第四話 雨に見た先
十河存保が本陣へ運ばれたのは、細い雨が陣幕を濡らし始めたころだった。
両腕を縄で縛られ、五人の兵に囲まれている。泥にまみれた具足の脇から、黒ずんだ血がにじんでいた。それでも背は曲がっていない。
存保は政重を見た。
敗れた者の目ではなかった。
政重はその視線を受けたまま、香宗我部親泰の陣所へ向かった。
親泰は政重の姿を見ると、手にしていた書状を机へ置いた。
「まことに五十の兵で捕らえるとはな」
確かめるように政重の顔を見てから、短く息を吐いた。
「見事であった」
「兵部と讃岐の案内役の働きにございます」
親泰はすぐには答えず、政重の顔を見た。
「その兵を選び、置いたのはそなたであろう」
その目が、政重の脇腹へ落ちる。
「もっとも、捕らえる方まで死にかけては、手放しでは褒められぬがな」
「まだ死んでおりませぬ」
「見れば分かる。座れ」
陣幕を小雨が細かく叩いていた。薬草を煮る匂いに、血と濡れた土の臭いが混じっている。
政重は腰を下ろした。
「親泰様、存保を殺してはなりませぬ」
その指が、机を打つ途中で止まった。
「首を惜しみに来たか」
「首一つでは、東讃は収まりませぬ。十河の家ごと、こちらへ引き入れまする」
「今日まで兄上に抗った男だぞ」
「だからこそ、あの男の命で兵が動きます。斬れば十河方は弔いの旗を掲げましょう。生かせば、虎丸も旧臣もまとめられまする」
「裏切らぬと、どうして言える」
「言えませぬ」
親泰の眉がわずかに動いた。
「ならば、どうする」
「裏切れぬ仕置きは、親泰様のお知恵をお借りしたく」
親泰は鼻で笑った。
「都合のよいところだけ、わしへ回すか」
「それがし一人の願いでは、存保を助けられませぬ」
親泰は返事をせず、政重を見ていた。
値踏みする目ではない。言葉の裏を探られているようだった。
「理は通っておる」
やがて親泰が言った。
「だが、それだけではあるまい。そなたは、存保を死なせたくないのであろう」
違う、と答えかけた。
そのとき、陣幕を打つ雨音が、ふいに近くなった。
今の雨ではなかった。
濡れた石畳。闇の中で抜かれた刃。背を裂いた冷たさ。口の中へ広がった鉄の味。
土佐を変える途上で、自分は倒れた。
その雨の向こうに、存保の行く末を見た。
九州の川原。崩れる軍勢。三好を再び立てることもかなわぬまま、泥の中へ倒れる存保。
雨の中で、二つの死が重なった。
そこで初めて、東洋は気づいた。
ただ将として、存保を惜しんでいるのではない。
果たせぬものを抱えたまま斃れようとする男を前に、抑える間もなく言葉が出た。
「……あの男を、ここで終わらせたくありませぬ」
親泰はしばらく黙っていた。
「助けたいだけでは、兄上も諸将も動かぬ」
「承知しておりまする」
「ならば、助けられる形にする」
親泰は机上の札を一枚裏返した。
「まず虎丸城を開かせる。存保が十河の兵を収められると示してから、その先を考える」
「十河の名は」
「残したいならば、まず働かせよ」
政重はうなずいた。
「存保を説くのは、そなたがやれ」
「それがしが、でございますか」
「おぬしの言葉ならば、耳を塞ぐことはできまい」
◆
評定では、存保を斬るべきだという声が上がった。
「首を東讃へ晒せば、十河方も恐れましょう」
同意する声が二つ、三つ続いた。
親泰はしばらく雨音を聞いていた。
「恐れて降る者もあれば、弔いの旗を掲げる者もあろう」
そして、存保の首ではなく、その命で東讃を収める案を示した。
「またも勝五郎の策か」
座中の視線が、末席の政重へ集まった。
感心だけではない。若造の策が、また家中の行く先を左右することへの警戒も混じっていた。
親泰は、その視線を受け止めるように、一つ咳払いをした。
「存保を生け捕ると申したのは勝五郎だ。それを殿の申しつけどおり、五十の兵で果たした。見事な働きよ」
親泰は諸将を見渡した。
「だが、捕らえた敵をどう生かすかは、我らが考えることぞ」
今まで黙っていた元親が口を開いた。
「まず虎丸を開かせよ。城兵は助ける。十河を残すかは、その後だ」
◆
存保は縄を掛けられたまま、親泰の陣所へ連れてこられた。
傷を洗わせようとすると、存保は手を振り払った。
「情けのつもりか」
「死にかけた者とは話ができぬ」
