第1話 赤いポルシェとビッグペン
「……以上が、御社のブランド価値を最大化するUX戦略の全容です。伝統という資産を、Z世代の直感に接続する。それが私の描く、最短のロードマップです」
私がスクリーンを消灯すると同時に、張り詰めていた会議室の空気がふっと緩んだ。クライアントである大手アパレルの役員たちが、深く、満足げに頷き合っている。
「素晴らしい。深山さん、君の提案にはいつも迷いがないね。理路整然としていて、実に美しい」
「恐縮です。御社のビジョンが明確でしたので、私はそれを形にしたに過ぎません」
私は完璧なビジネススマイル——口角を正確に15度上げ、信頼感を3割増しにした「出来る女」の表情——で応え、手際よくパソコンを閉じる。
私の名前は、深山 遥(28歳)。
渋谷のデジタル・ブランディング会社で、シニア・プロジェクトマネージャー(PM)を務めている。誰にも媚びず、感情論を排し、ただ最適解のみを導き出すクールな仕事をするのが私のスタイル。
「——深山さん! さっきのプレゼン、痺れました……!」
クライアント先を出て、エレベーターホールに向かう廊下。
同行していた入社2年目の後輩女子・佐藤が、目をキラキラさせて話しかけてきた。
「あの強面の専務が、深山さんの説明を聞いた途端に笑顔になって……! まるで魔法みたいでした。私、一生ついていきます!」
「大袈裟よ、佐藤さん。事前準備が9割。彼らが欲しがっている答えを、ロジックに従って並べただけ」
私はコツコツとヒールを鳴らしながら、淡々と答える。
佐藤は「うわぁ、そのクールさがカッコいいんです!」と大げさに言う。
「プライベートでも、そんな感じなんですか? 深山さんの彼氏さんが羨ましいです。きっと喧嘩になっても、論理的に諭されちゃうんだろうなぁ。……やっぱり、彼氏さんもハイスペックな方なんですか?」
「そうでもないかな。私は公私混同しない主義だから」
私は一階に向かうエレベータの扉に映る自分——隙のないメイク、計算されたオフィスカジュアルに身を包んだ自分の姿を見つめ、フッと自嘲気味に口角を上げた。
「仕事は仕事。パートナーには、また別の顔を見せているから」
「きゃー! ミステリアス! 素敵すぎます!」
後輩の憧れの眼差しを背中に受けながら、私は涼しい顔でタクシーに乗り込んだ。
「おっ、戻ったか深山くん。ちょっと来てくれ」
オフィスに戻り自席につこうとしたその時、部長の太い声が飛んできた。
「はい、なんでしょうか」
私は鞄を置く暇もなく、最短ルートで部長席の前へ移動する。
カツッ、とヒールを鳴らして足を止め、デスクから正確に一歩半の距離で背筋を伸ばした。
「今やっているプロジェクト、順調みたいだな。今朝のプレゼンもよかったと、クライアントから電話があったよ」
部長が満足そう笑う。
「これで今のプロジェクトはとりあえず落ち着いただろう? 」
「はい、一山超えたという感じです」
「なら、並行して新規プロジェクトに着手してほしい」
部長がデスクから分厚いファイルを差し出した。
表紙には『ファッションブランドの
「没入型メタバース」旗艦店構築企画』の文字。
「来期最大のプロジェクトだ。……これを、お前に任せたい」
私は眉一つ動かさずにファイルを受け取ったが、心臓は早鐘を打っていた。
かなり予算規模のプロジェクトだ。自然と肩がワナワナと震える。
「これは……、かなり大きいプロジェクトですね」
「どうだ、できそうか?」
「はい、問題ございません」
私はファイルを抱え、あくまでクールに頷く。
「君ならそう答えると思ったよ。”鋼鉄の女”と呼ばれてるんだろう?」
「この仕事を成功させて、”チタン製の女”にアップデートして見せます」
私の返事に、部長はニヤリと満足そうに笑った。
「ただ、大規模なプロジェクトだから一人で全部やれとは言わないよ。優秀な専属スタッフをつける」
「スタッフ、ですか?」
「ああ。中途採用だが、スキルはずば抜けている。少し変わり者だが、仕事は完璧だ。明日紹介するから、上手く力を合わせてくれたまえ」
「わかりました。ご期待に添えるよう、全力を尽くします」
私はファイルを抱え、あくまでクールに一礼した。
周囲の社員たちが「深山さん、またデカい案件任されたのか……」「さすが鋼鉄の女……」と囁き合うのを背中で聞き流し、私は静かに踵を返す。そして、そのままオフィスを出ていくと、私は一目散にある場所へと向かった。
エレベーターでビルの最上階まで昇り、私はある部屋の前で立っていた。目の前にあるのは「多目的トイレ」。ここは、この会社で唯一、私のペルソナ(仮面)を外せる聖域。
私はキョロキョロと周囲に誰もいないことを確認すると、中に入る。カチャリ。鍵を閉め、鏡の前に立つ。
周囲に誰もいないことを確認し、深く息を吸い込む。
「……っしゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!!」
私はガッツポーズと共に、音にならない絶叫を上げる。クールな鉄仮面は崩壊し、鏡の中には欲望にまみれた素顔が浮かび上がる。
(ついにこの時が来た! 私の時代が!!!!)
