第5話 ポンチョ(合羽)とクロッキング(看破)②
私は「オレンジ色の巨大テルテル坊主」と化した瑞樹くんを連行し、すぐそばにそびえ立つ、巨大なコンクリートの要塞へと駆け込んだ。
閑散としたエントランスホールを抜け、端にあるエレベーターで一気に屋上へ。
上昇する密室の中、ポンチョ姿の瑞樹くんは、一度も顔を上げることなく、ただ無言で床に滴る雫を見つめていた。
チン、と扉が開く。
そこには、地上とは別世界の静寂が広がっていた。
ここは、首都高と幹線道路が複雑に立体交差する、巨大なジャンクション。そのとぐろを巻くコンクリートの壁に「蓋」をするように作られた、知る人ぞ知る「天空の庭園」だ。
職場からも近く、平日は驚くほど空いている。外回りの合間にサボ……いや、思考を整理したり、誰にも邪魔されずに軽食を摂るのによく使う、私のとっておきの隠れ家だ。
予想通り、雨の平日の庭園に人影は皆無だ。私は彼を誘導し、庭園のさらに奥、目立たないベンチへと向かった。
「……はあ。今更、晴れてくるなんてね」
私は忌々しげに傘を畳むと、厚い雲の切れ間から差し込み始めた、皮肉なほど明るい陽の光を仰いだ。
「……あの、遥さん。これには事情が……その、僕、女装に少し興味があって……」
瑞樹くんはポンチョの中で小さくなりながら、蚊の鳴くような声で言い訳を紡ぐ。
震える唇。泳ぐ視線。
私は小さくため息をつくと、自販機で買ったばかりの温かいミルクティーの缶を、彼の冷たい頬にピタリと押し当てた。
「……っ」
「嘘でしょ。女装趣味の男の子は、そんな痛そうな下着、つけないわよ」
ポンチョで隠された彼の胸元へ目を向ける。
トラックの泥水を浴びて、彼の白いワイシャツは完全に透けていた。そこに浮き上がっていたのは、男性の筋肉ではない。膨らみ始めた胸を、無理やり平らに押し込めるための、ベージュ色の「補正下着」の無骨なライン。そして、その拘束具から溢れ出しそうな、なだらかな曲線。
「女性ホルモンーー飲んでるんでしょう。そうでないと、男性であんな風にはならない」
「……」
「それに瑞樹くん、外だと『多目的トイレ』しか使わないじゃない?……男子トイレを使いたくないから? それとも、使えないから?」
私の言葉が一つ落ちるたびに、彼の肩が小さく跳ねる。図星を突かれた子供のように、彼は言葉を失い、ただ足元の水たまりを見つめている。
「……」
「瑞樹くん」
私は一度、深く息を吸い込み、その呼び名を口にした。
「あなた、もしかして……女、になりたいの?」
瑞樹くんの目が、大きく見開かれた。
時が止まる。
屋上庭園の風が、濡れた二人の髪を揺らして通り過ぎていく。
「…………はい」
消え入りそうな、肯定。
彼は俯いたまま、ポンチョの裾をギュッと握りしめ、震える声で言葉を絞り出した。
「……す、すみません」
「謝ることじゃないから」
「騙すつもりじゃ……。趣味じゃ、ないんです」
「うん」
「これ……着けてないと、ダメなんです」
彼は、自分の胸元を隠すように腕を回し、弱々しく首を振った。
「薬のせいで……最近、どうしても目立つようになってきて……。普通のシャツだと、形が分かっちゃうから……」
「……」
「だから、潰さないと……。会社で……バレちゃうから……」
言葉の端々が、恐怖で震えていた。
「始めてからどれくらいなの? ホルモン治療」
「1年半くらいです」
1年半。それは、身体を作り変えるには十分すぎず、けれど戻ることもできない、長い長い時間だ。
(……ああ、そうか)
あの石膏像のような不自然なほどの白さや、女性顔負けの線の細さ。そしてこの年齢の男性ならあるはずの髭の跡や、脂ぎった質感が皆無だった理由。
それは単なる生まれつきの美少年だからではなく、人工的に維持された、ガラス細工のような儚さだったのだ。
命がけで、自分の「設計図」を書き換えようとしている。彼は——彼女は、「ガチ勢」だ。
「……会社には、言ってません」
瑞樹くんは、ポンチョの裾をきつく握りしめたまま、震える声で言葉を吐き出した。
「バレたら……いられなくなるかもしれないし」
彼は涙目で私を見上げる。その瞳に映っているのは、単なる「解雇」への恐怖じゃない。社会という巨大なシステムから、マイノリティとして排除されることへの根源的な怯え。
「お願いです、遥さん。誰にも言わないでください。僕、仕事はちゃんとしますから……! 迷惑はかけませんから……!」
その必死な懇願に、私の心臓がギリリと軋んだ。
(……ああ、私と同じだ)
私もずっと、怯えていた。
『同性が好きだってバレたら、出世コースから外されるかも』
