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岡豊宰相 ~幕末の改革者、戦国に還る~  作者: 曽我部穂岐
第二章 活かす刃

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第四話 雨に見た先

 十河そごう存保まさやすが本陣へ運ばれたのは、細い雨が陣幕を濡らし始めたころだった。


 両腕を縄で縛られ、五人の兵に囲まれている。泥にまみれた具足の脇から、黒ずんだ血がにじんでいた。それでも背は曲がっていない。


 存保は政重を見た。

 敗れた者の目ではなかった。


 政重はその視線を受けたまま、香宗我部こうそがべ親泰ちかやすの陣所へ向かった。


 親泰は政重の姿を見ると、手にしていた書状を机へ置いた。


「まことに五十の兵で捕らえるとはな」

 確かめるように政重の顔を見てから、短く息を吐いた。


「見事であった」

兵部ひょうぶと讃岐の案内役の働きにございます」


 親泰はすぐには答えず、政重の顔を見た。

「その兵を選び、置いたのはそなたであろう」


 その目が、政重の脇腹へ落ちる。

「もっとも、捕らえる方まで死にかけては、手放しでは褒められぬがな」


「まだ死んでおりませぬ」

「見れば分かる。座れ」


 陣幕を小雨が細かく叩いていた。薬草を煮る匂いに、血と濡れた土の臭いが混じっている。

 政重は腰を下ろした。


「親泰様、存保を殺してはなりませぬ」


 その指が、机を打つ途中で止まった。


「首を惜しみに来たか」

「首一つでは、東讃は収まりませぬ。十河の家ごと、こちらへ引き入れまする」


「今日まで兄上に抗った男だぞ」

「だからこそ、あの男の命で兵が動きます。斬れば十河方は弔いの旗を掲げましょう。生かせば、虎丸も旧臣もまとめられまする」


「裏切らぬと、どうして言える」

「言えませぬ」


 親泰の眉がわずかに動いた。


「ならば、どうする」

「裏切れぬ仕置きは、親泰様のお知恵をお借りしたく」


 親泰は鼻で笑った。

「都合のよいところだけ、わしへ回すか」


「それがし一人の願いでは、存保を助けられませぬ」


 親泰は返事をせず、政重を見ていた。

 値踏みする目ではない。言葉の裏を探られているようだった。


「理は通っておる」


 やがて親泰が言った。


「だが、それだけではあるまい。そなたは、存保を死なせたくないのであろう」


 違う、と答えかけた。


 そのとき、陣幕を打つ雨音が、ふいに近くなった。


 今の雨ではなかった。

 濡れた石畳。闇の中で抜かれた刃。背を裂いた冷たさ。口の中へ広がった鉄の味。


 土佐を変える途上で、自分は倒れた。


 その雨の向こうに、存保の行く末を見た。

 九州の川原。崩れる軍勢。三好を再び立てることもかなわぬまま、泥の中へ倒れる存保。


 雨の中で、二つの死が重なった。


 そこで初めて、東洋は気づいた。


 ただ将として、存保を惜しんでいるのではない。

 果たせぬものを抱えたまま斃れようとする男を前に、抑える間もなく言葉が出た。


「……あの男を、ここで終わらせたくありませぬ」


 親泰はしばらく黙っていた。


「助けたいだけでは、兄上も諸将も動かぬ」

「承知しておりまする」


「ならば、助けられる形にする」

 親泰は机上の札を一枚裏返した。


「まず虎丸城を開かせる。存保が十河の兵を収められると示してから、その先を考える」


「十河の名は」

「残したいならば、まず働かせよ」


 政重はうなずいた。


「存保を説くのは、そなたがやれ」

「それがしが、でございますか」


「おぬしの言葉ならば、耳を塞ぐことはできまい」




 評定では、存保を斬るべきだという声が上がった。


「首を東讃へ晒せば、十河方も恐れましょう」


 同意する声が二つ、三つ続いた。


 親泰はしばらく雨音を聞いていた。

「恐れて降る者もあれば、弔いの旗を掲げる者もあろう」


 そして、存保の首ではなく、その命で東讃を収める案を示した。


「またも勝五郎の策か」


 座中の視線が、末席の政重へ集まった。

 感心だけではない。若造の策が、また家中の行く先を左右することへの警戒も混じっていた。


 親泰は、その視線を受け止めるように、一つ咳払いをした。

「存保を生け捕ると申したのは勝五郎だ。それを殿の申しつけどおり、五十の兵で果たした。見事な働きよ」


 親泰は諸将を見渡した。

「だが、捕らえた敵をどう生かすかは、我らが考えることぞ」


 今まで黙っていた元親が口を開いた。

「まず虎丸を開かせよ。城兵は助ける。十河を残すかは、その後だ」




 存保は縄を掛けられたまま、親泰の陣所へ連れてこられた。