私の脳内劇場では今、壮大なファンファーレと共に、桜吹雪が舞い散っている。
(来期最大のプロジェクトって言った!? じゃあ、それを成功させることができたら、私の評価もSランク突き抜けてSSランク! 来年の賞与はきっと、すごいことになるわよ!!!)
そうなのだ。私の動力源はみんなから思われているような「ロジック」でもなければ、鋼鉄の意思でもない。ただ、単純に「野望」だけなのだった。それもかなり俗っぽくて人に言いづらい感じのものだ。
(待ってなさいよ、東京湾! 待ってなさいよ、タワマン!)
私はグググと拳を握りしめる。
(狙うは最上階の角部屋! 窓は全面ガラス張りで、日差しが強すぎてサングラスがないと朝食も食べられないレベルのやつ! 床は大理石! 冬は冷たいけど、そこは床暖房をガンガンに焚いて、あえてTシャツ一枚で過ごすの!
お風呂上りは無駄に長いシルクのバスローブ——裾を引きずるくらいのやつ——を羽織り、片手にはペルシャ猫! ……飼ってないけど、とにかくフワフワの何かを抱いて、もう片方の手には年代物のワイングラス! 中身はウェルチでもいいから、とにかくスワリングして香りを嗅ぐフリをする!)
私は鏡の前で、エアーワイングラスを回し、高笑いするポーズをとる。
(眼下に広がるのは、宝石箱をひっくり返したような夜景! そして、米粒のように小さく見える渋滞の列! 私はグラスを傾けながら、アンニュイに呟くの。「あらあら、下界は今日も忙しそうね」って! 嫌な女? 上等じゃない! 私はその「嫌な女」になるために、血の滲むような仕事に耐えてきたのよ! お風呂はジャグジー! 泡風呂にして、意味もなく片足を上げて洗うの! 朝食はトリュフソースのかかった目玉焼き! 黄身は半熟、私の人生は完熟よ!)
ああ、たまらない。この俗物的な幸福こそが、私のガソリン。
そして——そんな生活の総仕上げ。地下駐車場から真っ赤なポルシェで飛び出し、首都高を私のランウェイにする。そして——その助手席には、たーちゃんが座っているのだ。
たーちゃんこと神山貴子(28)は私のパートナー。銀縁の眼鏡をかけ、少し癖のある髪をふんわりとさせた、小動物のような女性だ。
一見すると、図書館の奥で静かに本を読んでいる文学少女。あるいは、休日の公園でハトに餌をやっているだけで絵になるような、穏やかで控えめな存在。だが、その腕には必ずと言っていいほど、ペンギンのぬいぐるみが抱えられている。
出会ったのは大学生の時。私が経済学部で資本主義のロジックを学んでいる間、美大生だった彼女は、油絵具の匂いにまみれてキャンバスと格闘していた。卒業した今、彼女は「絵画修復士」という、これまた浮世離れした専門職に就いている。古びて傷ついた名画を、顕微鏡と筆を使って、気の遠くなるような時間をかけて蘇らせる魔法使い。0と1のデジタル世界で、納期とバグに追われてキーボードを叩きまくる私とは、住む世界が違う。真逆といってもいい。
現在、私たちは築20年の2DKで慎ましくも愛の巣を営んでいる。家に帰れば、眼鏡を曇らせてお味噌汁を作ってくれる彼女がいる。
「遥、おかえり。今日はペンギンの動画でね……」と、皇帝ペンギンのヒナの歩き方について熱く語る彼女がいる。
タワマンはたーちゃんと一緒に住んで、彼女の愛するペンギンのぬいぐるみを部屋いっぱいに並べた「ペンギン御殿」。ポルシェも狭い荷室やボンネットにペンギンを敷き詰めた「動くペンギン御殿」になる予定なのだ。
(待っててね、たーちゃん! 今に君を、世界で一番幸せな「ペンギン長者」にしてあげるからああああ!!)
