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第4話 ポンチョ(合羽)とクロッキング(看破)①

 窓を叩く雨音で、目を覚ました。


 カーテンの隙間から、鉛色の光が差し込んでいる。あいにくの雨だ。それも、東京の街全体を水槽の底に沈めてしまうような、重たくて静かな雨。

 あれから、早一ヶ月。季節は少しずつ進み、私の心の時計だけが、あの日から止まったままだった。


 私は重い身体を起こし、リビングへと向かう。広すぎる2LDKのタワーマンション。その一角にある、今はもう開けられることのない洋室のドアが目に入る。私は吸い寄せられるようにそのノブを回した。


 ガラン、とした空間。


 そこは以前、たーちゃんがアトリエとして使っていた部屋だ。イーゼルも、キャンバスも、絵の具の匂いも、すべてが消え失せている。残っているのは、壁に掛けられた時計と、主を失ったカーテンだけ。


 あれから一ヶ月。電話はおろか、LIN○の通知すら一度も鳴っていない。まるで最初から、この部屋には私しか住んでいなかった錯覚に陥りそうになる。


「……はあ、雨かあ」


 私は窓ガラスに額を押し当て、下界を見下ろした。

 私は雨が大嫌いだ。湿気で巻き髪は爆発してメデューサみたいになるし、お気に入りのヒールは泥の餌食。タクシーは幻の生き物みたいに捕まらないし、傘なんていう「片手が塞がるだけの棒」を持ち歩かなきゃいけない。

 効率と美学を愛する私にとって、雨は「人生の邪魔者」以外の何物でもない。

けれど、たーちゃんは違った。


『雨って好きだよ。世界中のノイズを消してくれるから』


 そう言って、彼女はよくベランダに出て、そんなポエムみたいなことを言っていた。


『街の輪郭がぼやけて、水彩画みたいに優しくなるでしょ? 晴れた日の東京は、ちょっと眩しすぎて目が痛いから』


 その横顔が印象的で、私は「ふーん、洗濯物が乾かないから嫌よ」なんて憎まれ口を叩きながらも、雨音に混じる彼女の静かな吐息を聞くのが好きだった。


(……ダメね。湿気のせいで、古い記憶までカビみたいに浮き上がってくる)


 私は頭を振り、思い出を部屋の奥へと押し込んだ。感傷に浸っている時間はない。私は「鋼鉄の女」だ。雨だろうが槍が降ろうが、仕事という戦場に向かわなければならない。

 コーヒーを流し込みながら、今日の予定を脳内でリロードする。

 今日は朝から、職場のオフィスの程近くにあるシステム開発を委託しているベンダー企業へ直行だ。現地で瑞樹くんと合流することになっている。

 さて、その瑞樹くんである。

 彼との仕事は驚くほど順調に進んでいる。いや、「順調」という言葉では生ぬるい。彼は優秀すぎた。私の思考を先読みするアシスト、完璧な資料作成、そして場を和ませる天使のスマイル。


 「多目的トイレ遭難事件」以来、彼があそこから出てくる姿は見ていない。私もその話題には触れていない。

 真相は闇の中だが、業務に支障がない以上、追求する必要もない。彼がトイレの中で宇宙と交信していようが、異世界へのゲートを開いていようが、納期さえ守ればオールオッケーだ。


「よし、行くわよ深山遥!」


 メイクよし、マスカラはウォータープルーフ最強仕様!

 服装よし、撥水加工のトレンチ完璧!

 私は鏡の前で口角をグイッと上げ、PCと、万が一の大雨になった時のための緊急事態キット(ポンチョ、予備ストッキング、そして吸水タオル)」を鞄にねじ込んだ。


*******************************************************

 

 午前11時半。


 別会社のオフィスで行われた定例会議は、瑞樹くんの完璧すぎる議事録作成スキルのおかげで、予定より30分も早く終了していた。


「お疲れ様、瑞樹くん。あなたがいてくれると、ランチタイムを長く取れて助かるわぁ」

「いえいえ、遥さんの進行がスムーズだったからこそですよ」

「くぅぅぅ、あなた、いつも本当にスキがないくらい、如才ないんだから。よし、せっかくだし何か美味しいモノ食べて帰ろ! おごってあげる!」

「ありがとうございます」


 オフィスの外はまだ小雨がパラついている。

 私たちは傘を差して、国道沿いの歩道を並んで歩き始めた。

 すぐ横を走る国道は、都心と湾岸エリアを結ぶ物流の動脈だ。片側三車線の広い道路だが、雨の日は納期に追われる大型トラックが殺気立って走っている。歩道と車道の間にはガードレールがあるものの、激しい雨のせいで排水が追いついていないらしく、路肩のいたる所に茶色く濁った「湖(水たまり)」が出現していた。


