第3話 瑞樹君のトイレ事情
キーンコーンカーンコーン。
午後1時の始業15分前を告げる予鈴が、けだるい食後のオフィスに鳴り響いた。私はデスクに戻り、化粧ポーチを鞄に放り込む。
「瑞樹くん。午後、空いてる? クライアントのところに挨拶がてらブリーフィングに行くから、瑞樹くんも一緒に行こうか」
「はい、分かりました!」
いちいちニッコリ笑って元気よく答える瑞樹くんの反応に少しだけ癒されつつ、私はオフィスを出た。再び始まる戦いの前に、生理的欲求を処理しておかなければならないのだ。
——この時間の女子トイレは、まさに「激戦区」だ。ランチ後の歯磨き部隊と、化粧直し部隊によって、鏡の前は芋洗い状態。「ここはみんなの家の洗面所ですか」と言いたくなるほど占拠されている。
「……しまった。油断していた」
瑞樹くんの「女子力お弁当」に目を奪われ、初動が遅れた。「先んずれば人を制す」がモットーの私としたことが、なんたる不覚!
限界寸前の膀胱を抱え、私はこのまま「トイレ難民」として廊下を彷徨うことになるのか……?
しかーーーし! 私にはまだ、とっておきの切り札がある。私だけの「聖域」が!
私はエレベーターの「最上階」ボタンを連打した。
このビルの最上階は、テナントが入っていない「空白地帯」。あるのは埃をかぶった物置と、長い廊下だけ。そしてその突き当たりに、ひっそりと佇む「多目的トイレ」があるのだ。
この穴場の存在は、意外と知られていない。どうしても一人になりたい時——昨日のように愛と欲望を絶叫したい時——や、今のような緊急事態だけに使用する、私の秘密基地だ。
静寂に包まれた廊下を歩き、角を曲がる。
——その時だった。
カチャリ。
廊下の突き当たりにある「多目的トイレ」のドアが開き、誰かが出てきた。
(……え?)
私は反射的に、廊下の隅に積み上げられた「総務部・保存文書」と書かれた段ボールの山の陰に、スパイ映画さながらの身のこなしで飛び込んだ。
出てきたのは——瑞樹くんだったのだ。
彼は周囲を警戒するように、キョロキョロと素早く左右を見回している。まるで、誰にも見られてはいけない「完全犯罪」を成し遂げた後のように。
そして、廊下に誰もいない(と思ったらしい)ことを確認すると、足早に非常階段の方へと消えていった。
「……なんでわざわざ、こんな辺境の地まで?」
男子トイレも多少は混んでいるだろうけど、回転率は女子のとは段違いのはずだ。
もしかして、お腹でも壊したのかな?
あの「絹ごし豆腐」のような外見だ。胃腸の強度も、ガラス細工並みに繊細なのかもしれない。
(心配だけど……今はそれどころじゃない!)
私の下腹部のアラートが「限界突破」を警告している。他人の消化器官より、自分の方が最優先事項だ。
私は「総務部・保存文書」の山から飛び出すと、彼が去った後の多目的トイレへと突撃した。
その時の私は、「瑞樹くんも、ここの穴場を知ってるんだ」と妙な親近感を覚えた程度で、それ以上深く考えようとはしなかった。
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「——それでは、次回までに今の要件を整理してお持ちします」
エレベーターホールまで見送りに来てくれたクライアントのマネージャーに、私は深々と頭を下げていた。午後からクライアント先へ訪問して行ったプロジェクトのキックオフ・ミーティング、手応えは上々。先方の表情を見れば一目瞭然だ。
「うん、楽しみにしているよ。それにしても深山さん、今度の彼、なかなかしっかりしてるね」
マネージャーが、私の後ろに控えていた瑞樹くんに目を細める。
「恐縮です! 精一杯勉強させていただきます!」
瑞樹くんは、嫌味のない爽やかな笑顔で、四十五度の完璧なお辞儀を返した。
(先方からの評価もよし……、と。これなら実務の打ち合わせは任せることもできそうね)
瑞樹くんの好感度の高さは、どこに行っても通用するようだ。理由はその整い過ぎる外見だけじゃなくて、恐ろしく上手く空気を読む力。私が資料を探す素振りを見せれば0.5秒でサッと差し出すし、先方が間違った理解をしていたら絶妙なタイミングでしかも失礼のないように軌道修正する。
瑞樹くんは実務能力だけじゃなく、人間力も超優秀なスーパー助手になってくれそうだった。
「お疲れ様、瑞樹くん。いい感じの顔合わせだったと思うよ」
エレベーターの中で、私は彼の背中を軽く叩く。
「ありがとうございます。遥さんのお役に立てて、嬉しいです」
