第三話 鬼の子
湿った土と馬の汗の匂いが、朝靄の中を流れてくる。藪に伏せた兵たちは息を殺し、近づく蹄の音だけが次第に大きくなった。
薄明かりの中に、泥まみれの徒歩兵が三人現れた。槍を杖のようにつき、何度も後ろを振り返っている。
物見だ。
政重は伏せたまま、右手を上げた。
三人が道の半ばまで進み、道端へ寄せた倒木の脇を通り過ぎる。
その後ろから、騎馬と二十人余りの兵が姿を現した。
中央の武者だけ、守られ方が違う。前後の兵は疲れ切っているのに、その周囲だけは隊列を崩していなかった。
一行が、政重の定めた場所へ入る。
「放て」
弓弦が一斉に鳴った。
先頭の馬が前脚から崩れ、騎手を道へ投げ出した。続く馬が身をよじり、後ろの兵を巻き込む。
同時に後方の兵が縄を引いた。
道端に寄せていた倒木が転がり出て、退路を塞ぐ。左右の藪から長柄が突き出された。
「殺すな。馬を射よ!」
一行は狭い道の中で固まった。
矢を避けて藪へ飛び込もうとした者は、長柄に押し返される。前へ進もうにも、倒れた馬が道を塞いでいた。
策は当たった。
政重は中央の武者を見た。
味方の一人が刀を抜いて飛び出そうとする。
「近づくな!」
政重が怒鳴った。
「一人で出るな。長柄を詰めよ!」
あの武者が目当ての存保であっても、近づくつもりはなかった。
十河存保が継いだのは、ただの家ではない。養父の十河一存は「鬼十河」と呼ばれ、畿内の戦場で武名を轟かせた男である。
存保自身の腕が、養父ほどであったかは知らない。
だが、中富川で敗れ、勝瑞城を捨てながら、なお兵をまとめている。それだけで、槍働きに疎い自分が刃を合わせる相手ではなかった。
馬を射て、道を塞ぎ、長柄で囲む。
五人で足りなければ、十人を当てればよい。
一騎打ちなど、策を持たぬ者のすることだった。軍記が好んで飾った話にすぎぬ。
「前を詰めよ。後ろはそのまま動くな!」
政重の命で、左右の長柄が少しずつ迫る。
中央の武者は逃げ道を探していなかった。
丘の上を見ている。
政重が腕を振るたびに弓が鳴り、伝令が各所へ走る。そこが伏兵の頭だと見抜いたのだろう。
武者が短く命じると、一団の一部が北側へ突進した。
「北へ寄せろ!」
政重は弓兵を動かした。
北側で槍と長柄がぶつかり、怒号が上がる。押し返されても退かず、同じ場所へ繰り返し食らいついていた。
力ずくで道を開くつもりか。
政重がさらに兵を寄せようとした瞬間、中央の武者が馬首を返した。
北ではない。
丘の上の政重へ、まっすぐ駆け上がってくる。
「孫六郎様、道は我らが開きまする!」
下から声が飛んだ。
あれが、十河存保か。
「若殿、お退きくだされ!」
玄蕃が馬を寄せた。
政重も手綱を引いた。
戦う必要はない。横へ退き、兵に受けさせればよい。
だが、存保の槍先は政重ではなく、その背後の指物へ向いていた。
存保は逃げるのではない。囲みそのものを壊しに来たのだ。
喉がひどく乾く。ここを退けば囲みが崩れることだけは分かった。
玄蕃が馬を割り込ませた。
槍と槍がぶつかり、玄蕃の身体が大きく傾く。肩から血が走った。
「玄蕃!」
「下がられよ!」
存保は玄蕃を追わず、政重へ槍を繰り出した。
見えている。
だが、どう受ければよいのか、東洋には分からない。
考えるより先に、政重の左手が動いた。
槍を滑らせ、穂先を外へそらす。鐙を踏んで馬を寄せ、すれ違いざまに存保の胴を薙いだ。
存保は馬を流してかわし、石突で政重の肩を打った。
骨まで響いた。
存保はすでに馬首を返している。
「何者だ」
「吉田勝五郎」
「若いな」
「その若造を狙うたのは、そちらであろう」
存保が再び馬腹を蹴った。
二撃目は低い。
政重の馬の前脚を狙っている。
手綱を引く。
馬が身を起こしたところへ、返した穂先が具足を削った。鉄板の隙間を抜けた刃が、脇腹を浅く裂く。
息が詰まる。
東洋の知る先では、存保はここでは死なない。
だが、その先へ続く道は、すでに形を変えていた。
次の穂先がどちらを殺すかなど、もう分からなかった。
兵を呼び、数で押さえればよい。初めから、そのための伏兵だった。
だが存保は、政重が声を上げる間を与えない。
三度目の槍が来る。
今度は肩だ。
なぜか、そう分かった。
存保の腕が動くより先に、政重は鐙を踏み、馬を寄せていた。