私は、深山 遥、28歳。周囲からはロジカルでクールな鋼鉄女と呼ばれている……。でも、本当はタワマンとポルシェが欲しくて働いている、Lな女なのだ。
***********************************
その日、私は奇跡的な時間にオフィスを後にした。時計の針はまだ18時半。”鋼鉄の女”としては異例の「定時退社」に近い早帰りだ。
まあ、今のプロジェクトは今日で一区切りだし、明日からは新規のプロジェクトが始まるから、今夜はその前夜祭。英気を養うための戦略的撤退というわけ。
私は駅ビルの地下にある、普段なら素通りする高級スーパーへと足を踏み入れた。いつもなら「半額シール」が貼られる時間を虎視眈々と狙う私だが、今夜は違う。
カゴに放り込んだのは、黒毛和牛のローストビーフ、トリュフ香るポテトサラダ、そして専門店で焼かれたバゲット。仕上げに、ワインコーナーへ。本当はシャンパンと行きたいところだけど、まだボーナスが出たわけではないので、そこは堅実に2000円台の辛口スパークリングワインをチョイスする。
(ふふん、たーちゃん驚くかな。「今日はどうしたの?」って目を丸くする顔が目に浮かぶわ!)
レジに並びながら、スマホを取り出す。退社直後に送った『今日は早上がり! ご飯すごいよ!』というLIN○には、まだ「既読」がついていない。
少し、不思議に感じたけど、そういうことも時にはある。たーちゃんは絵画修復という繊細な仕事をしている。集中するとスマホなんて見なくなるし、あるいは家に帰って大好きなペンギンの動画に夢中になっているのかもしれない。
私は両手にずっしりと重いレジ袋を提げ、スキップしたくなるような足取りでマンションへの道を急いだ。
エレベーターを降り、いつものドアの前に立つ。私は鍵を開け、勢いよくドアを開け放った。
「ただいっまー! たーちゃん、聞いて聞いて! 私ついに、伝説のプロジェクトリーダーに——」
玄関を開けた私の目に飛び込んできたのは。 私の輝かしい未来予想図を、根底から否定するような、アー〇引越センターのトラックの引っ越し用コンテナだった。
「……は?」
時が止まる。 開け放たれたドアから、作業員のお兄さんが、何かとてつもなく巨大な「綿の塊」を、エッサホイサと運び出している。
「あ……ちょ、嘘……ビッグペン!?」
学生時代、なけなしのバイト代を数ヶ月分つぎ込んでたーちゃんに貢いだ、1.5メートル級の超巨大ペンギンのぬいぐるみ。イギリスの時計台の名を冠した、我が家の守り神にして最大の体積を誇る同居人が、今、ムギュウッと圧縮されて鋼鉄のコンテナの枠に押し込まれていた。
「遥、おかえり」
リビングの真ん中で私を出迎えたのは、パンパンに膨らんだ段ボールを抱えたたーちゃんだった。その足元には、彼女が愛してやまない数百匹のペンギングッズたちが、玄関に向かって整然と旅立ちの隊列を組んでいる。
「……え、待って待って。何これ? どういうドッキリ? スウエーデン式サプライズパーティとか? あ、分かった。旭○動物園の『ペンギンの散歩』ごっこね! そうなんでしょう? そうだと言ってよジョー!」
意味不明なテンションで問いかける私に、たーちゃんは静かに、しかし決定的な一言を放つ。
「出ていくね。……今まで、ありがとう」
ドォォォォォンッ!!!(SE:崩落するタワーマンション)
私の脳内で、建設予定だったドリームタワーが基礎から崩壊し、真っ赤なポルシェがガードレールを突き破って崖からダイブし、爆発炎上した。
私の手から、重たいレジ袋がドサリと落ちる。
黒毛和牛のローストビーフが、トリュフ香るポテトサラダが、そして2000円のスパークリングワインが、床の上で虚しく転がった。
「で、出ていくって……どういうこと? 定義して。旅行? 出張? それともまさか、南極観測隊に選ばれたとか?」
「違うよ、遥」
たーちゃんは、いつもの穏やかな、でも絶対に譲らない時の顔で首を横に振った。
「この家を出るの。もう、遥とは一緒に住めない」
「は? い、意味がわからない。バグ? システムエラー?」
「現実だよ」
「じゃあ、いつ帰ってくるの? 来週? 来月?」
「帰らないよ。……今生のお別れだから」
「コ、コンジョウ???!!」
紺青、金城、ど根性、、、おおよそ適切でない変換からの”お別れ”。その誤変換しようのない三文字が、私の脳天を直撃した。
「な、ななな、何言ってるのたーちゃん!? 私、今日リーダーになったのよ!? これからもっとバリバリ稼いで、タワマンの最上階でたーちゃんと一緒に暮らして、最高の景色を見せてあげる。そのまず一歩が今、始まろうとしているんだよ!!! どうして、行っちゃうの。行かないでよ、たーちゃん」
