第2話 1/1美少年フィギアの瑞樹くん
次の日の朝――、
私の胃袋の中では、昨夜やけ食いしたローストビーフとトリュフ入りポテトサラダがスパークリングワインと化学反応を起こし、暴動を起こしていた。
「……うぅ、頭が割れる……」
私はゾンビのような足取りで、渋谷のオフィス街を歩いていた。
今日の東京は快晴。ビルに反射する陽光が、網膜を焼くレーザービームのように降り注ぐ。
すれ違うサラリーマンの革靴の音、街頭ビジョンのCM、信号機のメロディ。世界中のすべての音が、失恋と二日酔いのダブルパンチを喰らった私への、悪意ある攻撃に聞こえる。
オフィスのエレベーターホールに辿り着く頃には、私のHPは残り1桁まで減少していた。鏡のような扉に映る自分を見る。
……ひどっ。
ファンデーションで隠しきれない目の下のクマ。生気のない肌。そこには「鋼鉄の女」の面影はなく、ただの「愛と住処を失った、濡れ落ち葉のような女」が立っていた。
お先真っ暗。私の人生のロードマップは、昨夜のやけ酒で完全にホワイトアウトしている。
チン。
エレベーターが目的の階に到着し、オフィスの自動ドアが目の前に現れる。
私はドアの前で立ち止まり、深く、長く息を吐き出した。弱音を吐くのはここまで。私情を持ち込むなんて、プロの流儀に反する。例え、仕事を頑張る目標がよく分からなくなっていたとしてもだ。
脊髄に鉄心をインストール。猫背気味だった背筋を、油圧ジャッキのように垂直に強制補正。表情筋にシリコンを、死んだ魚のような瞳にハイライトを注入し、口角を正確に15度上昇させる。昨夜の涙も、胃のむかつきも、すべて甲冑の中に隠しこむ。
カッ!私の瞳に、”鋼鉄の女”の光が宿る。
ウィーン。自動ドアが開いた瞬間、そこに足を踏み入れたのは、もう「失恋女」ではなかった。
「おはようございます」
凛とした声がフロアに響く。
カツッ、カツッ。
ヒールが床を叩くリズムは、メトロノームのように正確で力強い。
すれ違う社員たちが「深山さん、今日も気合入ってる……」「今日から新プロジェクトだしな……」と道を譲っていく。
デスクに鞄を置き、ノートPCを開こうとしたその時だった。
「——おはようございます、深山さん」
頭上から、やけに明るく、澄んだ声が降ってきた。顔を上げると見慣れない男子が立っていた。
その瞬間、私の思考回路が完全にフリーズした。なぜならそこに「1/1 等身大美少年フィギア」が立っていたからだ。いや、大げさではなく、本当に女性向けコミックから抜け出したかのような美少年なのだ。
まず、肌の質感が暴力的に白いの。ホワイトのベタ塗りだか、陶器か、 いや、違う。もっと柔らかくて脆い……そう、デパ地下で売られている「最高級の絹ごし豆腐」のような、指先でツンと突いたら、それだけで崩れて消滅してしまいそうな、恐ろしいほどの透明感。
そして、その豆腐だかお内裏さまのような顔に、ポツンと置かれた唇が、また逸材。着色料不使用、天然由来成分100%の桃のコンポートみたいな淡いピンク色が、無防備に震えている。さらに極めつけは、その瞳だ。
長い睫毛のカーテンの奥にあるのは、薄いガラス玉のような色素の薄い茶色——ヘーゼル。
まるで、狩猟解禁区域に迷い込んでしまった、生まれたての子鹿。仕立ての良いダークネイビーのスーツを着ているが、その華奢な肩幅と細すぎる首筋のせいで、まるで「お父さんのスーツを借りてきた七五三」のような頼りなさが漂っている。
でも、私が固まってしまった理由はきっと違う。例え美少年であったとしても、私が男子を見てこんなことなんて今まで一度もない。
にも関わらず、そうなってしまったわけは――。
パチパチ、と私は瞬きを数回繰り返した。
網膜に焼き付いたその「子鹿」の顔を、脳内の記憶と照合している。
色素の薄い瞳。小動物のような頼りなさ。触れたら壊れそうな、柔らかい輪郭。
……あ。
……ああっ!?
脳裏に、昨夜、無慈悲に去っていったパートナーの顔がフラッシュバックする。あの子の眼鏡を外し、髪をショートにして、スーツを着せたら……。
(う、嘘……!?)
心臓がドクリと跳ねた。
(男装した私のたーちゃん!?)