親泰が言うと、存保は黙って傷を縛らせた。
水を飲み終えたところで、政重が前へ出た。
「わしを生かして、勝ち誇りに来たか」
「誇れる勝ち方ではなかった。二度も逃がしかけた」
「ならば縄を解け」
「それほど愚かにはなれぬ」
存保が鼻で笑った。
「首が欲しければ取ればよい」
「おぬしを残せと申したのは、勝五郎だ」
親泰の言葉に、存保の視線が政重へ移った。
「……なぜだ。わしを生かして、何を得る」
「それを、これから考える。首を取ってからでは、生かした後を考えることもできぬ」
存保の眉が寄った。
親泰が条件を告げた。
虎丸を開くこと。秀吉との往来を断つこと。一族から人質を出すこと。
その代わり、城兵と領民は助け、降る旧臣には働く場を与える。十河家の存続は、その後の働き次第だった。
「長宗我部に屈して残る家など、十河ではない」
「では、何をもって十河と申す」
「城と兵と、三好の血よ」
存保は縛られた腕を引いた。縄が乾いた音を立てた。
「そのすべてを、死んだおぬしが守れるのか」
存保の目が鋭くなった。
「知ったような口を」
「知っておる」
「何をだ」
「果たせぬまま死んでも、何も残らぬことをだ」
思ったより強い声が出た。
「幾度も死ねた。それでも、おぬしは生きてここにおる」
「臆したと申すか」
「十河を残すためであろう」
存保が縄をきしませた。
「三好を、長宗我部の下で残せと申すか」
「秀吉を待っても、おぬしの望む形にはならぬ」
「秀吉が畿内を固めれば、四国へ兵を向ける」
「そうであろうな。だが、おぬしを救うためではない。四国を己のものにするためだ」
「それでも、三好の名を返すやもしれぬ」
「名は利用しよう。だが、家まで残す必要はない。秀吉にとって要るのは、命じた戦で働く存保一人だ」
「元親とて同じであろう」
「違う」
政重は即座に答えた。
「元親様は、おぬしを東讃の諸勢をまとめる将として使おうとしておられる。十河の名も、旧臣も、兵も残す道が、まだある。秀吉のもとでは、数ある駒の一つにすぎぬ」
存保は言い返さなかった。
陣幕を打つ雨音だけが続いた。縄を掛けられた手が、膝の上でわずかに動く。
「勝った者の戯れ言だ」
「負けて死んだ者には、戯れ言すら申せぬ」
存保の顔から、嘲りが消えた。
「……なぜ、そこまで死ぬなと申す」
政重は答えられなかった。雨の夜に倒れた自分を、どう語ればよい。
「死んだあとでは、遅いからだ」
それだけ言った。
雨音が、しばらく二人の間を埋めた。
存保は長く黙ったあと、親泰へ顔を向けた。
「虎丸の兵と領民は」
親泰は迷わず答えた。
「城を開けば助ける。乱取りも禁ずる」
「十河の名は」
「今は約さぬ。だが、絶やすとも申しておらぬ。働きを見せれば、兄上へ十河存続を願い出る」
存保は政重を見た。
「おぬしは、わしに何をさせたい」
「生きて、十河を残せ」
「それだけか」
「それすらできぬまま死ぬ者は多い」
存保は答えなかった。
親泰が立ち上がった。
「返事は明朝まで待つ」
「過ぎれば、どうする」
「生きた存保を使う策から、存保の首を使う策へ戻すだけだ」
親泰は近習に、紙と筆を残すよう命じた。
政重は陣幕を出る前に、一度だけ振り返った。
存保は縄を掛けられた両手を膝に置き、白い紙を見ていた。
◆
翌日の昼、小雨は上がっていた。
虎丸へ遣わした使者が戻った。
「虎丸城、門を開きました」
存保は何も答えなかった。
政重は、その指先に墨が残っているのを見た。
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【史実解説】
■三好家再興
十河存保は三好長慶の弟・三好実休の次男として生まれ、のちに讃岐の十河家を継いだ人物です。兄の三好長治が没した後は、勝瑞城を拠点として阿波三好勢を束ね、長宗我部氏の侵攻に抵抗しました。存保にとって十河家を守ることは、讃岐の一豪族を残すだけでなく、衰退した三好氏の勢力を阿波・讃岐に残すことでもあったと考えられます。
史実の存保は長宗我部氏に敗れたのち秀吉に仕え、讃岐二万石を与えられます。しかし、かつて畿内に勢威を振るった三好家を再興するには至らず、秀吉配下の諸将の一人として九州へ出陣し、戸次川の戦いで命を落としました。