『一緒にいるのもムリって、後ろ指をさされるかも』
そうやって怯えて、タワマンだのポルシェだのという分かりやすい装備で全身を固めたかったのは、自分のプライベートに踏み込めないように武装が欲しかったから。「鋼鉄の女」なんて異名は、私が自分の秘密を守るために作り上げた、ただのハリボテに過ぎない。
そして——。
(……たーちゃん)
かつてのパートナーの笑顔が脳裏をよぎる。
私は大切に思っていた彼女の気持ちを、そのハリボテの武装を大切にするあまりに守りきれなかった。
(瑞樹くんに、あんな風にはなってほしくないな)
目の前で震えるこの才能ある若者を、かつての私のように、孤独な戦場で殺させはしない。それが、何も守れなかった私への、せめてもの贖罪だ。
私はしゃがみこみ、彼の濡れた目線に合わせて視線をロックした。
「……言うわけないでしょ」
努めて明るく、そして力強く言い放つ。
「え……」
「だって……」
「?」
「だって、前にも言ったでしょ。私は肉が霜降りなら中身がなんだろうといいの。瑞樹くんがトランスだろうが何だろうが、そんなのどうでもいい。あなたの価値は、その完璧な仕事ぶりと、それに、いい性格。さっき私が濡れネズミになるのを守ってくれるようなジェントルマン、いやレディ? なんだから」
「遥さん……」
「私に必要なのは優秀な人材。性別はただのパラメータ設定の一つに過ぎないわ」
私は口角を上げてみせた。
瑞樹くんの強張っていた表情が、安堵でくしゃりと崩れていくのが分かった。
「ジェントルマンは遥さんの方じゃないですか?」
いつものスマイルに戻った瑞樹くんがそこにいた。
私はホッと安堵する。
けれど、同時に胸の奥に、チクリとした痛みが走った。
(……ごめんね、瑞樹くん)
私は欺瞞している。
『だって私も、実はマイノリティなんだから……』
と、喉元まで出かかったその言葉を、飲み込んでしまった。彼がこんなに無防備に全てを晒してくれたのに、私はまだ、安全な鎧の中に隠れたまま、彼に「理解者」の顔をしている。
それが卑怯なことだと分かっていても、どうしても、勇気が出ない。
だから私は、精一杯の強がりと、少しの自虐を込めて、こう付け加えることしかできなかった。
「まあ、私だって、人には言えない秘密のひとつやふたつ、あるしね」
私は自嘲気味に笑って、人差し指を口元に立てた。それが精一杯の「共感」のサインだったのだ。
「さて。秘密の共有も終わったから、現実的な問題を片付けましょうか」
私は腕時計を見た。
「午後からのミーティングまで、あと1時間半。その格好でオフィスに戻るわけにはいかないでしょ」
「あ……」
瑞樹くんが自分の濡れた姿を見て、再び青ざめる。 シャツもズボンもまだ濡れている。ポンチョを脱いだ瞬間、社会的に死ぬ。
「ここで待ってて。私が近くのショップで、代わりの服を買ってくる」
「えっ、そ、そんな! 悪いです!」
「上司命令。ここであなたに風邪でもひかれてプロジェクトに穴を開けられる方が困るの。サイズを教えてくれる?」
私はスマホのメモアプリを開いた。
「シャツはメンズのSでいいとして……パンツのサイズは?」
「えっと、メンズのSか、レディースならMかL……あ、いや、なんでもないです」
「はいはい、わかった。……で」
私は少し声を潜めた。
「……『上』は?」
瑞樹くんがビクッと体を強張らせる。
「……え?」
「いや、だから。濡れたままじゃ気持ち悪いでしょ。替え、買ってきてあげるからサイズ、言える?」
彼はモジモジと視線を泳がせ、周囲に誰もいないことを何度も確認してから、私の耳元に顔を寄せた。
蚊の鳴くような声で告げられた数字。 それを聞いた瞬間、私の動きが止まった。
(……は?)
私は思わず、まじまじと彼のポンチョの上半身を見つめ、それから自分の胸元へと視線を落とした。
(……嘘でしょ?……私と大差ないじゃないのよ……!)
1年半程度のポッと出の新人と、1ジェネレーション近く女やってる私が大差ないというのか。思わず変なテンションになって、笑いがこみ上げてきた。
「……ふっ、ふふふ」
「み、遥さん? なんで笑ってるんですか?」
「なんでもないわよ! ……ちょっと、行ってくる!」
私はきびすを返し、弾むような足取りで駆け出した。
タタタッ、とヒールが濡れたアスファルトを叩く。
見上げれば、分厚い雨雲が割れ、そこから突き抜けるような青空が覗いていた。降り注ぐ陽の光が、街中の水たまりをキラキラと宝石のように輝かせている。
(……まあ、悪くないか)
私は眩しさに目を細めながら、風を切って走った。