いやいやいや、私は心の中で首を激しく振った。
(いや、違う。別人だ。だってこっちは男だ。喉仏も(うっすらだけど)ある)
でも、やっぱり、似ているような気がする。私が世界で一番好きで、昨日失ったばかりの人に。
「これが、昨日言っていた優秀な専属スタッフだ」
吹っ飛んでいた頭は、部長の野太い声で現実に引き戻された。
「はじめまして。瀬戸瑞樹です」
男装たーちゃんが会釈をしてニッコリほほ笑む。
(いやいやいや、やっぱり、たーちゃん違う。たーちゃんはニッコリ笑ったりはしないもん。いや、でも、会った頃のたーちゃんだったら……)
私はブンブンと首を振りたい衝動を、鋼鉄の理性で抑え込んだ。
落ち着くのよ、深山遥。ここは職場、相手は部下。私情を挟むなんて三流のやることだ。私は震える指先で眼鏡のブリッジを押し上げ、乱れた呼吸を整える。
「私が深山遥です。よろしくお願いします。このプロジェクトは規模が大きいし、スピード感も求められるから、今日から二人三脚で一緒に頑張っていきましょう」
よし、言えた。声も震えていない。完璧な「鋼鉄の女」の挨拶だ。
「はい、足を引っ張らないよう精一杯頑張りますので、ご指導のほどお願いいたします」
瑞樹君はニコニコと笑いながら、もう一度、会釈をする。
やっぱり、この子はたーちゃんじゃない。彼女はそんな社交辞令は言わない。ホッとしたような、でも、どこか寂しいような気持ちを抑えながら、私はプロジェクトの詳細の書かれたファイルとPCを持ち上げた。
「では、自己紹介も兼ねて最初のブリーフィングを始めましょうか」
「はい! お願いします!」
私はミーティングスペースへ彼を誘う。とにかく今は、仕事だ。仕事に没頭すれば、この情緒不安定気味な脳内も正常化するだろう。
正直、今の私には”鋼鉄の女”としてプロジェクトを成功に導く動機付けが揺らいでいる。たーちゃんがいなくなった今、私に必要なものってなんだろう。ペンギンのぬいぐるみを飾らないタワマンや誰も乗せない真っ赤なポルシェに何の意味があるのか?
……分からない。昨日の今日で、そんなの即答できるわけないじゃない。私の人生のロードマップは、目下白紙撤回中。
だから、時間を稼ぐのだ。
大きなプロジェクトという巨大な迷路に逃げ込んで、余計なことを考える隙間をなくす。そうして思考を先送りにして、その間に決めるしかない。次の私の幸せ(KPI)を。……この、1/1美少年フィギアのような男子と一緒に……。
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瀬戸瑞樹、都内近郊の実家(一軒家)で両親と暮らす二十五歳。中途採用で入社したのは、大学を卒業後、2年間父親の関係する会社に勤めていたが、居心地が悪くなって昨年、転職してきたとのことだった。
(一軒家に父親の関係する企業にコネ入社……。箱入りって感じかなあ)
ブリーフィングの冒頭、アイスブレイクがてらに聞いた彼のプロフィールは、彼の浮世離れした外見と矛盾のないものだった。
(メンタル弱そうに見えるけど、大丈夫かなあ。部長は優秀って言ってたけど……)
前評判と現実が違うことは、仕事の世界ではよくあることなのだ。
「じゃあ、仕事の話に入るけど、今回の案件は『ファッションブランドの没入型メタバース旗艦店構築するプロジェクト』よ。パリコレと連動したりしてキラキラしてるように見えるけど、裏側は泥臭い調整の山だから覚悟してね」
私は、わざと少し脅すような口調で言いながら、モニターにプロジェクトの概要図を映し出した。
「はい、承知しています」
「じゃあ、まずはこの要件定義書を読み込んで……」
「あ、それなら昨晩いただいた共有フォルダの資料を元に、予習してきました」
瑞樹くんは鞄からタブレットを取り出し、さらりと画面を見せた。
そこには、「競合ブランドのメタバース展開事例」と「ユーザージャーニーの課題点」が、美しいレイアウトでまとめられていた。
「このブランドのターゲット層であるZ世代は、ロード時間が3秒を超えると離脱率が跳ね上がります。現状の仕様だと3Dモデルのポリゴン数が重すぎるので、見た目の品質を落とさずにデータを軽量化する案をいくつか考えてきました」
彼は、まるで今日のランチのメニューを提案するかのような気軽さで、核心を突く指摘をしてきた。
「あと、アバターの着せ替え機能ですが、NFT連携のフローが複雑すぎてUXを損なっています。ここ、ワンタップで完了するようにAPIを……」
私は素で驚いた。
優秀だ。それも、かなり。私の説明を待つだけでなく、技術的なボトルネックを予見し、先回りして最適解を用意している。部長の評価通り、優秀だ。しかも「超」がつくほどの。
(……この子、使えるわ)
私は内心で、彼への評価を「要保護生物」から「超・即戦力ユニット」へと大幅に上方修正した。
見た目は、ショーケースに飾っておくべき、触れれば壊れそうな「1/1 等身大美少年フィギュア」。けれど、その愛らしい外装の中には、膨大なタスクを涼しい顔で処理する「ハイエンドPC」が格納されているらしい。