 ゴォオオッ……と、大型トレーラーが水しぶきを上げて走り去るたびに、歩行者たちは傘を盾にして身をすくめる。ここは油断ならない戦場だ。

 そんな轟音をBGMに、歩きながら私の脳内では緊急の「ランチ選定会議」が開かれる。


(……今の私の体は、猛烈にエスニックを求めている)


 この道の先には、お気に入りのタイ料理屋がある。酸っぱくて辛いトムヤムクン、ココナッツ香るグリーンカレーやカオソーイ、そして何より、山盛りのパクチー。想像しただけで、パブロフの犬みたいに唾液が出てくる。


 そう何を隠そう、私は重度の「パクチニスト」なのだ。そしてついでに言うと、それをあまり人には言わないことにしている。


 昔、雑誌のアンケートで『20代〜30代男性が選ぶ、嫌いな女性のタイプ:パクチーを山盛りにして喜ぶ女』という記事を見たこともある。世の中には二種類の人間がいる。パクチーを「芳醇なハーブ」と崇める者と、「カメムシの臭い」と蔑む者だ。


 私は前者なのだが、それを公言すると楽しい食事の時間に余計なフリクションが生まれそうなので、わざわざ言わないことにしている「隠れパクチニスト」である。もし江戸時代に「踏み絵」ならぬ「踏みパクチー」があったら、私は踏めずに処刑されていただろう。


 私は「鋼鉄の女」の仮面の下で、性的マイノリティに加えて、食的マイノリティ(?)であることも隠しているのだ。


『うわ、遥またそれ食べてるの? カメムシ食べてるみたいじゃない?』

 実は、たーちゃんも、典型的なアンチ派だった。


 彼女はタイ米も、レモングラスも、ガランガル(タイの生姜)もいける口だったのに、なぜかパクチーだけはNGだった。「別盛りにして! 絶対に混ぜないで!」と叫んでいた姿を思い出す。取り箸の共有も許されない。だから私にとって、パクチーは「禁断の果実」であり、孤独な楽しみだったのだ。


 さて、私は隣を歩く美少年をチラリと見た。

 透き通るような白い肌。細い指。


 ……うん、似合わない。パクチー、苦手そう。


 私の勝手なプロファイリングだが、彼はきっと、オシャレなカフェのテラス席で、キッシュ・サラダランチとか食べてそうだ。

 誘おうものなら、


「あ、実はパクチー苦手なんですよねえ」


 とか爽やかに言われるのが目に見える。

 だから私は涙を飲んで提案した。


「……あそこの角に、イタリアンがあったはず。パスタとかでい……」

「あの、遥さん。もしよかったら、あそこのタイ料理屋に行きませんか?」


 瑞樹くんが指差したのは、まさに私が狙っていた店だった。


「えっ? タイ料理? 瑞樹くん、エスニックいけるの?」

「大好きです! 特にあの、香草の香りが」

「香草って……まさか、パクチー?」

「はい! 僕、パクチー大好きなんです!」


 彼の瞳がキラキラと輝いた。

 その煌めきには、きっとうそ、いつわりはない。


「ええっ!? 本当に!? カメムシだよ!? 石鹸の味だよ!?」

「最高の褒め言葉ですね! 実は僕、お店の人に『パクパクパクチー』って合言葉を言うと出てくる、裏メニューの『追いパク(追加パクチー200円)』を頼むのが夢で……」

「なっ……!?」


 雷に打たれたような衝撃だった。

 同志(ハラショー)!!

 まさか、こんな身近に、しかもこんな「キッシュ顔」の美少年の中に、熱狂的なパクチニストが潜伏していたなんて!