 傷を洗わせようとすると、存保は手を振り払った。


「情けのつもりか」

「死にかけた者とは話ができぬ」


 親泰が言うと、存保は黙って傷を縛らせた。

 水を飲み終えたところで、政重が前へ出た。


「わしを生かして、勝ち誇りに来たか」

「誇れる勝ち方ではなかった。二度も逃がしかけた」


「ならば縄を解け」

「それほど愚かにはなれぬ」


 存保が鼻で笑った。

「首が欲しければ取ればよい」

「おぬしを残せと申したのは、勝五郎だ」


 親泰の言葉に、存保の視線が政重へ移った。


「……なぜだ。わしを生かして、何を得る」

「それを、これから考える。首を取ってからでは、生かした後を考えることもできぬ」


 存保の眉が寄った。


 親泰が条件を告げた。

 虎丸を開くこと。秀吉との往来を断つこと。一族から人質を出すこと。

 その代わり、城兵と領民は助け、降る旧臣には働く場を与える。十河家の存続は、その後の働き次第だった。


「長宗我部に屈して残る家など、十河ではない」

「では、何をもって十河と申す」


「城と兵と、三好の血よ」

 存保は縛られた腕を引いた。縄が乾いた音を立てた。


「そのすべてを、死んだおぬしが守れるのか」


 存保の目が鋭くなった。

「知ったような口を」

「知っておる」

「何をだ」


「果たせぬまま死んでも、何も残らぬことをだ」


 思ったより強い声が出た。


「幾度も死ねた。それでも、おぬしは生きてここにおる」


「臆したと申すか」

「十河を残すためであろう」


 存保が縄をきしませた。


「三好を、長宗我部の下で残せと申すか」

「秀吉を待っても、おぬしの望む形にはならぬ」


「秀吉が畿内を固めれば、四国へ兵を向ける」

「そうであろうな。だが、おぬしを救うためではない。四国を己のものにするためだ」


「それでも、三好の名を返すやもしれぬ」

「名は利用しよう。だが、家まで残す必要はない。秀吉にとって要るのは、命じた戦で働く存保一人だ」


「元親とて同じであろう」

「違う」


 政重は即座に答えた。

「元親様は、おぬしを東讃の諸勢をまとめる将として使おうとしておられる。十河の名も、旧臣も、兵も残す道が、まだある。秀吉のもとでは、数ある駒の一つにすぎぬ」


 存保は言い返さなかった。

 陣幕を打つ雨音だけが続いた。縄を掛けられた手が、膝の上でわずかに動く。


「勝った者のごとだ」

「負けて死んだ者には、戯れ言すら申せぬ」


 存保の顔から、嘲りが消えた。


「……なぜ、そこまで死ぬなと申す」


 政重は答えられなかった。雨の夜に倒れた自分を、どう語ればよい。


「死んだあとでは、遅いからだ」


 それだけ言った。

 雨音が、しばらく二人の間を埋めた。


 存保は長く黙ったあと、親泰へ顔を向けた。


「虎丸の兵と領民は」


 親泰は迷わず答えた。

「城を開けば助ける。乱取りも禁ずる」


「十河の名は」

「今は約さぬ。だが、絶やすとも申しておらぬ。働きを見せれば、兄上へ十河存続を願い出る」


 存保は政重を見た。


「おぬしは、わしに何をさせたい」

「生きて、十河を残せ」

「それだけか」

「それすらできぬまま死ぬ者は多い」


 存保は答えなかった。


 親泰が立ち上がった。

「返事は明朝まで待つ」


「過ぎれば、どうする」

「生きた存保を使う策から、存保の首を使う策へ戻すだけだ」


 親泰は近習に、紙と筆を残すよう命じた。


 政重は陣幕を出る前に、一度だけ振り返った。

 存保は縄を掛けられた両手を膝に置き、白い紙を見ていた。




 翌日の昼、小雨は上がっていた。


 虎丸へ遣わした使者が戻った。


「虎丸城、門を開きました」


 存保は何も答えなかった。


 政重は、その指先に墨が残っているのを見た。



お読みいただき、ありがとうございました。

創作の励みになりますので、評価・感想をよろしくお願いいたします。


【史実解説】

■三好家再興

十河存保は三好長慶の弟・三好実休の次男として生まれ、のちに讃岐の十河家を継いだ人物です。兄の三好長治が没した後は、勝瑞城を拠点として阿波三好勢を束ね、長宗我部氏の侵攻に抵抗しました。存保にとって十河家を守ることは、讃岐の一豪族を残すだけでなく、衰退した三好氏の勢力を阿波・讃岐に残すことでもあったと考えられます。


史実の存保は長宗我部氏に敗れたのち秀吉に仕え、讃岐二万石を与えられます。しかし、かつて畿内に勢威を振るった三好家を再興するには至らず、秀吉配下の諸将の一人として九州へ出陣し、戸次川の戦いで命を落としました。


挿絵(By みてみん)

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