(これなら……案外簡単にイケるかも)
難航する予感しかしなかった大型プロジェクトではあったが、この高性能な「彼」が右腕になってくれるなら、デスマーチを回避して、最短ルートでゴールテープを切れるかもしれない。
「オッケー。じゃあ、工程表に落とし込んでいこうか」
「はい」
「あと、これから、あなたのこと瑞樹くんと呼んでもいい?」
「分かりました。では、僕は遥さんとお呼びしてもよいですか?」
「うむ、よきにはからえ」
そんな軽口を叩いている時、私は思惑の通り、半日前のことを忘れて仕事に没頭することができていた。
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お昼休みーー、通勤途中に買った「塩むすび」を持って休憩スペースへ向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
「えーっ、瑞樹くん、お料理できるの!?」
「すごーい! 女子力高すぎない?」
「ねえねえ、今度私にも作ってきてよ〜!」
黄色い声援の中心にいたのは、瀬戸瑞樹くん。オフィスの若手女子社員たちに完全に包囲されて、まるで、サバンナの水飲み場に迷い込んだ子鹿のようだった。
女子たちに囲まれ、彼は困ったように眉を下げ、愛想笑いを浮かべている。嫌がっているというよりは、どう対応していいのか分からずにオロオロしている感じだ。
「あ、遥さん……!」
私を見つけた瑞樹くんが、小動物のような瞳を潤ませて助けを求めてきた。ここは助け舟を出す場面かもしれないけど、そう、私は甘くないのだ。
「なになに? 瑞樹くんの女子力がなんだって?」
私は瑞樹くんのSOSを華麗にスルーし、ニコニコしながらみんなの輪に入っていく。
「ちょ、何それ。……宝石箱?」
彼が広げていたランチボックスの中身を見て、私の口からそんな言葉が漏れた。ただの弁当じゃない。これはもう、食えるファンシーショップだ。
まず、白米のキャンバスに鎮座するのは、海苔で目鼻をつけられた一口サイズの「パンダおにぎり」軍団。しかも一匹一匹、表情が違う。ウインクしてる奴までいる。
その横には、ミクロン単位の職人技で飾り切りされた「タコさんウィンナー」。いや、タコさんじゃない。頭にゴマでハチマキを巻き、薄焼き卵の座布団に座った「タコ大明神」だ。
さらに、ブロッコリーの森には、人参を星型に型抜いたオーナメントが散りばめられ、ピックには「Fight!」の手書きフラッグ。
「やばくないですか? これ全部、瑞樹くんが作ったんですって!」
「うん、やばい。すごい。でも、これ、すごく時間がかかりそうだけど」
「そんなでもないです。前の日の夜の下ごしらえをしておくんで、15分もあればできちゃいます」
「プロか!」
なんなのこのハイスペック・バンビ。顔は国宝級、仕事はハイエンドPC、その上、料理スキルまで「カリスマ主婦ブロガー」並みだと? 天は彼に二物も三物も与えすぎでしょう!
けれど、その宝石箱を眺めていると、不意に胸が痛くなった。
——『遥、今日のお弁当、パンダさんにしたよ。耳は黒豆だからね』
脳裏に、たーちゃんのドヤ顔がフラッシュバックする。
頼んでもいないのに、私の弁当を「動物園」にしたがる癖があった。忙しい朝に、ちまちまと海苔を切って、私が蓋を開けた瞬間に吹き出すのを想像して楽しんでいた。
——『遥、今日のお弁当、タコさんウィンナー入れたよ。ちゃんと食べてね』
忙しい朝に、私の健康を気遣って、少しでも楽しい気分になるようにって。
「……そういえば、深山さんも意外といつもお弁当でしたよね? 今日はおにぎりなんですか?」
時々一緒にご飯を食べる後輩が不思議そうに首を傾げた。
「……ちょっと朝がつらくなったから、もうお弁当はないかなー」
本当は、作ってくれる人が出て行ってしまったから、なんて言えるわけがない。
「そうなんですか? だったら僕、作りましょうか?」
「へっ?」
「ついでですし。一人分も二人分も手間は変わらないですから! 深山さんの分も作ってきますよ!」
彼は満面の笑みで提案してきた。まるで、捨て犬を見つけた子供のように無邪気だ。
私はお弁当と瑞樹くんの顔を見比べる。
(ゴクリ……)
確かに毎日このお弁当を食べられるのは魅力的だ。コンビニおにぎりより栄養もあることだろう。
でも。
(……ダメダメ。それは、違う)
たーちゃんの代わりなんて、誰にもさせられない。それに女子力強すぎる男子の手料理を毎日食べているのは、メンタルが保てなさそう。
「……き、気持ちだけ受け取っておくわ」
「あ、そうなんですか……残念です」
彼はシュンと肩を落とした。
「えーっ、深山さん、なんでですか!?」
「私なら月額サブスク契約しますよ!」
みんなから非難轟々のブーイングが飛んでくる。
うるさいわね。こっちにはこっちの、複雑でデリケートな事情があるのよ。
「いいのいいの。しばらく、私はこれでいいの」
私は強がりを言い放ち、具のない「塩むすび」にガブリとかぶりついた。気のせいか、塩味が少ししょっぱく感じた。