「瑞樹くん……! あなた、見所があるとは思ってたけど、まさかそこまでとは……!」

「えへへ、引きました?」

「引くわけないでしょ! 私もよ! 私なんて自宅で栽培しようとして枯らしたくらいよ!」

「マジですか!」


 私たちはガシッと熱い握手を交わした(心の中で)。食の好みが合う。これ以上のチームビルディングがあるだろうか。今日のランチは、パクチー祭りに決定だ。


「よし、決まりね! 行くわよ瑞樹くん! 合言葉はパクパクパクチー!」

「はいっ! 追いパクしましょう!」

 私たちは意気揚々と、タイ料理屋に向かって歩き出した。店の前の横断歩道の手前で足を止めようとした、その時だった。


 ズゥゥゥゥゥ……ン!


 地響きだ。

 大気を震わせるような重低音が接近してきていた。

 目を向けると、そこには銀色の巨大な壁——大型冷凍トレーラーが、濡れたアスファルトを「我が物顔」で疾走してきていた。

 速度、推定60キロオーバー。積載量、満載。ドライバーの気性、たぶん荒め。納期に追われているのか、殺気すら感じる爆走ぶりだ。

 そしてーー、私の目の前。横断歩道の縁石ギリギリの場所には、朝からの豪雨が作り出した、茶色く濁った「巨大な水たまり」が口を開けて待っていた。


(……あ、これ、詰んだわ)


 私の脳は瞬時にリスク計算を完了させた。

 トラックのタイヤと水面が接触する角度。進入速度。水量。

 弾道予測演算開始。ターゲット、私。回避ルート、なし。

 判定結果――回避不能。

 スローモーションの世界で、巨大なタイヤが水面に突っ込むのが見える。

 あれは水しぶきなんて可愛いものじゃない。

 茶色いカーテンだ。泥のショットガン。

 それが物理法則に従って美しい放物線を描き、私の奮発して買った春物のスカートと、おろしたてのスエードパンプスを「即死」させる未来が、HD画質で鮮明に見えた。


(さようなら、私のパンプスちゃん……!)


 私は反射的に目を瞑り、散弾の衝撃に備えた——。

 と――、


「——危ないっ!」


 私がギュッと目を瞑り、運命(泥水)を受け入れようとした、その刹那。

 ふわりとした影が、視界を覆い隠すように滑り込んできた。

 私の目の前に現れたのは、瑞樹くんの背中。彼は私と車道の間に素早く割って入り、両手を広げて、まるで『要人警護(SP)』のように私の前に立ちはだかったのだ。


 バッシャァァァァァァン!!


「うぶっ……!」


 トラックが走り去る音と共に、大量の水がアスファルトを叩く音が響く。 私は無傷だった。 けれど、私を庇って仁王立ちになった瑞樹くんは、頭から爪先まで、見事なまでにずぶ濡れになっていた。


「せ、瑞樹くん!? 大丈夫!? 」

「へ、平気です……遥さんが濡れなくてよかっ……」


 瑞樹くんが振り返り、安堵の笑みを浮かべようとした瞬間――、

 雨と泥水を含んで重くなった白いワイシャツが、彼の肌にぴったりと張り付いている。 肌色が透けているだけじゃない。 その胸元には、本来そこにあるはずのない、ストラップとカップのラインがくっきりと浮かび上がっていた。

 ブラである。 間違いなく、女性用のそれ。


「…………あ」


 私の視線に気づいた瑞樹くんが、自分の胸元を見下ろす。 シャツの下で自己主張する、強力な布地でも抑えきれずに溢れた柔らかい膨らみの曲線。


「あ……あう……あ、あ……」


 瑞樹くんの顔から、さっきまでの余裕が消え失せた。 顔面蒼白になり、わなわなと唇を震わせ、パニックで言葉にならない声を漏らしている。


「ち、ちが……これ、ちがうんでず……!」


 違うわけあるか! というか何が違うと言おうとしているのか、と、ツッコミを入れるより先に、私の手は動いていた。


 バサッ!


 私は鞄から大雨の時用のオレンジ色のポンチョを取り出して広げると、震える瑞樹くんの頭から被せた。


「落ち着いて。とりあえず、あそこに移動しましょう。冷静になるのに都合のよい場所があるから」

「は、はい……」

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