ニコニコとピュア100%な答える顔を見ていると、ういやつよのお、頭を撫でたくなるほどだ。
「……よし、直帰するにはまだ早いし、ちょっと糖分入れてくわよ! ついてきて!」
「あ、はい! ぜひ!」
近くの行きつけカフェに瑞樹くんを連れて行く。
私はシナモンをいっぱい利かせたカフェラテ、彼は「昔ながらのクリームソーダ」を注文した。アイスクリームの上にちょこんと乗ったサクランボが、彼ほど似合う成人男性もそういないかも。
「それにしても、昼休みはすごかったわね。みんなに囲まれていたし」
私がストローを回しながら言うと、瑞樹くんはクリームソーダの緑色の液体を見つめながら、困ったように眉を下げた。
「ああ……。こっちの部署に異動してきて初日だったから、みんな珍しかっただけですよ」
「またまたあ。……前の部署でもあんな感じだったでしょ」
「最初はそうだったかもですけど、だんだんと僕がつまんない人だと分かったら誰も近づいてこなくなりましたね」
彼は自嘲気味に笑うと、サクランボをスプーンで沈めた。
「僕、あんな風にみんなから褒められると、申し訳なくなっちゃうんです」
「申し訳ない?」
「はい。みんな、僕になんだか期待してくれてるみたいなんですけど……中身は全然そんなんじゃないんで。本当の姿がバレたら、ガッカリされるのが目に見えてるというか。まるで、産地偽装してるみたいな気分になるんです」
瑞樹くんは本気で悩ましげに溜息をついた。
「産地偽装って、ちょっと真面目すぎじゃない? それにたとえなんか偽装していたって、ちゃんと結果が出ていればいいんだから」
「そういうもんですかね……」
「そういうもんよ。私は松阪牛のステーキを食べて、実際にはそれが但馬牛だったとしても、食べて美味しかったら文句はないわ。とろけるような霜降りなら、ラベルはなんでもいいの」
「みんなが遥さんみたいだったら、いいんですけどね」
瑞樹くんはそう言って、少し寂しそうに遠い目をした。
「そんな『産地偽装疑惑』のある瑞樹くんには、今、彼女とかいないの?」
私が尋ねると、彼は「えっ」と目を丸くした。
「いませんよ。……今は、そういうの考える余裕なくて」
「ふーん?」
「遥さんこそ、いらっしゃらないんですか? その、彼氏とか」
「いないわね。というか、今まで一度も『彼氏』なんていたことないの」
嘘じゃない。私の恋人はずっとたーちゃんだった。だから、「彼氏」はいたことがないのは紛れもない真実だ。
「意外ですね。遥さんなら、絶対モテそうなのに」
「自慢じゃないけど、モテたことなんて一度もないなあ。だから、親から『いい人はいないのか』って、顔合わせるたびにノルマみたいに言われるのが本当に嫌で嫌で……」
私が愚痴ると、瑞樹くんが「あああ、分かります」と、身を乗り出してきた。
「うちもそうです! 実家暮らしだから尚更で……。『お前ももう25なんだから』とか『近所の〇〇くんは結婚した』とか、毎日毎日……」
「瑞樹くんもそうなの? まだ若いのに」
「本当ですよね。こっちにはこっちの事情というか、ペースがあるのに……」
瑞樹くんは深く溜息をつき、ストローで氷をカランと突いた。その横顔に、ふと影が差したような気がした。
(こんな完璧な感じの男子でも、悩みはあるのねえ……)
私は、目の前の完璧な美少年に、急に親近感を覚えてきて、少しだけ肩の力が抜けた。
「……さて、そろそろ戻ろっか!」
「はい」
レジで会計を済ませて店を出たところで、瑞樹くんが申し訳なさそうに足を止めた。
「あ、すみません遥さん。ちょっとお手洗い行ってきてもいいですか? さっきのクリームソーダで冷えたみたいで」
「いいわよ。ここのビルのトイレ借りましょ。私はそこのロビーのソファで待ってるから」
「いいわよ。私はこの辺で待っているから」
「すみません、すぐ戻ります!」
彼は小走りで、カフェの入っているビル奥のトイレへと向かっていった。
(さて、今のうちに夕方のメールチェックを……)
メールを確認し、急ぎの案件には返事。さらに夕方以降の予定も考える。こういうちょっとした隙間時間にやっておくのが、癖になっている自分がちょっと嫌だ。
しかし――、
待てど暮らせど、瑞樹くんが戻ってこない。
5分。10分。15分……。私の腕時計の針だけが、無慈悲に進んでいく。
「……遅くない?」
隙間時間なんてもんじゃない。男子トイレなんて、用を足すだけなら3分もあれば十分なはずだ。もしかして、本当にお腹を壊して動けなくなっているんじゃ……?