私は段ボールを抱えるたーちゃんの腕にしがみついた。なりふり構っていられない。
「タワマンがいやだっていうなら郊外の一軒家にする、赤のポルシェが嫌なら白い電気自動車にするから! だから行かないでよ、たーちゃん。ねえ」
でも、たーちゃんは悲しそうに首を横に振った。
「遥。私が欲しかったのは、タワマンでもポルシェでもないんだよ」
「じゃあ、なに? なにがあげられたら、一緒にいてくれる?」
「分からない? 二人が性的マイノリティのこと、カミングアウトすることだよ!」
「!」
「何度もお願いしてきたよね? ちゃんとパートナーとして、社会に認められて生きたいって。そういう制度だってあるんだから。でも遥の口から出るのは、いつも『次のプロジェクトが終わるまで待ってほしい』ばかり」
「そ、それは……」
「結局、遥は私のお願いよりも、カミングアウトして会社での評価が下がる方が心配だったんでしょ」
「そ、そんなことないよ」
「だったら明日、カミングアウトしてくれる?」
「そ、それは……。ただ、次の、次のプロジェクトを成功させたら、今度こそはカミングアウトするから。約束するから!」
「もう、タイムオーバーだよ!!」
たーちゃんは叫んだ。眼鏡の向こうの、大きなヘーゼル色の目には涙が浮かんでいた。
「……私は、タワマンにもポルシェにもいたいわけじゃなくて、ただ、誰の目も気にせずに遥の隣にずっといたかっただけ」
そう言うと、たーちゃんは横をすり抜けていった。私はその場で石像のように固まっていた。
……分かっていた。
本当は、ずっと前から分かっていたのだ。たーちゃんが、高級マンションや車になんて、これっぽっちも興味がないことなんて。彼女が喜ぶのは、きらびやかな夜景なんかじゃない。休日の公園で食べる手作りのお弁当や、水族館の年間パスポート。そういうささやかな日常だということくらい。
タワマン? ポルシェ? それは全部、私の欲望だ。
港区を見下ろしたいのも、首都高を風になって走りたいのも、全部私だ。私は、「たーちゃんを幸せにするため」という美しくて都合のいい大義名分を盾にして、自分の俗物的な野心を正当化していたに過ぎない。
(……カミングアウトして、評価が下がるのが怖かった。ただ、それだけ)
私は、自分が可愛かったのだ。
「鋼鉄の女」「完璧なPM」という、必死に積み上げてきたキャリアと虚像を守りたかった。Lであることを公言して、奇異な目で見られることや、出世コースから外されるかもしれないリスクを冒す勇気が、私にはなかった。
だから、彼女の切実な願いを「次のプロジェクトが終わったら」という甘い言葉で先送りし続けた。その結果が、これだ。
彼女が欲しかったのは、高級車の助手席に座ることじゃない。ただ、太陽の下で堂々と手を繋げる、「普通の恋人」として生活することだけだったのに。
私は、たーちゃんとの共同プロジェクトの要件定義を、最初から完全に履き違えていたのだ。
最後の段ボールが積み込まれ、引っ越しトラックの重い扉が閉まる音。 何百というペンギンのつぶらな瞳に見送られながら、私の5年間の愛が、排気ガスと共に遠ざかっていく。
「…………たーちゃーん! ビッグペンーーッ!!」
残されたのは、声が反響するほど無駄に広くなった2DK。 ビッグベンが鎮座していた場所には、ポルシェを停めるには十分すぎるほどの虚無が広がっている。
「…………うっ、うぐっ、ひっく」
ダイニングで私はしゃくりあげていた。引っ越してくる前から狭いよね? とたーちゃんにぶーたれていたこの部屋が、広く感じられる。
私は震える手で、二人で乾杯するはずだった発泡性ワインのコルクを強引に抜いた。
ポンッ! シュワワワーッ! グビッ、グビビビッ、プハァーッ!
グラス? そんな繊細なもの、今の私には必要ない。ボトルから直接、高級シャンパンをラッパ飲み。炭酸が喉を焼き、涙腺を刺激する
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら、私はローストビーフとポテトサラダを頬張った。
「……んぐっ、ひっく……真っ赤なポルシェなんて、一人で運転して、どこに行けってのよぉぉぉ……!」
広い部屋に響くのは、私の情けない嗚咽と、ルンバが空っぽの床を虚しく掃除する「ウィーン」という乾いた音だけ。 私の輝かしい「人生計画書(タワマン・ポルシェ編)」は、一晩でシュレッダーにかけられた紙屑同然となった。