穂先を外へ流し、その柄へ自分の槍を重ねる。馬を寄せる勢いごと、存保の手元を巻き落とした。
槍が地へ落ちる。
存保が刀へ手を伸ばすより早く、政重は馬を寄せ、具足の袖をつかんだ。
馬の勢いごと引く。
存保の身体が鞍から外れ、地へ叩き落とされた。
政重も馬から飛び降りた。
存保はすぐに起き上がろうとした。政重はその胸元へ槍先を突きつける。
「終わりだ」
存保は槍先を見ず、政重の顔だけをにらんだ。
「縄を持て!」
兵が駆け寄る。
存保は刀へ手を伸ばしたが、政重がその手首を踏みつけた。
縄を持った兵が、存保の腕を取ろうと身をかがめる。
その時、丘の下で鬨の声が上がった。
北へ寄せられていた兵が向きを変え、丘へ駆け上がってくる。
矢が降った。
政重の護衛が身を伏せ、そのうち一人が倒れる。
その隙に二人、三人と割って入り、存保を引き起こした。
「逃がすな!」
政重は一人を槍で打ち倒した。
もう一人の刀を柄で払い、存保へ手を伸ばす。
だが存保は家臣に両脇を抱えられ、空いた馬の鞍へ押し上げられた。馬上で大きく傾きながらも、手綱へしがみつく。
そのまま藪の中へ消えた。
追おうとした政重を、玄蕃が止める。
「若殿、下が崩れまする!」
見れば、囲みは乱れ、敵兵が隙間へ食い込んでいた。
存保を追えば、味方が崩れる。
政重は歯を食いしばった。
「囲みを立て直せ! 負傷者を下げよ!」
長柄を並べ直し、道へ入った兵を押し返す。
命を飛ばしながら、政重は存保の消えた藪を見た。
あの先は、畑山兵部が危険だと訴えた脇道だった。
◆
存保が脇道へ入った。
人ひとりがようやく通れる細道である。両側から木の枝が迫り、馬上では刀を振るうことも難しい。
前を行く家臣が、足を止めた。
道が静かすぎた。
存保が手綱を引いた、その時だった。
地を這っていた縄が跳ねた。
馬の前脚が払われ、存保は鞍から投げ出された。肩から地へ落ち、湿った土の上を転がる。
それでも、すぐに片膝を立てた。
政重に裂かれた具足から血をにじませながら、刀を抜く。
「押さえよ!」
藪の中から兵部の声が飛んだ。
前後から兵が現れる。
存保は最初の一人を肩で突き飛ばし、続く兵の顔を柄頭で打った。狭い道では、人数を頼みに一度にかかることもできない。
刀が一閃し、長柄の穂先が弾かれた。
「殺すな! 腕を取れ!」
三人が存保の上半身へ組みついた。
存保は一人を振り払い、なお立とうとする。そこへ二人が脚を抱え、ようやく地へ引き倒した。
背へ膝を置かれても、刀を離さない。
兵たちは指を一本ずつ開かせ、ようやく柄を奪った。さらに肩を押さえ、両腕へ縄を巻く。
「放せ!」
存保は身をよじった。
五人がかりで押さえつけても、縄が軋んだ。
兵部は藪から出ると、地に組み伏せられ、荒い息を吐く存保を見下ろした。
脇道へ置かれた兵は十人。
足りぬと進言した数だった。
それでも、政重に馬から落とされ、傷を負った存保一人を捕らえるには、かろうじて足りた。
囲みを立て直した政重のもとへ、脇道から使者が駆けてきた。
「若殿! 兵部殿より申し上げまする。十河存保、生け捕りにございます」
政重は、自分の両手を見た。
存保を地へ落とした重みが、まだ掌に残っている。
東洋の記憶にはない重みだった。
お読みいただき、ありがとうございました。
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■『土佐物語』の一騎打ち
『土佐物語』は、長宗我部氏の興亡を描いた土佐最大の軍記物語です。吉田孝世によって宝永五年(1708)に完成したもので、作中の合戦から百年以上を経て編まれました。したがって、当時の出来事を伝える一方、人物の武勇や合戦を物語として描いた軍記でもあります。
軍勢同士が入り乱れる戦も、軍記の中では名のある武将同士の激突によって象徴的に描かれます。しかし、実際の戦場で行われた一騎打ちは、互いに名乗りを上げて正々堂々と勝負するものばかりではなかったでしょう。
本話でも、政重(東洋)は一騎打ちを望んでいません。兵で道を塞ぎ、弓と長柄で存保を捕らえようとしています。存保も勝負を挑んだのではなく、伏兵を崩すため、その指揮を執る政重を狙いました。その結果、二人だけが刃を交えることになります。