20分が過ぎた頃、さすがに心配になった私は、彼が消えた廊下の奥へと足を踏み入れた。
「瑞樹くーん? 生きてるー?」
男子トイレの前で声をかけるが、返事はない。
恐る恐る中を覗いてみると、個室のドアはすべて開いており、そこには誰もいなかった。
「……は? いない?」
もぬけの殻だ。神隠しにでもあったのか?私は狐につままれたような気分で廊下を見回す。
その時、私の視界の端に、見覚えのあるマークが飛び込んできた。
男子トイレのさらに奥。
ひっそりと佇む、「多目的トイレ」のランプが、「使用中」の赤色に点灯していたのだ。
「……まさか」
デジャヴだ。間違った意味的にだけど。
昼休みのオフィスの光景が脳裏をよぎる。
あの子、また多目的?
(いやいや、まさかね。たまたま誰か他の人が入ってるだけでしょ)
そう自分に言い聞かせつつ、私は吸い寄せられるようにそのドアへと近づいていった。
すると、タイミングを見計らったように、カチャリと鍵が開く音がした。
ゆっくりとドアが開く
隙間から顔を出したのは——やっぱり、瑞樹くんだった。
彼は昼間と同じように、まずキョロキョロと左右を確認し、廊下に(私以外)誰もいないことを確かめてから、そそくさと出てきた。
その動きは、まるで銀行強盗を終えた犯人が金庫から出てくる時のように慎重で、そして挙動不審だった。
「……あ」
目の前に仁王立ちする私に気づき、瑞樹くんが石化した。
鳩が豆鉄砲を食らったような——いや、狩人に見つかった子鹿のような顔だ
「み、瑞樹くん……?」
「は、遥さん!?」
彼は飛び上がらんばかりに驚き、背後の電動のスライドドアを手動で閉めた。
「ど、どうしたんですかこんな所まで!?」
「どうしたもこうしたもないわよ。20分も戻ってこないから、神隠しにでも遭ったのかと心配して見に来たのよ」
「あ……す、すみません! ちょっと、その……」
彼は視線を泳がせ、脂汗を浮かべながら言い訳を探している。
「お腹、大丈夫? 男子トイレ、ガラガラだったけど」
「えっ? あ、はい! そ、そうなんです! さっきまでは満員で! 行列ができてて! だから仕方なくこっちを……!」
嘘くさい。さっき男子トイレを覗いた時、人の気配なんて微塵もなかった。
(……怪しいなあ)
この子、何か隠してる。
サボり? スマホゲーム? それともまさか、多目的トイレマニアか?
「……ふーん。まあ、生きててよかったわ」
私はジト目で彼を見つめたが、これ以上追求するのはやめておいた。
誰にだって、触れられたくないトイレの事情はあるものだ。私だって、昨日はあの中で絶叫していたわけだし。
「ほら、行くわよ。会社戻らなきゃ」
「は、はい! すみません!」
瑞樹くんは逃げるように私の横をすり抜け、歩き出した。
その背中を見ながら、私はふと思う。
(……まあ、いいか)
彼がどんな「秘密」を抱えていようと、今のところ業務に支障はない。むしろ、期待以上のアウトプットを出してくれている。
だったら、多少の挙動不審には目をつぶろう。人間、誰しも一つや二つ、墓場まで持っていく秘密があるものだ。
私にだって、あるんだから。
その時は、そう思って忘れることにした。
けれど——。
運命のいたずらか、あるいは必然か。意外なほどすぐに、しかも唐突な形で、私は彼の抱える「秘密」の正体を知ることになってしまったのだった。




