた方が安全なんだから」
私は半ば強引に紙袋をひったくると、自分の手荷物と一緒にまとめた。
「残念だけど、タイ・ランチはお預けね」
腕時計を見る。12時55分。午後の始業まで、あと5分。持ち帰りの時間すらない。
「えっ……あ、そうですね。時間、ないですね」
ひもじそうな彼の顔の目の前に、私は買っておいたコンビニの袋からカロリーメイトとゼリー飲料を取り出した。
「デスクでも片手で食べられるでしょ? とりあえず今はこれで我慢しましょう」
「ありがとうございます! 遥さんって、本当に準備がいいですね」
「ビジネスパーソンの基本でしょ。リスク管理と兵站の確保は」
私たちは急いでエレベーターホールへと向かった。
やってきた箱に乗り込む。鏡張りの密室に、並んで立つ二人。
チン、と到着音が鳴り、ドアが閉まる。
ふと、鏡面仕上げの壁に映る瑞樹くんを見た。外見は、いつもの優秀な男性部下だ。安物のシャツすら着こなす、完璧な美少年。でも、私にはもう、さっきまでとは違って見えた。
あの薄いシャツの下に、柔らかい秘密を隠していること。この凛とした立ち姿の内側で、誰にも言えない孤独と戦っていること。それを知ってしまったからだろうか。
彼の横顔が、以前よりもずっと人間らしく、そしてどこかマイノリティである自分の好ましい同類として、私の目に映っていた。
「……戻ったら、午後の会議の資料チェックするわよ」
「はい!」
オフィスフロアに到着し、私たちは何食わぬ顔でそれぞれのデスクへと戻った。
結局、マウスを握りながらボソボソとこぼれるカロリーメイトを水で流し込むだけの、実に色気のないランチとなった。
口の中に広がるパサパサとした食感を持て余しながら、ふと向かいの席を盗み見る。
そこには、私と同じように無表情でモニターを見つめながら、ゼリー飲料をチューチューと吸っている瑞樹くんの姿があった。
そのちょっとシュールな光景を見ていると、なんだか無性に「物足りなさ」が込み上げてきた。
いや、もちろん楽しみにしていた激辛トムヤムクンが、パサパサのブロック食に化けた恨みもある。あるけれど、理由はそれだけじゃなくて。あんなドタバタハプニングの末に、彼の特大の秘密を知ってしまったのだ。「実はいろいろありまして」なんて立ち話だけで、はいそうですかと終わっていいものかとも思う。同じマイノリティのよしみとして(?)、もっとちゃんと、腰を据えて彼の悩みは聞いてあげたい。
(……もっとも彼も話したいと思っていればの話だけどねー)
私は嘆息しながら、資料作成に戻った。
【午後4時 オフィス】
大会議室の空気は、死んだように淀んでいた。
午後4時からの全プロジェクト持ち社員向けの定例会議。スクリーンに映し出される、終わりの見えない進捗管理表。お偉いさんの念仏のような訓示。
私は無表情でキーボードを叩き、議事録を取っていた。
向かいの席には、新しい白シャツに着替えた瑞樹くんが座っている。
彼は真剣な眼差しでモニターを見つめ、時折頷いている。相変わらずの美少年ぶりだが、その背筋がピッと伸びすぎているのが、少しおかしい。
きっと彼も、あの濡れたシャツの下にある「ナベシャツ」の締め付けと戦っているのだろう。
私はふと、魔が差した。社内チャットツールを開く。宛先は、目の前の彼だ。
[Haruka Miyama]
『今日のランチの件。夜、リベンジしない?』
送信。
数秒後。瑞樹くんの視線が、モニターの端に動くのが見えた。
ビクッ、と彼の肩が跳ねる。
彼は目を丸くして私を見た後、周囲をキョロキョロと確認し、慌ててキーボードを叩き始めた。
[Mizuki Seto]
『えっ、今日ですか!?』
[Haruka Miyama]
『タイ・ディナーにしよう。時間はある?』
[Mizuki Seto]
『あります。行きたいです!』
私はオフィスから少し離れた場所のタイ料理の店のリンクを張った。
[Haruka Miyama]
『じゃあ19時にここで。現地集合で』
ウィンクのスタンプを送ると、彼はコクコクと小さく頷いた。
私はディナーの誘いのマッチング成功を素直にうれしく思いながら、ふと、奇妙な感覚になった。
(……あれ? ♂((生物的な意味で!))と二人でご飯を食べることにワクワクするのは人生で初めてじゃないか?)
そりゃあ、友達とか仕事の付き合いで男性と食事をする機会は過去に何度かあった。でもそれは「ただの栄養補給」か「友達づきあい」でしかなく、心躍ることなんて一度もなかった。だって私は、男性に対しては1ミリも恋愛的な興味が湧かないのだから。
なのに今の私は、明らかに謎の高揚感に包まれている。
それは決して、彼がアイドル顔負けの美少年だから……というわけじゃないと思う。たぶん彼のカミングアウトに関係しているんだ。




